伯爵からの頼み
朝靄の余韻が薄く漂う時刻、伯爵邸の中庭には春特有の柔らかな光が満ち始めていた。
庭の中央を貫く白亜の小径には、花壇を囲むように植えられたラベンダーと白バラがほのかな香りを放ち、季節の境目らしい瑞々しさを漂わせている。
しかし、春光に包まれた庭の清々しい空気とは裏腹に、邸の主と少年の間には異常が起き続けていた。
空気が突然、ざわりと揺れた。
──風。サリウは目を細める。
春の突風、いや、魔力の共鳴による旋風だ。
「な……」
庭の花々が一斉に同じ方向へ靡き、
落ち葉が渦を描き始める。
渦を巻いた空気は、バタバタとクラウドの衣服をはためかせた。逆立つ銀灰色の髪、その下にはっきりと見える顔は、僅かに笑んでいるように見えた。
次の瞬間──クラウドの体がふわりと浮いた。
(まさか……風魔法まで……!?それでは四属性すべてではないかっ!?)
伯爵の脳裏が白く染まる。
少年は上昇気流に乗り、さらに上へ。
サリウが見上げる高さまで浮き上がる。
(……一個の人間に四つの属性が宿り得るのか……!?)
そして少年は、一瞬後に、空高く、矢のように飛び去っていた。
黒い点になるほど遠くまで。
「……っ」
言葉が出ない。
あまりに現実離れしている光景に、思考が追いつかない。
(飛んだ……人が……翼もなく……)
サリウはしばらくその場に立ち尽くしていた。ようやく口から出た言葉は、実際には存在しない筈の存在を表すもの。
今、確かに目にしている実在。
「……クアドラプル」
十秒の後、空にふたたび影が現れた。
猛烈な速度で落下、いや、こちらへ向かってくる。
「危ないっ──!」
叫びかけた瞬間、地面に触れる直前で風が炸裂し、爆風が花弁を舞い散らせた。
クラウドは、砂埃の中から軽やかにその身を現した。
落ちる寸前で、自らの魔法を逆噴射させたのだ。
はらはらと草や粉塵が舞い落ちる。
庭に静寂が戻った。
鳥の声すら遠い。
サリウ伯爵はゆっくりと歩を進め、クラウドの前で立ち止まった。
深く息を吸い、吐き、ようやく絞り出した声は──
「……クラウド。君は……いったい……何者だ……?」
その眼には恐怖ではなく、畏敬と、決意が宿っていた。
そして伯爵はこう悟ったのだった。
──この子の存在が、世界の均衡を揺るがす日が来る。
必ず来る。
それが善であれ、悪であれ。
庭には、クラウドとサリウ二人が向かい合っている。ただ吹き抜ける春風の音だけが、非現実の余韻をかすかに震わせていた。
伯爵は歩み寄りながら口を開く。
だがその声には、驚嘆よりも“決意”の色が濃かった。
「……クラウド。君は、危ういほどに強い」
クラウドは息も乱していない。
むしろ少し照れくさそうだ。
「まだ、見せていないことも――」
「いや、もう十分だ」
サリウは言葉を切り、しばし庭の奥、北の山々を見つめた。
「……レオニダス公爵は、“黒樹の森”で再びライフストリームの汲み上げが始まると睨んでいる。王妃の弟ロアンが男爵となった今、公爵軍とて容易には踏み込めない」
クラウドの眼差しが鋭くなる。
「……じゃあ、どうしますか?」
伯爵はゆっくりと、しかし逃げ場を与えない声で言った。
「――マハザールの洞穴を調べる」
胸の奥に、重い名が落ちた。
十四年前のスタンピードの根源。
数え切れぬ死者を出し、いまなお“深さ”すら判明していない魔窟。
クラウドは息を呑んだ。
サリウは続ける。
「黒樹の森はロアン男爵領ゆえ手が出せない。だが、マハザールの洞穴は我がファーラント領だ。動くなら――我々だけだ」
「……でも、危険すぎないですか?」
「危険だ」
即答だった。
だが、伯爵の瞳の奥には恐れよりも確信があった。
「クラウド。君の力をすべて見たわけではない。だが……“あの洞穴の奥”に辿り着ける可能性がある者はこの国にはいない」
サリウはほんの一瞬だけ空を仰ぎ、口を結んだあと、クラウドに向き直った。
「……君には、あの異変に“関わる運命”がある。これは予言でも宿命でもない。ただ、私は領主として――“君の力がなければ守れないものがある” と痛感している」
クラウドは答えられずに立ち尽くす。
伯爵は重々しく続けた。
「もちろん強制はしない。家族の平穏を壊さずに生きる道もある。しかし――」
サリウはクラウドの肩に手を置いた。
「このまま放置しておくと、魔瘴熱の再来。それだけではない、スタンピードの悲劇もまた起こるかもしれん。私もレオニダス公爵も、死を賭してマハザールの洞穴に挑むつもりだ」
サリウはひとときも視線を外さず、クラウドの目を見つめ続けている。
「……君に、力を貸してほしい。」
庭の風が止まった。
静寂に包まれた中庭で、クラウドだけが呼吸の音を立てていた。
彼はゆっくりと口を開いた。
「少し……考えさせてください」
「いい。むしろ、それでいい」
サリウは優しく頷いたが、
その表情の奥には、揺るぎない覚悟があった。
「君の答えがどうあれ、ファーラントは――君の“家”だ」
遠く、洞穴の方角にある山脈に雲が伸びていく。
風はまだ柔らかい。
しかしその奥に、確かに“兆し”がうねっていた。
来た時と違い、玄関にはクラウドとサリウ、家令の三人だけが立っていた。「クラウド。よく考えてみてくれ」と、両肩に手を置かれ、サリウ伯爵自らがクラウドを見送る。
伯爵邸を出た瞬間、クラウドは胸の奥に深く沈んでいた息を吐き出した。
北通りの空は透き通るように青い。
だがその青ささえ、先ほど伯爵に告げられた“洞穴”の名の重さにほんの少しだけ陰りを帯びて見えた。
(……運命、か)
サリウ伯爵は軽く言ったわけではない。
あの人が“運命”という言葉を使うとき、そこには必ず 責任と覚悟 がある。
クラウドはゆっくり歩いた。
頭の中には、洞穴の奥底で脈動する“何か”の気配が淡く、しかし確かに蠢いていた。
例の感覚――あの地脈の乱れを押さえた夜、全身を通り抜けた、あの得体の知れない引力。
あれが再び呼んでいる気がした。
(……僕でなきゃ届かない場所がある)
その直感だけが、妙に鮮明だった。
きっと、マハザールの洞穴には何かが待ち受けている。ひらめきや予感とも違う、自分にもわからない確信がそこにはある。
(……僕は、やはりあそこへ行かなければならない)
気づけば目の前には、家の扉があった。胸に絡みついていた緊張の糸がふっと緩む。
鍵を開ける前に、中から待ち構えていたように扉が開いた。
「にーに!!」
リィンが弾丸のように飛びついてきて、クラウドは自然と笑みを浮かべた。
「ただいま、リィン」
奥からガランドとミリィも顔を出した。
「おかえり、クラウド。話はどうだった?」
「……それが、ちょっと重たい話で」
言葉を選んでいると、リビングの奥から妙に艶っぽい声が聞こえた。
「クラウドく〜ん!お茶淹れたわよ〜。私の部屋の完成祝い&クラウド君の無事の帰宅祝いに、特製リラックスブレンドよ!」
エレナが全身から“居候の風格”を漂わせながら手をふっている。
ミリィが苦笑しながら耳打ちした。
「……気づいたら、もう完全に住んでるわね、エレナ」




