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クラウドのアウフグース

 クラウドは炉の脇に置いてあった柄杓を手に取った。

 中には、泉から汲んだ清水が満たされている。中の水は、透き通っている。だがそれは、この場ではもはや「冷たいもの」ではなかった。


「……ロウリュ、とは何だ?」


 レオニダスが、わずかに顎を上げて問う。


「石に水を掛けます。すると、一気に蒸気が立ち上り、炉の熱が動きます」


 レオニダス公爵が眉を寄せる。


「先ほどのは、まだ前座ということか」

「はい。本番は――これからです」


 クラウドは座面から床へ、炉の前に立ち、サウナストーンを一つ見極めるように視線を走らせた。

 石は赤くはない。だが、内部に熱を蓄えきっていることが、近づくだけで分かる。


 柄杓を傾ける。


 水が、石に触れた。


 ジッ……


 音は小さい。

 湯気も、ほとんど立たない。


 ジュワーッ……


 だが、次の瞬間だった。


 “来た”


 誰が言葉にするよりも早く、サウナ室全体の空気が、一斉にゆっくりと立ち昇った。


 熱が――

 壁になって、ぶつかってきた。


「わ――っ!」

「うおおっ!」

「ほほうっ!」


 バルグが思わず肩を強張らせる。ソリスが仰け反って熱から逃げる。レオニダスはなぜか楽しげな声をあげた。


 刺すような熱ではない。

 だが、逃げ場のない“面”としての熱が、正面から、上から、横から、同時に押し寄せてくる。


 皮膚の表面ではない。

 身体全体が、包み込まれる。


「く〜っ……これは……」


 ソリスの喉から、低い声が漏れた。


 視界に揺らぎはない。

 湯気が立ちこめることもない。


 だが、確実に――

 空気の質そのものが変わっている。


 呼吸をした瞬間、肺が熱を理解する。

 息を吸っただけで、鼻腔から喉奥、そして胸の奥まで温度が届く。


「……熱い、というより……」


 レオニダスが歯を噛みしめ、言葉を探す。


「……重いな」


 クラウドは頷いた。


「はい。蒸気が見えないのは、室温が高いからです。水は霧にならず、熱として空気に溶け込みます」


 クラウドは床に立ったまま、タオルを上から下へ扇ぐ。続けて、タオルを左右に振りながら、柔らかく包み込むような風を送る。熱の波が優しく中段のレオニダス、バルグ、ソリスへ。そして上段に座るサリウやルディウスへ行き渡る。再び、皆に熱の波がやって来た。


 今度は、顔にまともに当たった。


「……っ、これは……!」


 バルグが顔を伏せ、短く声を上げる。


 もろに浴びると、はっきりと“熱い”。

 だが、逃げようとしても、逃げ場がない。


「凄いな、クラウド!タオルで扇がれるとこんなに熱い風が来るとは。知らなかったぞ!」


 サリウが叫ぶようにクラウドに言う。


「フフフ、このタオルを使って熱波を届けることを、アウフグースと言います。僕のは、見様見真似の素人技ですけどね」


 片手でクルクルと、タオルを頭の上で回し振るクラウド。上段に溜まった熱が、ゆっくりと、しかし確実に降りてくる。


 避けることはできない。

 受けるしかない。


「……なるほどな」


 レオニダスは、背を椅子に預けたまま、低く笑った。


「フフッ。戦場の炎は、方向がある。だがこれは……」


 言葉を切り、静かに続ける。


「逃げ場のない熱だ」


 サリウは目を閉じ、深く息を整えていた。


「……浴びると熱い。だが、避けずにいれば……身体が、順応してくる。だんだんと心地よく感じてきますよ」


 クラウドは、タオルを下ろした。


「その通りです。ロウリュは“耐えるもの”ではありません。身体に熱が染み渡るのを、感じるものです」


 しばらくの沈黙。


 やがて、最初に変化を見せたのはソリスだった。


「……不思議だな」


 低く、しかし確かな声。


「……さっきまで、熱が“当たっていた”。だが今は……」


 胸に手を当てる。


「……中から、温かい」


 バルグも、ゆっくりと息を吐いた。


「……筋肉の芯がほぐれて……いや……ほどける、か」


 レオニダスは、目を閉じたまま、静かに言った。


「……拵えた鎧を、内側から外されるようだ。これは……」


 言葉を探し、そして断じる。


「……人を“裸”にする熱だな」


 クラウドは小さく頷いた。


「はい。だから――下姿で入る意味があるんです」


 室内に、再び静寂が戻る。


 汗は流れ始めている。

 だが、苦痛はない。


 身体が、熱を受け入れ始めている。


 クラウドは一行を見渡し、静かに告げた。


「……これが、ロウリュ。そしてアウフグースです。今ので、ようやく“サウナの入口”です」


 その言葉に、誰もが唸るしかなかった。


 蒸気は、音もなく室内を満たし、そして、ゆっくりと消えていく。


 その後に残ったのは――

 汗と、深い静けさだった。


 玉のような汗が、皆の肌に無数に浮かぶ。レオニダスがゆっくりと口を開いた。


「……ああ。サリウの言う通りだ。これは、心地よい」


————


 四阿の影で、ジルは無意識のうちに胸元を押さえていた。


 扉越しに伝わる、あの圧のある熱の揺らぎ。


 ――中で起きているのは、単なる入浴ではない。


 それだけは、魔法士として、はっきりと理解していた。



 身体全体が火照り、とどまることを知らない汗。

 レオニダスも、バルグもソリスも、頭から厚いタオルを被り、サウナの熱の中にただただ溶け込んでいた。


 炉からの熱だけではない。座っている尻も背中も足裏からも、なぜか熱を感じるのだ。


 この炉には、そういえば煙突がない。これもクラウド少年の意匠か、と朦朧とレオニダスは思考する。しかし、熱のせいか考えがまとまらない。


 そうして、クラウドはまた床に降り立った。


「皆さん、充分温まりましたね。それでは第二段階です。外に出ましょう」


 サリウとルディウスはにこやかに立ち上がり、クラウドに続く。

 レオニダス、バルグ、ソリスも顔と身体を赤くして無言で頷いて立ち上がった。ようやくこの熱さから解放されるのだ。厚手のタオルでぐしゃぐしゃと汗を拭い、全員が我れ先にと戸口へ向かうのだった。


 木扉が軋む音を立てて開かれ、熱を孕んだ空気がゆるやかに外へ逃げていった。


 最初に外気を胸いっぱいに吸い込んだ瞬間、誰もが同じ錯覚を覚えた。

 ――春の風が、こんなにも涼しく、こんなにも柔らかかっただろうか、と。

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