昼餉の支度
しばらくして、二人は立ち上がった。
ととのいの余韻が、まだ身体の奥に残っている。
だが、頭は冴え、魔力の流れはこれまでになく澄んでいた。
「……少し、魔法を試してもいいかな?」
そう切り出したのはジュリアだった。
声には、先ほどまでの硬さはなく、確かめるような静けさがあった。
「はい。無理のない範囲で」
クラウドは頷き、少し距離を取る。
ジュリアは深く息を吸い、掌を前に差し出した。ジュリアの魔法属性は火。派手な見た目や効果は無いが、繊細なコントロールがジュリアの得意とするところだ。
サウナを経験した今、ジュリアは一つの目覚めを感じていた。
いつもの火ではない。意識を“熱”そのものに向ける。
――集める。
――留める。
――動かさない。
次の瞬間、空気がきしりと音を立てた。
掌の上に、透明な結晶が生まれる。
淡く光を反射する、小さな氷塊だった。
「……できた……」
ジュリア自身が、驚いたように呟く。
クラウドは目を見開き、すぐに理解した。
「なるほど……“冷やす”んじゃない。熱を、動かさないんですね」
「ええ……火も氷も、同じだったのね」
ジュリアは、氷を消しながら続ける。
「火は熱を集めて解放する。氷は……熱を奪って留める」
「だから、制御が同じ……」
クラウドは納得したように頷いた。
「癒しの水は……まだ難しいかな」
「無理にやらなくていいと思います。水の中でも、分野がありますから」
ジュリアは小さく笑った。
「代わりに……これは、どうかしら」
そう言って、彼女は一歩、後ろに下がった。
――いや、“下がった”ように見えただけだった。
次の瞬間、そこにいたはずの気配が、ふっと薄れる。
視線を向けていなければ、存在に気づけない。
木々の影、石の冷たさ、風の流れに、溶け込むように。
「……すごい」
クラウドが思わず声を漏らす。
ジュリアは、まるで景色の一部のように立っていた。
「周囲に“合わせる”感じが、前よりずっと自然なの」
「隠す、じゃなくて……同化ですね」
「ええ。存在を消すというより、境界を曖昧にする……」
数歩動くと、また自然に姿を現した。
「これなら……無理をしなくても、誰にも気づかれずに動けそう」
「隠密としては……格段に洗練されましたね」
クラウドは率直に言った。
ジュリアは、しばらく自分の掌を見つめていた。
「……不思議ね」
「?」
「今まで、生き延びるために身につけてきた技が……」
「……」
「今は、“生きている”って感じがする」
クラウドは、その言葉に静かに微笑んだ。
「それは……とても大事な変化だと思います」
ジュリアは、ゆっくりと頷く。
火と氷。
顕と隠。
対極に見える力が、ひとつの理解に収束していく。
その中心にあるのは、
“制御”ではなく、“調和”だった。
春の光が、二人の足元に落ちる。
これから向かう場所は、危険に満ちている。
だが、確かに――彼女は、もう以前のジルではなかった。
世界に溶け込みながら、なお確かに在る者として、
ジュリア・ブリュネルは、静かに新しい一歩を踏み出していた。
成果の確認が一段落すると、クラウドは小さく手を叩いた。
「……うん。問題なさそうですね。では、そろそろ昼食の準備に取りかかりましょうか」
その声音は、特別なことを言っているわけではない、ごく自然な提案だった。
だが、今しがた魔法の質そのものが変わる瞬間を見た後では、その落ち着きがひどく頼もしく映る。
ジュリアは一瞬きょとんとしたあと、すぐに頷いた。
「……はい。クラウド君、お手伝いしますよ」
二人は家の中へ戻る。
卓上には、サリウ伯爵が持参していた籠が置かれていた。
根菜、葉物、香味野菜、塩漬け肉。
質実だが、扱い方次第でいくらでも旨くなる素材ばかりだ。
「今日は野菜多めのポトフにしましょう。身体も落ち着きますし」
「いいですね」
ジュリアはすぐに袖をまくり、包丁を取った。
その手捌きは見事だった。
無駄がなく、音も立てず、切り口は揃っている。
――生き延びるために身につけた技。
だが今は、誰かのために使われている。
一方クラウドは、鍋に水を張り、火にかける。
炎は強すぎず、弱すぎず。
だが、ただの火ではない。
火力と同時に、鍋の内部にかかる圧を微細に調整している。
沸騰は早いが、暴れない。
「クラウド君……これ、普通じゃないね」
野菜を刻みながら、ジュリアが思わず呟く。
「え? ああ、少しだけ圧をかけてます。煮込み時間を短くしたくて」
「……“少しだけ”で済む話ではない気がする…」
クラウドは照れたように笑うだけだった。
外では――
戻ってきたレオニダス公爵。
サリウ伯爵、ルディウス。
バルグとソリス。
五人は四阿のロッキングチェアに身を預け、再び“ととのい”の余韻に沈んでいた。
「……ああ……まだ来る……」
「風が……骨の裏を撫でるようだ……」
レオニダスは目を閉じたまま、深く息を吐く。
「昼だというのに、まるで夜明け前の静けさだな」
「それは閣下が珍しく黙っているからでは?」
サリウの軽口にも、公爵は笑わない。
「……否。今は、言葉が邪魔だ」
誰も、それ以上は喋らなかった。
再び家の中。
鍋の中では、野菜が崩れず、芯まで柔らかくなっていく。
別の火口では、厚切りの肉が焼かれていた。
表面だけを高温で焼き締め、内部は休ませながら火を通す。
これもまた、火力制御の賜物だ。
パンは石板の上で温められ、表面が軽く弾ける。
――香りが、家の中に満ちていく。
「……すごい」
ジュリアは、配膳の手を止めて思わず見入った。
「見事と言う他ないわね。料理まで魔法で……」
「フフ……というより、手抜きですね」
クラウドはそう言いながら、鍋の蓋を閉じた。
「時間を短くすれば、その分、皆と食べられますから」
その言葉に、ジュリアは小さく微笑む。
彼女は皿を並べ、スープを注ぎ、焼き上がった肉を切り分ける。
動きは静かで、だが迷いがない。
まるで、こうして誰かのために食卓を整える時間が、ずっと前から当たり前だったかのように。
やがて、すべてが整う。
湯気の立つポトフ。
香ばしいステーキ。
温められたパン。
クラウドは窓を開け、外へ声を掛けた。
「皆さん、昼食ができましたよ」
春の光の中、
ととのいの余韻を纏ったまま、
彼らはゆっくりと、食卓へ戻ってくる。
それは、戦でも策でもない。
だが確かに――生きるための、大切な時間だった。




