表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
199/217

追憶の面影

 心拍数が落ち着いてきたクラウドは、水中の石段を足裏で踏み締め、冷えた感覚を確かめるように泉から上がった。


 他の者もそれに倣い泉から地上へ出る。瞬間、空気が一段澄んだように感じられた。

 冷水を抜けた身体の表面から、じわりと熱が立ち上り、肌の内側でゆっくりと均されていく。


「はい、こちらをどうぞ」


 クラウドは手際よく、大きなバスタオルを三人に差し出した。


「まず水気を拭いてください。そのままだと、外気で冷えすぎます」


 レオニダス公爵はまだ半ば呆然とした顔で、言われるままに肩や腕を拭う。


「……なんだこれは。寒くなると思ったが、逆だな」

「熱が、身体の奥に残っていますから」


 バルグは乱暴にタオルを使いながら、低く唸った。


「血が……巡ってる。骨の芯まで、だ」


 ソリスは無言で頷き、呼吸を整えている。視線は鋭いが、どこか遠い。


 クラウドは一行を四阿へと導いた。

 木陰に設えられた簡素な休憩所。柱と屋根だけの開放的な造りで、春の風がそのまま通り抜ける。


「こちらに座ってください」


 ロッキングチェアが三脚、等間隔に並んでいる。


 レオニダスが腰を下ろした瞬間、思わず低く声を漏らした。


「……これは……」


 揺れる。

 わずかに、しかし確実に。


 その揺れが、呼吸と鼓動に自然と同調していく。


 クラウドはさらに、身体に掛ける用のバスタオルを三人に手渡した。


「肩から掛けてください。冷えすぎないように」


 言われるままに従いながら、レオニダスはちらりと周囲を見回す。


 バルグは椅子に深く身を沈め、腕を組んだまま目を閉じている。

 ソリスは背筋を預け、首をわずかに傾け、風の流れを感じ取っていた。


 その様子を、少し離れた四阿の影から、ジルが見ていた。

 気配を殺し、柱の陰に身を寄せ、戻ってきた男たちを見つめる。


(……別人だ)


 泉へ向かう前とは、明らかに違う。

 殺気も、緊張も、鎧のように纏っていたものが、いまは剥がれ落ちている。


 クラウドは静かに一歩引き、全員を見渡した。


「では――ここからは、しばらく何もしません」


 一拍、間を置いて、いつもの言葉を告げる。


「ここからは、お喋り禁止です」


 その瞬間、サリウ伯爵が小さく肩を揺らした。


「……ふふ」


 ルディウスも、口元だけで笑う。


「毎回言いますな」


 クラウドはそれ以上何も言わず、同じように椅子に腰を下ろした。


 風が葉を揺らす音。

 遠くで水が落ちる、かすかな響き。


 誰も話さない。

 だが、沈黙は重くない。


 身体の内側で、熱と冷えが均され、呼吸が深くなり、意識がゆっくりと澄んでいく。


 まぶたの裏に、光がにじむ。

 音は遠のき、近づき、また溶ける。


 それぞれが、それぞれの場所で――

 言葉を失い、境目を失い、ただ“在る”状態へと沈んでいった。


 それが、「ととのう」ということだと、誰も口に出さずとも、身体が感じていた。


 レオニダスは、深く椅子に身を沈めたまま、指一本動かせずにいた。


 ――来る。


 理由も、前触れもない。

 ただ、背骨の奥から、ぞわりと何かが這い上がってくる。


 快い痺れ。痛みではない。熱でもない。


 呼吸が、いつの間にか自分のものではなくなっている。

 深く、遅く、しかし確実に、胸郭の隅々まで空気が満ちる。


 頭の中が――白む。


 思考が溶け、境目が曖昧になり、それでも意識だけは、異様なほど冴え渡っている。


(……なんだ、これは……)


 酩酊。酒とは違う。


 戦場で負った傷も、眠れぬ夜も、剣を抜くたびに積み上がってきた重みも、すべてが、いまは遠い。


 代わりに、胸の奥に満ちてくるのは、名付けようのない安堵と、甘い快感。


 ぞわり、と再び頭の芯が震えた。


 その瞬間――

 唐突に、景色が蘇る。


 青空。

 乾いた土の匂い。

 風を裂く蹄の音。


 ――クカイ。


 前ファーラント伯爵、クカイ・ファーラント。

 まだ互いに若く、無謀で、笑っていた頃。


 二頭の馬を並べ、丘を駈けた。誰が先に辿り着くか、それだけの、くだらない競争。


 剣も鎧も置き去りにして、ただ、風に身を任せて。


『おいレオン!そんな走りで将が務まるか!』


 笑い声。

 無邪気で、強く、まっすぐな声。


 ――もう、戻らない。


 そう分かっているはずなのに、その記憶は、胸を締め付けるのではなく、不思議なほど、優しく包み込んだ。


 レオニダスの喉から、かすかな息が零れた。


「……ああ……」


 声にならない声。


 後悔でも、嘆きでもない。

 ただ――思い出せたことへの、静かな歓び。


 瞼の裏で、草原が揺れる。

 馬の背で感じた風と、失われたはずの、若き日の鼓動。


 それらすべてが、いま、この瞬間だけは、確かに“ここ”にある。


 レオニダスは、ゆっくりと息を吐いた。


 そして思った。


(……これが……“ととのう”ということか)


 剣を置き、王国を背負い、鋼鉄の獅子と呼ばれるようになって久しい。


 だが今はただ、一人の男として、静かに、恍惚の底に身を委ねていた。


———どれほどの時が流れたのか、分からない。


 ふと、レオニダスは目を開いた。


 春の光が、まぶしすぎるほど柔らかく、四阿の梁越しに差し込んでいる。

 葉擦れの音が、さざ波のように耳に届き、遠くで鳥が一声、短く鳴いた。


 ――静かだ。


 音はある。風も、匂いも、気配も、すべてが確かに存在している。

 だが、それらが争わず、濁らず、ひとつの調和として身体に流れ込んでくる。


 レオニダスは、ゆっくりと瞬きをした。


 頭が澄み切っている。

 思考は鋭く、しかし急かされない。

 胸の奥に、重石のように沈んでいた疲労と焦燥が、跡形もなく消えていた。


「……なんだ、これは……」


 呟いた声は、自分でも驚くほど穏やかだった。


 腕に力を入れてみる。

 指は軽く、関節は滑らかに動く。

 長年、鎧の重みと剣の反動に慣れきった身体が、まるで別物のように応えた。


 息を吸う。


 空気が甘い。

 肺の奥まで、澱みなく届き、吐く息には、もはや苦味がない。


 ――冴えている。


 戦場で求められる研ぎ澄まされた集中とは違う。よく手入れされた剣を、鞘に納めたままでも感じられる確かさだった。


 レオニダスは、ゆっくりと視線を巡らせた。


 若葉は若葉のまま、

 空は空のまま、

 泉は泉のまま。


 何ひとつ変わっていないはずの世界が、まるで“正しい位置”に戻ったかのように、はっきりとそこにある。


「……はは……」


 思わず、低く笑いが漏れた。


 理由は分からない。

 だが、笑わずにはいられなかった。


 これほど深く休み、これほど完全に満たされた感覚を、いつ以来、忘れていただろうか。


 レオニダスは、ゆっくりと背筋を伸ばした。


 鋼鉄の獅子は、再び立ち上がる。

 だがその瞳には、これまでになかった静かな光が宿っていた。


「……恐ろしいな、クラウド少年」


 それは、畏怖と感嘆が混じった、正直な吐息だった。


「剣でも、魔法でもない。こんなやり方で、人を……ここまで変えるとは」


 彼は、深く息を吸い、空を見上げる。


 そして確信する。


 ――これは、ただの癒しではない。

 ――王国の行く末すら、揺るがしかねぬ“力”だ。


 春の光の中で、レオニダス・アークイン公爵は、新たな覚悟の芽が、胸の奥に静かに芽吹くのを感じていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ