昼前の岩風呂
泉の冷水に身を沈めたまま、クラウドはふとジル――ジュリアの様子に目を向けた。
顔色は悪くない。呼吸も落ち着いている。
だが、念のためだ。
クラウドはそっと、ジルの手首を取った。細い脈に指を当て、意識を集中する。
――四十前後。
サウナに入る前の数値まで、きれいに戻っている。
「……よかった」
思わず、安堵の息が漏れた。
熱に強いとはいえ、初体験だ。どこかで無理が出ていないか、クラウドはずっと気にしていた。
ジルは小さく首を傾げる。
「もう……良いのですか」
「はい。心拍も落ち着いています。そろそろ上がりましょう」
そう告げると、クラウドが先に立ち、二人は泉を上がった。
濡れた下姿のままでは冷える。
クラウドは指先を軽く払う。
水分除去の魔法が、瞬時に発動した。
刹那、ジルの身体の表面を、羽毛が撫でるように、温かみが通り抜けた。
ふわりと空気が揺れ、ジルの髪や身体から水気が消える。キャミソールの布地も湿り気が抜け落ち、たちまち軽さを取り戻した。
「……!」
ジルは驚いて、思わず自分の胸元を押さえる。
「大丈夫です。乾かしただけですよ」
「……わ、分かっています……でも……」
クラウドはついでに、壁に掛けられたポンチョの汗と水分も除去する。
耳まで赤くしながら、ジルは慌ててポンチョを頭から被り直した。
クラウドはそれ以上何も言わず、自然な所作で四阿の方へと導く。
「…簡単そうにすごい魔法を使うんだね。クラウド君は」
「…魔法は得意なんですよ」
はにかんでそう応え、ジルの視線を受け流すクラウド。
岩風呂の縁では、すでに一行が足湯の姿勢で腰掛けていた。
湯に浸した足下から、白い湯気が立ち上っている。
「ずいぶんと遅かったな」
レオニダス公爵が、からかうように声を掛ける。
「ええ。ジルさん、思った以上に熱に強いみたいで」
「ほう……」
バルグとソリスが、興味深そうにジルを見る。
当の本人は、フードの奥で小さく身を縮めていた。
クラウドは四阿の端に置かれたロッキングチェアを指し示す。
「ジルさん、ここに横になってください。あとは、何もしなくていいです。身体を預けて、ゆっくり呼吸するだけで」
ジルは一瞬ためらったが、小さく頷き、言われた通りに椅子へ身を横たえた。
クラウドは一歩下がり、はっきりと告げる。
「では、皆さん。これから僕とジルさんは“ととのい”に入ります」
「ほう」
「ジルさんの集中が途切れないよう、少し距離を取ってください。声掛けも、控えてもらえると助かります」
その声音は、年相応の柔らかさを保ちながらも、不思議と説得力があった。
レオニダスは一瞬だけ目を細め、それから小さく笑った。
「クック……わかっている。邪魔はせんよ」
サリウとルディウスも無言で頷く。
バルグとソリスは、再び湯船に肩まで浸かりなおした。
四阿には、春風と、微かな木の軋む音だけが残る。
クラウドはジルの傍らに腰を下ろし、低く、穏やかに言った。
「大丈夫です。さっきの泉と、サウナの熱は、ちゃんと身体の中で噛み合っています。あとは……委ねるだけです」
ジルは目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
その表情から、緊張が一枚ずつ剥がれていく。
こうして――
ジルにとって初めての“ととのい”が、静かに始まった。
————
四阿から離れた岩風呂では、穏やかに静けさがほどけていく。
立ち上る湯気の向こうで、レオニダス公爵は腕を組み、遠くの山並みを眺めながら言った。
「さて……今日の予定は、メッツァ村だったな」
その声には、先ほどまでの恍惚の余韻がまだ残っている。
サリウ伯爵が応じる。
「はい。日暮れまでにメッツァ村へ到着し、一泊。明朝、マハザールの洞穴へ向けて出立する段取りです」
隣で水気を拭いていたルディウスが、淡々と補足した。
「メッツァ村を出れば、洞穴までは三十分ほど。夜明けと同時に動けば、陽が高くなる前に入口へ辿り着けます」
「ふむ……」
レオニダスは顎に手を当て、ほんの少し考え込む素振りを見せたあと、唐突に口角を上げた。
「では、もう一度サウナに入ってから向かっても、時間には余裕があるな」
一瞬、場が静まり返る。
サリウが目を細め、半ば呆れ、半ば楽しげに言った。
「……閣下。よほどお気に召したご様子ですな」
「ハッハッハ!」
レオニダスは大きく笑い、胸を張った。
「なになに。もう一度入れば、さらに魔法の巡りが良くなるかと思ってな。風の流れが……まだ奥に続いている気がするのだ」
その言葉に、バルグが低く唸る。
「確かに……さっきよりも、地の感触がはっきりしている。今なら、もう一段深く潜れそうだ」
「俺もだ」
ソリスが短く頷いた。
「火が……散らばらず、一本の筋になりかけている」
三人の様子を見て、サリウは静かに頷いた。
「確かに……私たちも二度、三度と入る度理解が深まりましたな」
その視線が、自然とルディウスに向く。
ルディウスは少し考えながらも、はっきりと答えた。
「ええ。このサウナは“魔法を与える”ものじゃありません。身体と魔力が噛み合う感覚を、思い出させるだけです。しかし……繰り返すほど、その感覚は深まりましょう」
「ほう……」
レオニダスは満足そうに頷き、手を叩いた。
「決まりだな。もう一巡、だ。サリウ、よいか?」
「……ええ。旅立つ前に、身体と魔力を万全に整えておくのは良いことですな」
サリウはそう言いながら、ちらりとジル――ジュリアの方を見る。
ロッキングチェアに横たわる彼女は、まだ深い“ととのい”の余韻の中にあり、呼吸は静かで穏やかだ。
「ジル殿の……目覚めも気になるところですがね」
「フフッ……そうだな」
レオニダスは即座に言った。
「だがクラウド少年に任せよう。今日は、もうジルは十分すぎるほど感情を見せた。あれは……ジルにしては、出来すぎだ」
その言葉に、バルグもソリスも黙って同意した。
春の風が四阿を抜け、若葉を揺らす。
薪の残り香が、再びサウナ小屋の方から漂ってきた。
それは、ただの休息ではない。
これから踏み込む“深淵”へ向けて、心と身体を研ぎ澄ますための、もう一度の準備だった。
サリウは小屋の方へ視線を向け、小さく頷いた。
「では……二巡目、行きましょう。終わったら、昼食をとり出立の準備です」
こうして一行は、もう一度“熱と静寂”の中へと足を向ける。
その先に待つのが、癒しなのか、試練なのか――
誰も、まだ知らなかった。




