追憶の面影
心拍数が落ち着いてきたクラウドは、水中の石段を足裏で踏み締め、冷えた感覚を確かめるように泉から上がった。
他の者もそれに倣い泉から地上へ出る。瞬間、空気が一段澄んだように感じられた。
冷水を抜けた身体の表面から、じわりと熱が立ち上り、肌の内側でゆっくりと均されていく。
「はい、こちらをどうぞ」
クラウドは手際よく、大きなバスタオルを三人に差し出した。
「まず水気を拭いてください。そのままだと、外気で冷えすぎます」
レオニダス公爵はまだ半ば呆然とした顔で、言われるままに肩や腕を拭う。
「……なんだこれは。寒くなると思ったが、逆だな」
「熱が、身体の奥に残っていますから」
バルグは乱暴にタオルを使いながら、低く唸った。
「血が……巡ってる。骨の芯まで、だ」
ソリスは無言で頷き、呼吸を整えている。視線は鋭いが、どこか遠い。
クラウドは一行を四阿へと導いた。
木陰に設えられた簡素な休憩所。柱と屋根だけの開放的な造りで、春の風がそのまま通り抜ける。
「こちらに座ってください」
ロッキングチェアが三脚、等間隔に並んでいる。
レオニダスが腰を下ろした瞬間、思わず低く声を漏らした。
「……これは……」
揺れる。
わずかに、しかし確実に。
その揺れが、呼吸と鼓動に自然と同調していく。
クラウドはさらに、身体に掛ける用のバスタオルを三人に手渡した。
「肩から掛けてください。冷えすぎないように」
言われるままに従いながら、レオニダスはちらりと周囲を見回す。
バルグは椅子に深く身を沈め、腕を組んだまま目を閉じている。
ソリスは背筋を預け、首をわずかに傾け、風の流れを感じ取っていた。
その様子を、少し離れた四阿の影から、ジルが見ていた。
気配を殺し、柱の陰に身を寄せ、戻ってきた男たちを見つめる。
(……別人だ)
泉へ向かう前とは、明らかに違う。
殺気も、緊張も、鎧のように纏っていたものが、いまは剥がれ落ちている。
クラウドは静かに一歩引き、全員を見渡した。
「では――ここからは、しばらく何もしません」
一拍、間を置いて、いつもの言葉を告げる。
「ここからは、お喋り禁止です」
その瞬間、サリウ伯爵が小さく肩を揺らした。
「……ふふ」
ルディウスも、口元だけで笑う。
「毎回言いますな」
クラウドはそれ以上何も言わず、同じように椅子に腰を下ろした。
風が葉を揺らす音。
遠くで水が落ちる、かすかな響き。
誰も話さない。
だが、沈黙は重くない。
身体の内側で、熱と冷えが均され、呼吸が深くなり、意識がゆっくりと澄んでいく。
まぶたの裏に、光がにじむ。
音は遠のき、近づき、また溶ける。
それぞれが、それぞれの場所で――
言葉を失い、境目を失い、ただ“在る”状態へと沈んでいった。
それが、「ととのう」ということだと、誰も口に出さずとも、身体が感じていた。
レオニダスは、深く椅子に身を沈めたまま、指一本動かせずにいた。
――来る。
理由も、前触れもない。
ただ、背骨の奥から、ぞわりと何かが這い上がってくる。
快い痺れ。痛みではない。熱でもない。
呼吸が、いつの間にか自分のものではなくなっている。
深く、遅く、しかし確実に、胸郭の隅々まで空気が満ちる。
頭の中が――白む。
思考が溶け、境目が曖昧になり、それでも意識だけは、異様なほど冴え渡っている。
(……なんだ、これは……)
酩酊。酒とは違う。
戦場で負った傷も、眠れぬ夜も、剣を抜くたびに積み上がってきた重みも、すべてが、いまは遠い。
代わりに、胸の奥に満ちてくるのは、名付けようのない安堵と、甘い快感。
ぞわり、と再び頭の芯が震えた。
その瞬間――
唐突に、景色が蘇る。
青空。
乾いた土の匂い。
風を裂く蹄の音。
――クカイ。
前ファーラント伯爵、クカイ・ファーラント。
まだ互いに若く、無謀で、笑っていた頃。
二頭の馬を並べ、丘を駈けた。誰が先に辿り着くか、それだけの、くだらない競争。
剣も鎧も置き去りにして、ただ、風に身を任せて。
『おいレオン!そんな走りで将が務まるか!』
笑い声。
無邪気で、強く、まっすぐな声。
――もう、戻らない。
そう分かっているはずなのに、その記憶は、胸を締め付けるのではなく、不思議なほど、優しく包み込んだ。
レオニダスの喉から、かすかな息が零れた。
「……ああ……」
声にならない声。
後悔でも、嘆きでもない。
ただ――思い出せたことへの、静かな歓び。
瞼の裏で、草原が揺れる。
馬の背で感じた風と、失われたはずの、若き日の鼓動。
それらすべてが、いま、この瞬間だけは、確かに“ここ”にある。
レオニダスは、ゆっくりと息を吐いた。
そして思った。
(……これが……“ととのう”ということか)
剣を置き、王国を背負い、鋼鉄の獅子と呼ばれるようになって久しい。
だが今はただ、一人の男として、静かに、恍惚の底に身を委ねていた。
———どれほどの時が流れたのか、分からない。
ふと、レオニダスは目を開いた。
春の光が、まぶしすぎるほど柔らかく、四阿の梁越しに差し込んでいる。
葉擦れの音が、さざ波のように耳に届き、遠くで鳥が一声、短く鳴いた。
――静かだ。
音はある。風も、匂いも、気配も、すべてが確かに存在している。
だが、それらが争わず、濁らず、ひとつの調和として身体に流れ込んでくる。
レオニダスは、ゆっくりと瞬きをした。
頭が澄み切っている。
思考は鋭く、しかし急かされない。
胸の奥に、重石のように沈んでいた疲労と焦燥が、跡形もなく消えていた。
「……なんだ、これは……」
呟いた声は、自分でも驚くほど穏やかだった。
腕に力を入れてみる。
指は軽く、関節は滑らかに動く。
長年、鎧の重みと剣の反動に慣れきった身体が、まるで別物のように応えた。
息を吸う。
空気が甘い。
肺の奥まで、澱みなく届き、吐く息には、もはや苦味がない。
――冴えている。
戦場で求められる研ぎ澄まされた集中とは違う。よく手入れされた剣を、鞘に納めたままでも感じられる確かさだった。
レオニダスは、ゆっくりと視線を巡らせた。
若葉は若葉のまま、
空は空のまま、
泉は泉のまま。
何ひとつ変わっていないはずの世界が、まるで“正しい位置”に戻ったかのように、はっきりとそこにある。
「……はは……」
思わず、低く笑いが漏れた。
理由は分からない。
だが、笑わずにはいられなかった。
これほど深く休み、これほど完全に満たされた感覚を、いつ以来、忘れていただろうか。
レオニダスは、ゆっくりと背筋を伸ばした。
鋼鉄の獅子は、再び立ち上がる。
だがその瞳には、これまでになかった静かな光が宿っていた。
「……恐ろしいな、クラウド少年」
それは、畏怖と感嘆が混じった、正直な吐息だった。
「剣でも、魔法でもない。こんなやり方で、人を……ここまで変えるとは」
彼は、深く息を吸い、空を見上げる。
そして確信する。
――これは、ただの癒しではない。
――王国の行く末すら、揺るがしかねぬ“力”だ。
春の光の中で、レオニダス・アークイン公爵は、新たな覚悟の芽が、胸の奥に静かに芽吹くのを感じていた。




