ジュリア・ブリュネルの再生
ロッキングチェアに身を預けたジル――ジュリア・ブリュネルは、そっと目を閉じた。
次の瞬間だった。
足元の感覚が、ふっと消える。
重さがほどけ、身体という枠組みが曖昧になり、意識だけが静かに持ち上げられていく。
――浮いている。
確かな浮遊感。
同時に、後頭部の奥がぐらりと揺れ、そこから甘い痺れのような恍惚が波紋となって広がった。
まぶたの裏に、白い光が滲む。
強い光ではない。春の陽を薄絹越しに見たときのような、やわらかな輝き。
頬を撫でる微風。
胸を満たしては抜けていく呼吸。
遠く聞こえる薪のはぜる音さえ、輪郭を失い、溶けていく。
すべてが心地よい。
思考を保とうとする意志が、静かにほどけていく。
(……考えなくていい)
そう理解した瞬間、ジュリアは“考える”ことそのものを手放した。
深い酩酊。
だが、それは意識を濁らせるものではない。むしろ、澄みきっていく感覚だった。
そして――
いつの間にか、理解が訪れる。
自分の身体を形作るもの。
骨も、血も、皮膚も、呼吸も。
それらはすべて、土から生まれ、水に養われ、空気を取り込み、光を浴びて育まれてきたものだ。
自分は、世界の外に立つ存在ではない。
世界の中で、世界そのものによって編まれてきた一部。
やがてこの身体は、また土に還り、この心も、ライフストリームの雄大な流れの一条として溶け込んでいく。
それは恐怖ではなかった。
むしろ、当然の帰結であり、安らぎだった。
――不意に、沈んでいた記憶の底が、静かに開いた。
戦火。
焦げた土の匂い。
血と煙に覆われた空。
父は剣を抜いたまま斃れ、兄は名を呼ぶ間もなく倒れ、家臣たちは逃げ場のない場所で、次々と命を落とした。
母と姉たちは――
守られるはずの場所で、あまりにも無惨に、壊されていた。
叫び声は、もう思い出せない。
ただ、崩れ落ちる音と、静まり返る後だけが残っている。
ジルは隠れた。
土の中に。
瓦礫の影に。
死体の影に。
食べるものはなく、水もなく、昼と夜の区別すら失いながら、ただ息を潜めた。
生き延びるためではなかった。
――死ねなかっただけだ。
何人もの死を見送り、何も出来なかった自分を抱えたまま、心は、そこで一度、確かに死んでいた。
そして、拾われた。
偶然のように、必然のように。
あの男――レオニダスに。
それ以来、ジルは“生きている形”を真似てきただけだった。
忠誠も、役割も、命令も。
すべては空白を埋めるための仮初。
だが今――
熱と静寂の狭間で、その死んだはずの心が、確かに、深く息をした。
(……私は、まだ……ここにいる)
世界は、拒まなかった。
壊れたままの自分さえ、その大きな流れの中に、そっと抱き留めていた。
――世界は、最初から拒んでなどいなかった。
ゆっくりと、ジュリアは目を開ける。
長い時間が経ったような、それともほんの一瞬だったような。
頬に触れる、ひやりとした感覚。
そこで初めて、自分が涙を流していたことに気づいた。
悲しみではない。
悔恨でもない。
自分という一個の人間が抱えてきた思考や悩みが、どれほど小さなものだったか。
そして、世界がどれほど広く、深く、大きかったか。
その世界の中に、自分は最初からいて、ずっと、切り離されることなく“ひとつ”だった。
その事実に辿り着いたことへの、静かな感涙だった。
「……」
言葉は、要らなかった。
視線を横に向けると、すでに目を覚ましていたクラウドが、ロッキングチェアに座ったまま、穏やかに微笑んでいた。
ジルの頬を伝った涙に、クラウドは気づいていた。
だが、その理由を問うことはしなかった。
四阿の下、揺れる木漏れ日の中で、ロッキングチェアはきい、と小さく鳴り、やがて静まる。
泉の水音と、遠くの鳥の声だけが、ゆるやかに流れていた。
「……ととのった気分は、どうでしたか?」
クラウドは、あくまでいつも通りの声でそう尋ねた。
慰めでも、詮索でもない。ただの確認。
ジルはすぐには答えなかった。
胸の奥を探るように、しばらく視線を落とし、それからゆっくりと口を開く。
「……とても、心地が良くて……何も、考えられなかったわ」
言葉を選びながら、静かに続ける。
「……でもね。不思議なことに……自然と、浮かび上がってきたの」
「……?」
「ずっと、心に蓋をしていた記憶が」
ジルは、かすかに唇を噛んだ。
「とても辛くて……悲しくて……思い出したくなかった記憶」
その言葉を聞いた瞬間、クラウドの表情が曇る。
「……ごめんなさい。そんなつもりじゃ……」
サウナ体験を勧めたことを、クラウドは素直に悔いた。
誰かの痛みを、無理やり引きずり出してしまったのではないかと。
だが、ジルは首を横に振った。
「いいえ。違うの」
その声は、もう震えていなかった。
「サウナのおかげよ」
ジルは顔を上げ、澄んだ翡翠色の瞳で空を見つめる。
「亡くなった家族も……数えきれないほど失われた命も……」
「……?」
「みんな、世界と一つだって、分かったの」
風が、そっと彼女の髪を揺らす。
「土になって、水になって、空気になって……光になって」
「……」
「そして、そこに……私もいる」
ジルは、胸に手を当てた。
「今は離れているけれど……私たちは、最初からずっと、一つだったのね」
しばらくの沈黙の後、彼女はクラウドを見て、はっきりと微笑んだ。
「ありがとう、クラウド君」
その言葉は、礼ではなく、確かな実感だった。
クラウドは一瞬、言葉に詰まり、そして小さく笑った。
「……それなら、良かったです」
それ以上、何も言わなかった。
言葉を重ねる必要は、もうなかった。
春の風が、二人の間を静かに通り抜けていった。




