表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
200/217

ジュリアの決意

 ロッキングチェアが、かすかに軋む。


 最初に目を開いたのは、バルグだった。

 分厚い胸が、ゆっくりと上下する。まるで長い潜水から浮上してきたかのように、深く、確かに息をする。


「……なんだ、これは……」


 低く、掠れた声。

 だが、そこに戸惑いはなく、ただ率直な驚きがあった。


 彼は両の手を見つめる。岩のような掌、節くれ立った指。その一つひとつに、これまで感じたことのない“重さの質”が宿っているのを、はっきりと自覚していた。


 地面に足を下ろすと、土の感触が、骨を通して腹の奥まで伝わってくる。

 硬さ、湿り、温度。

 それらが曖昧な情報ではなく、意味を持った“語りかけ”として届く。


「……地面が、呼吸している……」


 思わず漏れた独り言に、隣から低い笑い声が返ってきた。


 ソリスだ。


 彼もまた、目を開き、ゆっくりと身体を起こしていた。

 鋭さを内に秘めたその瞳は、しかし今、刃ではなく、炎の芯のような静けさを帯びている。


「……世界が、近いな」


 短い言葉。

 だが、その一言に、彼の全感覚が集約されていた。


 ソリスは指先を見つめ、そっと空を切る。

 そこに火はない。

 だが、火の“理”が、確かに流れているのが分かった。


 燃え広がる前の熱。

 爆ぜる直前の緊張。

 炎が形を得る、その刹那の選択。


「……火は、荒ぶるものじゃない。意志を持った“流れ”だ」


 呟くような言葉に、ソリス自身がわずかに驚いた表情を見せる。

 理解したのではない。

 “繋がった”のだ。


 一方、バルグはゆっくりと立ち上がり、裸足のまま地面を踏みしめた。


「……なるほどな」


 低く、納得したような声。


「力で抑え込むのが土じゃない。支え、受け止め、形を与える……だからこそ、崩れぬ」


 彼の背後で、風が一筋、静かに流れた。


 それを感じ取り、レオニダスが目を細める。


 先ほどまで、ただ“通り過ぎるもの”だった風が、今は違う。

 重さがあり、速さがあり、意図がある。


 葉を揺らし、肌を撫で、音を運ぶ。

 それらすべてが、一本の線として、はっきりと読める。


「……風は、刃にも盾にもなる。だが本質は――“道”だな」


 自分でも驚くほど、自然に言葉が出た。


 風は、遮るものを避け、流れ、届くべきところへ至る。

 無理にねじ伏せるものではない。


 レオニダスは、静かに笑った。


「……長く生きてきたつもりだったが、ようやく“立ち位置”が分かった気がする」


 バルグとソリスは、視線を交わし、同時に頷いた。


「自分の輪郭が、はっきりした」

「世界と、切れていないことが分かる」


 それは昂揚ではない。

 誇示でもない。


 ただ、深い納得だった。


 四阿の下、春の風が再び流れる。

 三人の呼吸と、風と、土と、火が、互いを乱すことなく、静かに重なっていった。


 ――そして彼らは、理解する。


 これは“強くなる”ための体験ではない。“正しく在る”ための、原点回帰なのだと。


 四阿の影――

 風が一度、そこで“ほどけた”。


「……そこだ、ジル」


 低く、しかし確信に満ちた声。


 レオニダスは椅子に身を預けたまま、視線だけをわずかに動かした。

 視線の先には、柱の陰、布と影が重なる曖昧な空間。

 だが今の彼には、そこにある“空白”が、はっきりと形を持って見えていた。


 風は嘘をつかない。

 遮られ、避けられ、細められた流れは、隠そうとした意思そのものを映し出す。


「……気配を殺すのは上手くなったな。だが、風の道は誤魔化せん」


 影が、微かに震えた。


 やがて、黒いローブを着た小柄な人影が柱の陰から僅かに見えた。

 フードの縁が揺れ、淡い光が頬に落ちた。


「……」


 声はない。

 だが、その沈黙の質が、先ほどまでとは違っていた。


 レオニダスは、ゆっくりと立ち上がる。


「見ていただろう」


 否定を許さぬ断定。


「我ら三人が、どうなったかを。……いや、“何に触れたか”を」


 ジル――否、ジュリア・ブリュネルは、唇を噛んだ。

 魔法士として、いや、一個の生き物として、理解してしまったからだ。


 あの三人の“在り方”が、明らかに変わったことを。


 魔力量ではない。

 技術でも、経験でもない。


 もっと根源的な――

 世界との接続の仕方が、塗り替えられていた。


「……閣下」


 彼女は声を出した。

 低く、掠れ、慎重な声。


「私は……結構です。あれは、あなた方のような方が……」

「違う」


 即座に、遮られた。


「だからこそだ、ジュリア」


 その名を口にしたのは、この場でただ一人。

 彼女が“ジル”である以前の名を知る唯一の存在。


 女性の名が明かされた瞬間、皆がレオニダス公爵を振り返り、そしてジュリアと呼ばれた者を凝視した。


 ジュリアは、肩を強張らせた。


 天涯孤独。

 それが、彼女の境遇だ。


 十年前――

 まだ十歳だった頃、彼女は“拾われた”。


 王国南方、ブラン公国。

 小国の継承争いは、やがて隣国ディモンズ教国の介入を招き、さらにそれを阻止する形でアース王国が軍を動かした。


 信徒である第二王子を担ぎ神を旗印にした教国と、第一王子の正統性を掲げる故縁深い王権国家。

 思想と利権が絡み合い、戦は瞬く間に拡大した。


 村が焼かれ、街道が閉ざされ、城は火に包まれた。“誰の正義か分からぬ死”が積み上がっていく。


 ジュリア・ブリュネルは、その渦中にいた。


 公国の名家であったブリュネル家はもうない。

 親の顔も、名も、もう思い出すことはない。


 覚えているのは、血の匂いと、焼けた土の熱と、――泣く暇もなく、逃げ続けた足の痛みだけ。


 そんな彼女を、戦場の端で見つけたのが、レオニダスだった。


 拾ったのではない。

 引き戻したのだ。


 生きる側へ。


「……私は、もう十分です」


 ジュリアは言った。

 それは拒絶ではなく、諦観に近い響きだった。


「私は、あなたの影で構いません。名を持たず、ただ……役に立てば」


 レオニダスは、静かに首を振る。


「それは“生きている”とは言わん」


 そして、一歩、彼女に近づいた。


「今の我らを見て、まだ“自分には不要だ”と言えるか?」


 ジュリアは答えられなかった。


 風が、彼女の足元を通り抜ける。

 先ほどまで“感じなかったはずの流れ”が、今は、はっきりと分かる。


 ――欲しい。


 その感覚が、喉の奥に引っかかる。


「……怖いのです」


 絞り出すように、言った。


「変わってしまったら……いまの私で、あなたの傍にいられなくなる気がして」


 レオニダスは、少しだけ目を細めた。


「愚か者め」


 だが、その声は、叱責ではなかった。


「変わらねば、いずれ置いていかれる。……それだけだ」


 そして、はっきりと告げる。


「ジュリア。これは命令ではない。だが断ることは私が許さん。公爵としてではない、レオニダス・アークインとしてだ」


 一拍。


「――サウナに入れ。お前も、“戻ってこい”」


 沈黙の中、

 四阿の梁を抜けて、風が鳴った。


 ジュリアは、フードの奥で目を閉じる。


 逃げ続けた十年。

 影として生きた十年。


 そして今――

 初めて、“変わること”を突きつけられている。


 彼女は、ゆっくりと一歩踏み出す。

 小さなその一歩は、けれど、確かにその身を柱の陰から陽の下に晒したのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ