血盟の会談
灰色の塔。壁は僅かに魔力を帯びた石で組まれ、壁面には戦場の地図、古戦斧、黒鉄の盾が重々しく並ぶ。
夕陽は雲に覆われ、灯された燭台は少なく、部屋全体は薄闇の中に沈んでいた。
レオニダス公は窓際に立ち、宵闇に沈もうとする城塞都市と黒い屋根の街並みを見下ろしていた。
広げた背中には、軍馬のような強靭さよりも、獣が地を掴んで息を潜めるような緊張感が宿っている。
扉が静かに叩かれ、執事が開ける。
サリウ・ファーラント伯が姿勢を正して入室した。
「失礼いたします。公爵様におかれましては、この度の遠路よりのご帰還まことに——」
言い終わるより早く、窓を向いたままレオニダスは片手を挙げた。
顔を向けぬまま、低く抑えた声で言う。
「挨拶も礼儀も要らん。ここには軍と領地を背負う者だけがいる」
言葉の端に、苛立ちではなく“余計な時間を削ぎ落とす戦場の呼気” が混じっていた。
サリウは困惑の色を浮かべながらも、すぐに理解し、背筋を正した。
レオニダスはようやく振り返り、重い歩幅で机へ戻ると、そこに置かれた王宮印の文書を指先で弾く。
乾いた紙の音が室内に冷たく響いた。
「昨年末の調査報告——我が軍が命の保証無き現場に踏み込み、血の匂いを浴びながらまとめた“真実の証書”だ」
サリウはその表現に、黒樹の森の湿った空気を思い起こした。胸奥に、冷気と焦りが再び疼く。
「それを王宮は—— 証拠不十分として“廃棄”した。理ではない。政治だ。真実に目蓋をおろす政治だ」
レオニダスの拳が、まるで大地の岩盤を割るような重い音 を立てて机を叩く。
サリウの喉奥が、無意識に乾いた。
「腐敗は王妃イザベルと、宰相ルシアン・ヴェルデンハイムの周辺から始まっている」
レオニダスは、机上の酒瓶を取りグラスでなく直接口に運んだ。
それは酔うためではなく、口内の怒りを沈める火酒のようだった。
「イザベルとルシアン……癒着の噂は、もはや宮廷の影ではなく“廊下の噂” まで落ちている。あれはもう、普通の関係ではない。——男と女の関係、いや依存と支配だ」
「……公!軽率なお言葉は——陛下の御前の名は軽々しく扱ってはなりませぬ」
「言葉を慎むべきは、真実を恐れる者だ。私は軍人だ、国が壊死する臭いには敏い。恐れるべきは敵の牙であって、宮廷の影言葉ではない」
レオニダスの目が、炎ではなく氷刃のように光った。
「王は後宮に沈み、政務から目を逸らしている。王妃に施された“快楽の鎖”に引かれ続けているからだ」
サリウは、胸の奥が重く沈むのを感じた。
レオニダスは、文書の束から一枚を抜きそれをサリウの前へ滑らせた。
「新たな男爵——ロアン・メディシス。王妃イザベルの弟、メディシス侯爵家の三男。つまり“血と恩義の鎖”で繋がれた傀儡だ」
サリウの眉が、かすかに震えた。
「つまり、黒樹の森は——完全に王妃の手中に……」
「そうだ。“合法的な採掘権” という衣を着せたまま、再びライフストリームを汲み上げるだろう」
レオニダスは、暖炉にひとつ薪を放り込んだ。
火花が爆ぜ、煙が舞う。
「もし地脈が再び乱れれば、魔瘴熱は必ず広がる。次に噴き出すのは——病か、魔物の群れか」
「マハザールの洞穴……再び咆哮が響く日が来ると?」
「来るかもしれん。いや……あの連中は “引き起こそうとしている”のかもしれん」
長い沈黙が訪れた。
暖炉の火が、レオニダスの横顔をわずかに照らす。
サリウが静かに言う。
「……我らはまだ、諦める段階には至っておりません。民がいる限り、領地がある限り、為すべきことはあります」
レオニダスはゆっくり歩み寄り、サリウの肩に手を置いた。
「…………」
沈黙が落ちた。
窓外の灰雲が低く垂れ込め、燭火はゆらぎ、朧な長い影が床を引きずっていた。
サリウは深く俯き、考え込むように両拳を組んだが、やがてその眼差しに、静かに灯が戻る。
「——公爵閣下。黒樹の森には踏み込めずとも、マハザールの洞穴ならば、私の領地内にございます」
レオニダスが、顔だけゆっくりと向けた。“何を言い出した” という驚愕が、その瞳奥で硬質に光った。
「……サリウ。マハザールは《国》でも手出しできぬ死地だ。今年だけで六名、昨年は八名……奥へ進む者は戻らず、出口も地形も一定せぬ “迷界” と恐れられてきた場所だぞ」
重い声が室内の石壁に響く。
「行ってどうする。見えるものなど何もない。徒に死者の数を増やすだけだ……」
それでもサリウの眼は揺れなかった。
まるですでに心の底で、覚悟が完了している者の表情だった。
「——座して再発を待つのであれば、領主である意味がございません。民がまた倒れ、あの夜の悲劇が繰り返される前に“可能性の根”だけは見に行かねばなりませぬ!」
短いが決定的な言葉だった。
レオニダスは、サリウの熱量に押されるように僅かに息を整え、椅子から身を引いた。
「本気、か」
「…はい」
次の瞬間、サリウは片手を胸前に掲げ、静かに息を整え——水魔法を解き放った。
空気が揺れ、微細な魔力粒子が空間を満たす。
彼の掌から澄み切った蒼の球体が生まれ、光輪を伴いながら部屋全体を照らし出す。
それはただの水魔法ではなかった。
見る者の呼吸を「静め」、心臓の鼓動を「整え」、微かな痛みや痺れを「撫でる」癒しの波動が宿っていた。
「っ……!」
レオニダスの瞳が、暴風の中で一点を凝視する獣のように鋭くなる。
——これは軍の療法魔導士でも到達し得ぬ領域。
——いや、もはや「治癒」ではなく「調律」の魔力。
「……サリウ。貴様!いつからこんな力を得た!」
レオニダスは思い起こす。サリウの魔法の力量はよく知っている。幼い頃から、自身の水属性にコンプレックスを持ち、修練を怠っていたことも。クカイの突然の死により、道半ばで慌ただしく領主となったことも。優秀な領主として成長はしたが、魔法士としては凡百の才能だった筈。
「最近——“きっかけ” を得ました」
「なに!?」
伯爵は静かに答えた。
「"クラウド"と、貴方が呼んだ子を覚えていますか」
レオニダスの胸奥に、ある光景がまざまざと浮かぶ。
黒樹の森、月光を背に宙に浮かび強大な魔法を操った、まるで精霊の如き幼子。
公爵は低く呟く。
「……“クラウド”。あの子だな」
サリウは深く頷いた。
だが声にした言葉は、ごく少しの事実だけ。
「詳細はまだ申し上げられません。ですが——彼の存在が、私を正す鏡となりました。魔力の引き出し方も、世界の見え方も」
レオニダスは椅子から立ち上がり、拳ではなく掌を机に置いた。
怒りではなく——覚悟を乗せるための平手だった。
「……分かった。無謀ではなく、賭けだな。その路を行くというのなら——私も“傍観者”では済まん」
そして短く言う。
「お前だけ行かせる訳にはいかん。必ず、私も行く」
サリウは目を伏せて深く頭を垂れた。
「お心遣い痛み入ります。……レオニダス様の事を、クラウドと相談してみます」
ギラリとレオニダスの眼が光る。
「——ほう。クラウドと、な」
「——はい」
レオニダスの視線は、遠雷のように低く震えていた。その目は、遠き未来を睨む戦場の将のそれだった。
「国が盲いても、我らだけは目を閉じぬ」
膝を折ったサリウは静かに、レオニダスを見上げた。
「……必ず、共に」
炎が一度だけ強く揺れた。
まるでその言葉を刻むように。




