表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
206/217

昼餉の支度

 しばらくして、二人は立ち上がった。


 ととのいの余韻が、まだ身体の奥に残っている。

 だが、頭は冴え、魔力の流れはこれまでになく澄んでいた。


「……少し、魔法を試してもいいかな?」


 そう切り出したのはジュリアだった。

 声には、先ほどまでの硬さはなく、確かめるような静けさがあった。


「はい。無理のない範囲で」


 クラウドは頷き、少し距離を取る。


 ジュリアは深く息を吸い、掌を前に差し出した。ジュリアの魔法属性は火。派手な見た目や効果は無いが、繊細なコントロールがジュリアの得意とするところだ。


 サウナを経験した今、ジュリアは一つの目覚めを感じていた。

 いつもの火ではない。意識を“熱”そのものに向ける。


 ――集める。

 ――留める。

 ――動かさない。


 次の瞬間、空気がきしりと音を立てた。


 掌の上に、透明な結晶が生まれる。

 淡く光を反射する、小さな氷塊だった。


「……できた……」


 ジュリア自身が、驚いたように呟く。


 クラウドは目を見開き、すぐに理解した。


「なるほど……“冷やす”んじゃない。熱を、動かさないんですね」

「ええ……火も氷も、同じだったのね」


 ジュリアは、氷を消しながら続ける。


「火は熱を集めて解放する。氷は……熱を奪って留める」

「だから、制御が同じ……」


 クラウドは納得したように頷いた。


「癒しの水は……まだ難しいかな」

「無理にやらなくていいと思います。水の中でも、分野がありますから」


 ジュリアは小さく笑った。


「代わりに……これは、どうかしら」


 そう言って、彼女は一歩、後ろに下がった。


 ――いや、“下がった”ように見えただけだった。


 次の瞬間、そこにいたはずの気配が、ふっと薄れる。


 視線を向けていなければ、存在に気づけない。

 木々の影、石の冷たさ、風の流れに、溶け込むように。


「……すごい」


 クラウドが思わず声を漏らす。


 ジュリアは、まるで景色の一部のように立っていた。


「周囲に“合わせる”感じが、前よりずっと自然なの」

「隠す、じゃなくて……同化ですね」

「ええ。存在を消すというより、境界を曖昧にする……」


 数歩動くと、また自然に姿を現した。


「これなら……無理をしなくても、誰にも気づかれずに動けそう」

「隠密としては……格段に洗練されましたね」


 クラウドは率直に言った。


 ジュリアは、しばらく自分の掌を見つめていた。


「……不思議ね」

「?」

「今まで、生き延びるために身につけてきた技が……」

「……」

「今は、“生きている”って感じがする」


 クラウドは、その言葉に静かに微笑んだ。


「それは……とても大事な変化だと思います」


 ジュリアは、ゆっくりと頷く。


 火と氷。

 顕と隠。


 対極に見える力が、ひとつの理解に収束していく。


 その中心にあるのは、

 “制御”ではなく、“調和”だった。


 春の光が、二人の足元に落ちる。


 これから向かう場所は、危険に満ちている。

 だが、確かに――彼女は、もう以前のジルではなかった。


 世界に溶け込みながら、なお確かに在る者として、

 ジュリア・ブリュネルは、静かに新しい一歩を踏み出していた。


 成果の確認が一段落すると、クラウドは小さく手を叩いた。


「……うん。問題なさそうですね。では、そろそろ昼食の準備に取りかかりましょうか」


 その声音は、特別なことを言っているわけではない、ごく自然な提案だった。

 だが、今しがた魔法の質そのものが変わる瞬間を見た後では、その落ち着きがひどく頼もしく映る。


 ジュリアは一瞬きょとんとしたあと、すぐに頷いた。


「……はい。クラウド君、お手伝いしますよ」


 二人は家の中へ戻る。


 卓上には、サリウ伯爵が持参していた籠が置かれていた。

 根菜、葉物、香味野菜、塩漬け肉。

 質実だが、扱い方次第でいくらでも旨くなる素材ばかりだ。


「今日は野菜多めのポトフにしましょう。身体も落ち着きますし」

「いいですね」


 ジュリアはすぐに袖をまくり、包丁を取った。


 その手捌きは見事だった。

 無駄がなく、音も立てず、切り口は揃っている。


 ――生き延びるために身につけた技。

 だが今は、誰かのために使われている。


 一方クラウドは、鍋に水を張り、火にかける。


 炎は強すぎず、弱すぎず。

 だが、ただの火ではない。


 火力と同時に、鍋の内部にかかる圧を微細に調整している。

 沸騰は早いが、暴れない。


「クラウド君……これ、普通じゃないね」


 野菜を刻みながら、ジュリアが思わず呟く。


「え? ああ、少しだけ圧をかけてます。煮込み時間を短くしたくて」

「……“少しだけ”で済む話ではない気がする…」


 クラウドは照れたように笑うだけだった。


 外では――


 戻ってきたレオニダス公爵。

 サリウ伯爵、ルディウス。

 バルグとソリス。


 五人は四阿のロッキングチェアに身を預け、再び“ととのい”の余韻に沈んでいた。


「……ああ……まだ来る……」

「風が……骨の裏を撫でるようだ……」


 レオニダスは目を閉じたまま、深く息を吐く。


「昼だというのに、まるで夜明け前の静けさだな」

「それは閣下が珍しく黙っているからでは?」


 サリウの軽口にも、公爵は笑わない。


「……否。今は、言葉が邪魔だ」


 誰も、それ以上は喋らなかった。


 再び家の中。


 鍋の中では、野菜が崩れず、芯まで柔らかくなっていく。

 別の火口では、厚切りの肉が焼かれていた。


 表面だけを高温で焼き締め、内部は休ませながら火を通す。

 これもまた、火力制御の賜物だ。


 パンは石板の上で温められ、表面が軽く弾ける。


 ――香りが、家の中に満ちていく。


「……すごい」


 ジュリアは、配膳の手を止めて思わず見入った。


「見事と言う他ないわね。料理まで魔法で……」

「フフ……というより、手抜きですね」


 クラウドはそう言いながら、鍋の蓋を閉じた。


「時間を短くすれば、その分、皆と食べられますから」


 その言葉に、ジュリアは小さく微笑む。


 彼女は皿を並べ、スープを注ぎ、焼き上がった肉を切り分ける。

 動きは静かで、だが迷いがない。


 まるで、こうして誰かのために食卓を整える時間が、ずっと前から当たり前だったかのように。


 やがて、すべてが整う。


 湯気の立つポトフ。

 香ばしいステーキ。

 温められたパン。


 クラウドは窓を開け、外へ声を掛けた。


「皆さん、昼食ができましたよ」


 春の光の中、

 ととのいの余韻を纏ったまま、

 彼らはゆっくりと、食卓へ戻ってくる。


 それは、戦でも策でもない。

 だが確かに――生きるための、大切な時間だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ