ジュリアとジル
四阿に満ちていた余韻が、ふと張り詰めた静けさへと変わった。
黒いローブの奥、深く影を落としていたフードに、細い指が掛かる。
一瞬のためらいのあと――ジュリアは、ゆっくりとそれを外した。
さらり、と。
陽を受けて零れ落ちたのは、褐色を帯びた長い髪だった。
濃淡のあるその色は、土と木肌を思わせ、風に揺れるたび柔らかな光を含む。
切れ長の睫毛の下に現れたのは、翡翠のような深い緑の瞳。
澄み、しかし強い意志を秘めたその眼差しに、場の空気が一瞬止まった。
「……」
サリウ伯爵が、思わず息を呑む。
ルディウスもまた、言葉を失ったまま、ただ目を見開いていた。
社交場で幾度となく着飾った女性を見てきた二人でさえ、その美貌には即座に反応してしまったのだ。
「久しぶりに……お前の顔を見たな」
沈黙を破ったのは、レオニダスだった。
その声音には、驚きよりも、どこか懐かしむような響きが混じっている。
ジュリアは、はっとして視線を伏せる。
「……あ、あまり見ないでください」
耳まで赤く染め、両手で髪を押さえる仕草は、これまでの無口な側近“ジル”の姿からは想像もつかないほど、年相応だった。
「……おい」
ようやく我に返ったバルグが、低い声で呟く。
「お前……女だったのか」
「……ジ、ジュリア?」
ソリスが名を呼ぶと、ジュリアは小さく首を振った。
「……いままで通り、“ジル”で結構です」
その声音は控えめだが、はっきりしている。
場の空気が、わずかに緩んだ。
しかし次の瞬間、ジュリアは胸の前でローブを掴み、視線を伏せたまま言う。
「……レオニダス様。私は……皆様のように、その……そういった格好になるのは……」
言葉を探すように口籠り、肩がわずかに竦む。
「……無理、です」
レオニダスは一瞬考え、そして首を横に振った。
「うむ。恥をかかせるつもりは毛頭ない」
それから視線をクラウドへ向ける。
「少年。どうするのがよい?」
突然振られた問いに、クラウドは一瞬瞬きをし、それからすぐに頷いた。
「そういうことであれば――僕のサウナポンチョを使ってください」
「ポンチョ……?」
「はい。サイズは少し小さいかもしれませんが、サウナに入る分には問題ありません。身体を覆えますし、熱の巡りも妨げません」
ジュリアは驚いたようにクラウドを見つめ、それから小さく息を吸った。
「……わかりました」
その了承は、ほとんど囁きに近かった。
クラウドに案内され、彼女は家の中の一室へと消えていく。
ほどなくして――
再び現れたジュリアは、濃い青色のポンチョを身にまとっていた。
丈は膝ほどまで。陽を受けた白い足がきらめいて目に眩しい。
やや大きめの襟元から、褐色の髪がこぼれ、全体に柔らかな印象を与えている。
「……」
一同から、思わず漏れる息。
「ほう……」
「……なるほど」
誰ともなく感嘆が零れ、空気がふっと緩む。
「な、何ですか……」
ジュリアは気恥ずかしそうに視線を伏せながら、そっと両手で裾を整えた。
その姿は、戦場の影に生きてきた側近ではなく――ひとりの、まだ若い女性のものだった。
そして、レオニダスは小さく頷いた。
「よし。では今度こそ――“次の一歩”だな。クラウド少年」
レオニダス公爵は、穏やかな声で言った。
「すまないが、もう一度ジュリアに――いや、ジルに、サウナの入り方を教えてやってくれぬか」
「はい。もちろんです」
クラウドは即座に、いつもの明るさで応じた。
それを見て、レオニダスは満足げに頷く。
「少年と二人なら、ジルも余計な気後れはせんだろう。なに、戦場で鍛えた度胸も、こういう時ばかりは役に立たん。気楽にな」
その言葉に、ジュリアは一瞬きょとんとし、それから小さく、恥ずかしそうに頷いた。
「……はい」
視線を伏せたまま、ポンチョの裾を握り直す。
「ではジルさん、行きましょう」
クラウドが軽く手招きすると、ジュリアは一歩、また一歩と歩き出す。
二人の小さな背中が、石畳を抜けてサウナ小屋へ向かっていく。
その後ろ姿を見送りながら、他の者たちはゆっくりと岩風呂へ身を沈めた。
湯は、深く澄み、ほのかな湯気を立てている。
「……ふぅ……」
バルグが思わず声を漏らす。
ロッキングチェアに横たわって冷えた身体に、温い湯がじわりと沁み込んでくる。
まるで、筋肉の一本一本が解け、骨の奥に溜まっていた緊張が溶け落ちていくようだった。
「これは……危険だな」
ソリスが、半ば冗談めかして呟く。
「戦場帰りにこれを知っていたら、酒など要らん」
「まったくだ」
レオニダスも、肩まで湯に浸かりながら深く息を吐いた。
「身体が軽い。いや……軽すぎるくらいだ。剣を持たずとも、風の流れが分かる気がする」
その言葉に、サリウ伯爵は小さく笑った。
「閣下、それが“ととのう”ということです。魔法も、剣も、まずは己の内を整えねば始まりませんからな」
湯の中で、話題は自然と先ほどの出来事へ移っていく。
「……しかし」
バルグが、岩に肘を掛けて言った。
「まさか、ジルが女だったとはな」
「しかも、あれほどとは……」
ソリスが言葉を濁すと、レオニダスが鼻で笑った。
「拾った時は煤や砂埃に塗れ、真っ黒な子どもであったがな。ふっふ」
湯面が、かすかに揺れる。
「十年前だ。戦の最中、瓦礫の下で息を殺していた子どもがいた。助けたのが、あれだ」
誰も口を挟まない。
湯の音と、遠くの鳥の声だけが場を満たす。
「名も、家も、守るものもすでになかった。ならばと、剣を与え、影に置いた。女であることを隠すのも、彼奴なりの生きるための知恵だったのだろう」
レオニダスはそう言って、湯を一掬いすくい、静かに落とした。
「……だが」
その声音が、わずかに柔らぐ。
「ここでは、少し違う顔をしてもよい。この場所は、そういう力を持っておる」
サウナ小屋の方角を、誰ともなく見やる。
薪のはぜる音は聞こえない。
だが、そこに“熱”が満ちていることを、全員が感じていた。
岩風呂の湯に浸かりながら、彼らは理解し始めていた。
――この地で起きていることは、ただの奇妙な入浴法などではない。
身体を解き、魔力を澄ませ、人を、人として立ち返らせる何かだと。
そしてその中心に、あの少年がいるという事実を。




