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プロローグ ととのいの果て

初めて投稿します

見つけて読んでいただいた方ありがとうございます

ゆっくりとした進行に拙い文章ですが続けて読んでいただけましたら幸いです

 東京駅から徒歩数分のオフィスビル、その営業部の一角に蔵田一人(くらたひとり)はいた。

 課長職を任されて二年、40歳になった。決して饒舌ではないが、誠実な仕事ぶりと部下への気配りで、彼は社内でも一目置かれていた。取引先からの信頼も厚く、数字も安定して伸ばしている。

 だが今日も、残業は日付をまたぎ、ようやく片付いた書類をスキャンし終えたときには、社内にはもう誰もいなかった。


 肩を回し、背筋を伸ばす。

 無機質なビルの灯りの中、彼の目が向いたのは、いつも使っているカプセルホテルの看板だった。


「今日も……行くか」


 会社からほど近いそのホテルには、深夜も開いているサウナがある。観光客もサウナブームの若者ももういない時間。人気のないサウナで、ただ一人、静かに汗を流す——それが、今の蔵田にとって唯一の癒しだった。薄暗い空間で炉の熾火の光に目を細める。


 五年前の秋、千葉のキャンプ場で開かれたテントサウナのイベント。そこで彼は(れい)に出会った。

 焚き火の煙が上がる夕暮れの中、テントの前で革のキーホルダーを磨いていた彼に、彼女が声をかけてきた。


「それ、レザークラフト? 綺麗な仕上げ……」


 ほんの些細な会話だった。だが彼女も自作のバッグを作ったりとハンドクラフトをするらしい。共通の趣味、そしてサウナという共通言語。何かに導かれるように、二人は惹かれ合っていった。


 出会って3ヶ月で結婚。周囲には驚かれたが、迷いはなかった。彼女のはにかむ笑顔を自分だけのものにしたい。歳をとっても二人で趣味を大事にゆっくりと歩んでいける。そう信じ込んでいた。


 しかし、幸せは長くは続かなかった。


 玲が倒れたのは、結婚してわずか半年後。

 末期の癌だった。医者は治療の手を尽くし蔵田自身も仕事を休み懸命に励まし支えたが、2ヶ月後、彼女は病室で静かに息を引き取った。


 二人の結婚生活はたった1年にも満たなかった。


 玲の父母は、結婚してくれて、最後まで側にいてくれてありがとう、娘がすまなかったと涙ながらに言った。蔵田に代わり、葬儀も滞りなく執り行ってくれた。


 蔵田は全てを失った。

 蔵田にとって玲は思い描く未来の全てだった。


 職場は理解を示してくれたが、休職は長引き、心の中に空いた穴は塞がらなかった。

 ようやく復帰しても、生活の彩りは全て抜け落ちたようだった。

 唯一残ったのが、玲と通ったサウナだった。


 あの頃、彼女が言っていた。


「サウナって、心の奥までととのっていく気がする。リセットじゃなくて、ちゃんと“ほどけてまた結び直す"っていうか……」


 蔵田は、今日もその言葉を思い出していた。

 いつものホテル、いつものサウナ。

 ロウリュをして、静かに蒸気を浴びる。

 熱気が肌を刺し、肺腑に熱が満ち、意識が内側へ沈んでいく。

 そのあとに待つ、水風呂の静寂——そして、外気浴。


 夜更け、ビルの谷間にある小さなデッキチェアに身を委ね、彼は空を見上げた。広大な虚無の世界に我が身ひとつだけ放り出されたような寂寥感。


 それでも、今日もサウナは蔵田の心を優しく癒してくれる。


 風が頬を撫でる。心音が静まり、全身がふわりと浮くような恍惚感に包まれる。


 ——玲。そっちはどうだ?


 目を閉じれば、彼女のはにかんだ笑顔が浮かぶ。

 優しい目元。小さな声で「おつかれさま」と笑っていた玲。

 その幻に、涙が滲む。


 翌朝、蔵田は目を覚まし、スーツを着て会社へと向かった。今日は重要な商談がある。プレゼンの段取り、資料に不備はないか思考を巡らせる。


 大通りを渡り会社のほうへ路地を抜けていく、いつもと変わらぬ通勤路。その時だった。


 ——クラクション。

 ——悲鳴。

 ——明滅する光。

 ——冷たい衝撃。


 何が起きたのか、すぐにはわからなかった。

 痛みはなかった。いや、痛みを感じる間もなく、意識が離れていく。

 頬に何かが流れる。血なのか涙なのか、それすら分からない。もう何も感じない。

 視界が暗くなる中で、彼の頭に浮かんでいたのは、また——あの笑顔だった。


 玲。今、そっちに——


 すべてが白くなり、そして静かに、終わりが訪れた。

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