ジュリアの決意
ロッキングチェアが、かすかに軋む。
最初に目を開いたのは、バルグだった。
分厚い胸が、ゆっくりと上下する。まるで長い潜水から浮上してきたかのように、深く、確かに息をする。
「……なんだ、これは……」
低く、掠れた声。
だが、そこに戸惑いはなく、ただ率直な驚きがあった。
彼は両の手を見つめる。岩のような掌、節くれ立った指。その一つひとつに、これまで感じたことのない“重さの質”が宿っているのを、はっきりと自覚していた。
地面に足を下ろすと、土の感触が、骨を通して腹の奥まで伝わってくる。
硬さ、湿り、温度。
それらが曖昧な情報ではなく、意味を持った“語りかけ”として届く。
「……地面が、呼吸している……」
思わず漏れた独り言に、隣から低い笑い声が返ってきた。
ソリスだ。
彼もまた、目を開き、ゆっくりと身体を起こしていた。
鋭さを内に秘めたその瞳は、しかし今、刃ではなく、炎の芯のような静けさを帯びている。
「……世界が、近いな」
短い言葉。
だが、その一言に、彼の全感覚が集約されていた。
ソリスは指先を見つめ、そっと空を切る。
そこに火はない。
だが、火の“理”が、確かに流れているのが分かった。
燃え広がる前の熱。
爆ぜる直前の緊張。
炎が形を得る、その刹那の選択。
「……火は、荒ぶるものじゃない。意志を持った“流れ”だ」
呟くような言葉に、ソリス自身がわずかに驚いた表情を見せる。
理解したのではない。
“繋がった”のだ。
一方、バルグはゆっくりと立ち上がり、裸足のまま地面を踏みしめた。
「……なるほどな」
低く、納得したような声。
「力で抑え込むのが土じゃない。支え、受け止め、形を与える……だからこそ、崩れぬ」
彼の背後で、風が一筋、静かに流れた。
それを感じ取り、レオニダスが目を細める。
先ほどまで、ただ“通り過ぎるもの”だった風が、今は違う。
重さがあり、速さがあり、意図がある。
葉を揺らし、肌を撫で、音を運ぶ。
それらすべてが、一本の線として、はっきりと読める。
「……風は、刃にも盾にもなる。だが本質は――“道”だな」
自分でも驚くほど、自然に言葉が出た。
風は、遮るものを避け、流れ、届くべきところへ至る。
無理にねじ伏せるものではない。
レオニダスは、静かに笑った。
「……長く生きてきたつもりだったが、ようやく“立ち位置”が分かった気がする」
バルグとソリスは、視線を交わし、同時に頷いた。
「自分の輪郭が、はっきりした」
「世界と、切れていないことが分かる」
それは昂揚ではない。
誇示でもない。
ただ、深い納得だった。
四阿の下、春の風が再び流れる。
三人の呼吸と、風と、土と、火が、互いを乱すことなく、静かに重なっていった。
――そして彼らは、理解する。
これは“強くなる”ための体験ではない。“正しく在る”ための、原点回帰なのだと。
四阿の影――
風が一度、そこで“ほどけた”。
「……そこだ、ジル」
低く、しかし確信に満ちた声。
レオニダスは椅子に身を預けたまま、視線だけをわずかに動かした。
視線の先には、柱の陰、布と影が重なる曖昧な空間。
だが今の彼には、そこにある“空白”が、はっきりと形を持って見えていた。
風は嘘をつかない。
遮られ、避けられ、細められた流れは、隠そうとした意思そのものを映し出す。
「……気配を殺すのは上手くなったな。だが、風の道は誤魔化せん」
影が、微かに震えた。
やがて、黒いローブを着た小柄な人影が柱の陰から僅かに見えた。
フードの縁が揺れ、淡い光が頬に落ちた。
「……」
声はない。
だが、その沈黙の質が、先ほどまでとは違っていた。
レオニダスは、ゆっくりと立ち上がる。
「見ていただろう」
否定を許さぬ断定。
「我ら三人が、どうなったかを。……いや、“何に触れたか”を」
ジル――否、ジュリア・ブリュネルは、唇を噛んだ。
魔法士として、いや、一個の生き物として、理解してしまったからだ。
あの三人の“在り方”が、明らかに変わったことを。
魔力量ではない。
技術でも、経験でもない。
もっと根源的な――
世界との接続の仕方が、塗り替えられていた。
「……閣下」
彼女は声を出した。
低く、掠れ、慎重な声。
「私は……結構です。あれは、あなた方のような方が……」
「違う」
即座に、遮られた。
「だからこそだ、ジュリア」
その名を口にしたのは、この場でただ一人。
彼女が“ジル”である以前の名を知る唯一の存在。
女性の名が明かされた瞬間、皆がレオニダス公爵を振り返り、そしてジュリアと呼ばれた者を凝視した。
ジュリアは、肩を強張らせた。
天涯孤独。
それが、彼女の境遇だ。
十年前――
まだ十歳だった頃、彼女は“拾われた”。
王国南方、ブラン公国。
小国の継承争いは、やがて隣国ディモンズ教国の介入を招き、さらにそれを阻止する形でアース王国が軍を動かした。
信徒である第二王子を担ぎ神を旗印にした教国と、第一王子の正統性を掲げる故縁深い王権国家。
思想と利権が絡み合い、戦は瞬く間に拡大した。
村が焼かれ、街道が閉ざされ、城は火に包まれた。“誰の正義か分からぬ死”が積み上がっていく。
ジュリア・ブリュネルは、その渦中にいた。
公国の名家であったブリュネル家はもうない。
親の顔も、名も、もう思い出すことはない。
覚えているのは、血の匂いと、焼けた土の熱と、――泣く暇もなく、逃げ続けた足の痛みだけ。
そんな彼女を、戦場の端で見つけたのが、レオニダスだった。
拾ったのではない。
引き戻したのだ。
生きる側へ。
「……私は、もう十分です」
ジュリアは言った。
それは拒絶ではなく、諦観に近い響きだった。
「私は、あなたの影で構いません。名を持たず、ただ……役に立てば」
レオニダスは、静かに首を振る。
「それは“生きている”とは言わん」
そして、一歩、彼女に近づいた。
「今の我らを見て、まだ“自分には不要だ”と言えるか?」
ジュリアは答えられなかった。
風が、彼女の足元を通り抜ける。
先ほどまで“感じなかったはずの流れ”が、今は、はっきりと分かる。
――欲しい。
その感覚が、喉の奥に引っかかる。
「……怖いのです」
絞り出すように、言った。
「変わってしまったら……いまの私で、あなたの傍にいられなくなる気がして」
レオニダスは、少しだけ目を細めた。
「愚か者め」
だが、その声は、叱責ではなかった。
「変わらねば、いずれ置いていかれる。……それだけだ」
そして、はっきりと告げる。
「ジュリア。これは命令ではない。だが断ることは私が許さん。公爵としてではない、レオニダス・アークインとしてだ」
一拍。
「――サウナに入れ。お前も、“戻ってこい”」
沈黙の中、
四阿の梁を抜けて、風が鳴った。
ジュリアは、フードの奥で目を閉じる。
逃げ続けた十年。
影として生きた十年。
そして今――
初めて、“変わること”を突きつけられている。
彼女は、ゆっくりと一歩踏み出す。
小さなその一歩は、けれど、確かにその身を柱の陰から陽の下に晒したのだった。




