決意の朝
翌朝。
春の陽が昇りはじめたというのに、クラウドの家の空気はどこか沈んでいた。
ミリィは台所でスープをかき混ぜながら、何度も、何度も、息を吸い、そして吐いていた。
(……クラウドを“あそこ”に行かせるなんて)
母としての本能は、全身で拒絶している。マハザールの洞穴――毎年、帰らぬ者が出る深淵。
若かりし日、飛ぶ鳥を落とす勢いだった”蒼風の双剣姫"と渾名されたミリィでさえ近づかなかった危険地帯。
だが――
(あの子にしか、できないのよね……)
昨日の伯爵邸での話、14年前のスタンピードや昨年の魔瘴熱、クラウドの計り知れない能力。
そのすべてが、ミリィに“理解”を押し付けてくる。
――他の誰でもない。
――クラウドでないと、世界が守れないかもしれない。
それが真実であるほど、母としては苦しかった。
「母さん……」
クラウドがそっと声をかけた。
いつものテーブル。
パンとスープと、サラダ。
リィンとエレナの明るい声が、かすかに空気を軽くしている。
「母さん、僕……行くよ」
その一言に、ミリィの手が止まった。
ミリィは俯いたまま、スープの鍋の縁を強く握った。
「クラウド。あなたが特別なのは分かってる。誰より強いことも……優しいことも知ってるわ」
しかし、その声は震えていた。
「でもね……母親は……自分の子どもを“危険な場所”に送るために産むんじゃないのよ……」
クラウドは、胸に鉛が落ちたような気がした。
(……母さん)
その背中が、昨日までよりずっと小さく見える。
だが、決意は揺らがなかった。
「大丈夫だよ。必ず帰ってくる。……僕には帰る場所があるから」
ミリィの瞳に、涙が滲んだ。
「……約束よ、クラウド。絶対……絶対に帰ってきて」
クラウドは静かに頷き、ミリィの手をそっと握った。
そのやり取りを、ガランドは黙って見守っていた。リィンはまだ何が起きるのか分からず、ただ兄の袖を掴んでいる。
エレナだけが息を呑み、クラウドの決意の重さを理解して静かに頷いた。
そして──クラウドは伯爵邸へと歩き出す。
春の光は明るいはずなのに、視界はどこか薄暗さを帯びて見えた。
(……行くんだ)
歩くたびに靴裏が石畳を鳴らし、その音が胸の奥に重く響く。
北通りへ向かう道は、いつもより静かで、広く感じた。
王立ファーラント校の白い校舎が過ぎ、やがて伯爵邸の尖塔が見えてくる。
(ここで、僕の次の道が決まる)
執務室に案内されると、サリウ伯爵は珍しく緊張した面持ちで待っていた。
「……来てくれたか、クラウド」
「僕は……洞穴に行きます」
短い言葉だったが、その言葉が落ちた瞬間、サリウの瞳からほんの一瞬だけ影が剝がれ、柔らかな安堵が浮かんだ。
「……ありがとう。君の力が必要だ」
「僕のせいで……助けられない人が出るのは嫌ですから」
サリウは目を閉じ、深く頷いた。
「では……レオニダス公爵に伝えよう。明後日には、ここへお越しになるはずだ。必ず少数精鋭を率いている」
「はい」
クラウドが席を立とうとした時、伯爵が少しためらうように言葉を続けた。
「……クラウド。一つ、相談がある」
「…なんですか?」
神妙な顔をするサリウに、クラウドも姿勢を正す。
「“サウナ”の効能を──レオニダス公爵にも伝えてもよいだろうか?」
「!」
サウナのことは、まだあまり広めたくない、と咄嗟にクラウドは考えた。
それが表情に出たのか、サリウは慎重に言葉を重ねる。
「……今回は少数で洞穴に臨む。レオニダス公爵、かの御仁ならば必ず同行すると考えている。ならば……最大限、万全の状態で臨ませたい」
クラウドは、レオニダス御大が率先して洞穴に潜ると聞き、迷いなく頷いた。
「もちろんです。洞穴攻略の役に立つなら、全部教えます」
伯爵は深く安堵し、微笑んだ。
「ありがとう、クラウド。あれは確かに……“ととのえる力”だ。公爵もきっと驚く」
そして──二日後。王都イシュグランから北へ続く街道。
夕焼けに染まるその道の向こうに、重い鉄甲と黒いマントの一隊が近づいてくる。
先頭を駆けるのは、鋼鉄の獅子の異名を持つ男――
レオニダス・アークイン公爵。
その姿を見たファーラントの兵士たちは、緊張と畏怖を隠せない。
この日を境に、ファーラントの運命は大きく動き出す。
⸻
夕餉も終わり、家の中にようやく安らぎが戻り始めた頃だった。
外の石畳を踏む硬い靴音が、低い余韻を残して近づいてくる。
コン、コン──
南通りに似つかわしくない、軍靴のような律動。
ガランドが扉を開けると、薄闇の中に、一人の伝令兵が立っていた。
胸当てにはファーラント伯爵家の紋章。その声は、夜気に沈むように低かった。
「クラウド殿に、サリウ伯より伝言にございます」
「伯爵様から……?」
「明朝七つ(午前七時)、西門へ参上されたし――とのこと」
言葉自体は簡潔だ。
だが、その背後にある“重み”は、誰にでも感じ取れた。
ガランドの横に、クラウドが進み出る。
「……わかりました。行きます」
伝令は黙って一礼し、再び闇へ溶けるように去っていった。
扉を閉めた後、家の中の空気がわずかに強張る。
ミリィがそっと近寄り、クラウドの袖を掴んだ。
「クラウド……明日、なのね」
「うん。行って、帰ってくるよ。母さん」
その言葉に、ミリィは唇を噛むしかなかった。
ただ、祈るようにその手を離す。
夜は静かに、更けていった。
⸻
翌朝──西門に朝霧が霞む頃。
日の光がまだ弱く、町全体に薄い靄が降りていた。
クラウドは簡素な旅支度を整え、家族に見送られながら歩き出した。
西へ向かう道は、早朝特有の湿り気と静けさに包まれている。
空気は冷たいが、張りつめたような鋭さがあった。
(……今日で、すべてが動き出す)
一歩ごとに覚悟が固まっていく。
やがて、西門が視界に入った。
城壁の石材は朝日に濡れ、重厚な門扉は開いたまま、眠る獣が目を覚ます瞬間のような迫力を漂わせている。
門衛や兵士はいつもと変わらず立っていたが、門の横には見慣れぬ小さな一隊が待ち受けていた。
一隊の前に立つ、二つの影。
一人はサリウ伯爵。
もう一人は──鋼鉄の獅子レオニダス・アークイン公爵。
陽光を受ける黒鉄の胸当て、深紅のマント、獣のように鋭い眼光。
戦場で、何千という命を見てきた者だけが持つ“生の重さ”を纏っていた。
クラウドの姿を見つけると、公爵の口元がゆっくりと吊り上がった。
「……ようやく…ようやく、会えたな、小さき魔法士よ」
あの黒樹の森での邂逅より、遥かに強い圧。
それでいて、どこか嬉しげな声音だった。
クラウドは姿勢を正し、静かに返す。
「レオニダス公爵様に……こうして再び会うことになるとは。フフ……。思いもしませんでした」
「はっ。まさか“空から落ちてきた子ども”に、こうしてまた会えるとはな。お前に会いたくてたまらなかったぞ。全く世の中というものは面白い」
その言葉に、クラウドは少しだけ肩をすくめる。
「……あれは事故です」
「いや、奇跡だ。そして──奇跡の続きを見られるのを楽しみにしている」
公爵の眼光は、クラウドを“ただの子ども”として見ていなかった。
英雄でも、怪物でもなく──運命の子として。そんな視線だった。
サリウ伯爵が一歩進み、声を張る。
「では……参ろう。サウナへ」
朝霧が揺れ、三人の影が西の街道へ踏み出した。
世界の裂け目のような洞穴へ向かう、“最初の一歩”だった。




