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記憶喪失

作者: 古数母守

「もう二度と私の人生に関わらないでちょうだい」

あの時、彼女は言った。もちろん私もそうするつもりだった。彼女の方こそ、私の人生に二度と関わらないでほしいと思った。そして私たちは三年間の結婚生活にピリオドを打ち、各々の道を歩き始めた。


 あれから一年が経った。私はカフェにノートパソコンを持ち込み、コンピューター関連の認定試験に備えて勉強をしていた。集中に疲れ一休みしている時に、見覚えのある姿の女性が近くに座っているのを見た。それは別れた彼女だった。どうしてこんなところにいるのだろうと思った。私がこのカフェによく立ち寄ることは彼女も知っているはずだ。私に会いたくないのなら、こんなところには来ないはずだ。そう思って彼女の方を見ていた。彼女はずっと本を読んでいた。私の視線に気付いたのか、こちらを見た。そして会釈した。私は訳が分からなかった。

 そのことがあってからも私は集中して勉強するためにカフェに通った。そして度々、彼女と顔を合わせた。

「何か一生懸命勉強なさっていますね」

ある日、彼女が声を掛けて来た。それは間違いなく彼女の声だった。私はどう答えて良いのか戸惑っていた。

「もしかして私のことを知っていますか?」

彼女は言った。そんなことがわからないというのは尋常なことではないとすぐに察した。

「半年前に記憶を失くしてしまったのです」

彼女は言った。


「今度、食事に行きませんか?」

やがて私たちは一緒に出掛けるようになった。彼女に誘われると、それを断ることができなかった。私はあなたと散々揉めた挙句別れた元夫ですと言えば良かったのかもしれない。だが笑顔で接して来る彼女の好意を無下にすることはできなかった。それに彼女は記憶を失くしているのだ。たとえひどい別れ方をしたとしても、困っている人を助けるのは理にかなっていると私は思った。それに記憶が戻れば、彼女は自然と離れて行くだろう。それまで力になってあげればいい。そんなふうに考えていた。彼女は自分がどれくらいひどい言葉を私に浴びせかけたかをまるで覚えていなかった。そして私が彼女に浴びせかけた罵詈雑言のことも全く覚えていなかった。映画を見て、喫茶店に入って、いつまでも楽しそうに話していた。付き合い始めた頃もこんなふうだったかもしれない。ふとそんなことを考えた。


 水族館に行った帰り、海のそばで話していた。もう夜だった。港はロマンティックなイルミネーションの輝きに満ちていた。港を望むベンチに恋人たちが座っていた。私たちもその中に含まれているのだろうか? 微妙なところだった。周囲の恋人たちは自分たちのことに夢中だった。私たちだって、もしかしたらその仲間に加われるかもしれない。少しだけそんなことを考えた。

「私、魅力がないのかな? 佐藤さんから全然誘ってくれないし」

彼女がぽつりと言った。彼女の横顔を見た。とても寂しそうで、とても素敵だった。そんなことないよと言いたかった。でも、言葉にならない。激しく私を罵る彼女のことを思い出してしまう。でもどうなのだろう? 私たちはやり直せるのだろうか? できればやり直したい。そう思っていると突然、バイクの排気音が聞こえた。なんだかよくわからないが逃げ回っているみたいだった。バイクは私たちの座っているベンチに向かって来た。危ない。とっさに私は彼女をかばった。頭に強い衝撃を受け、私は意識を失ってしまった。


 目覚めるとベッドに横たわっていた。知らない女性が心配そうに私を覗き込んでいた。

「あなた、誰ですか? 助けてくれてありがとう」

私は言った。その時、私は自分の名前すら思い出せないことに気付いた。もしかして記憶喪失というやつか? 

「助けてもらったのは私の方です。ありがとう」

その女性は言った。彼女も頭に包帯を巻いていた。

「私はあの時の衝撃で記憶が戻りました」

「それは良かったですね」

私にとっては災難だったが、記憶が戻ったという彼女にとっては良いことだったのだろう。よく見ると少し涙ぐんでいるようだった。

「明日もまた来ますね」

彼女は言った。どこかで聞いたことのある声だと思った。

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