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他愛のない話が途切れた頃、唐突にその音は聞こえた。ドン、ドン。テレビの音声とは異なる破裂音。
「なんや、この音」
顔を見ると少年も不思議そうに首を傾げた。一向に止まない音に不信感を抱き、首を巡らせて出所を探る。うるさいテレビを消し、外からの音だと当てをつけ、閉めていたカーテンを開けた。
窓ガラスの向こうで、赤の光が瞬く。
カラカラと窓を開けると、なだれ込む音が鼓膜を揺さぶり、腹の奥に響いた。空にパッと光が咲き、数秒後に音が追いつく。赤や黄色、青や白。雲のない夜空に、光の大輪が輝いては散っていく。建物に阻まれて見えないものもあるが、打ち上げ花火は十分にこの部屋から臨むことが出来た。
思わず見惚れる女の横で、いつの間にか隣にやって来ていた少年がため息をついた。それは美しい景色に対して震える心の吐息だった。
「今日、夏祭りやったんやな」
「うん。知らなかった」
「もっと近くまで見に行くか? 店とか出とるかもしれへんで」
女は、少年の瞳の中に光を見つける。ただ花火の光が反射しているだけかもしれない。それでも、今日初めて見る輝き。
「かき氷でもたこやきでも、なんでもおごったるよ」
その光を両手で囲って守るように、絶やさないように、縋るように続ける。
「そっか、食べもんはいらんよな。腹減っとらんて言うとったな。そんなら、金魚すくいでもするか? 射的でもくじびきでも、やりたいもんあったら、遠慮せんといくらでも言いや」
暗闇に宿る光。それを瞬かせ、やがて少年は首を横に振った。
「ううん。何もいらない」
「ほんまにええの」
「うん。僕、人混み苦手だし。静かに花火が見られるなら、その方がいい」
その言葉に、女も頷く。
「ほうやな。それもまたええかもしれんな」
しばらく二人は並んで花火を眺め、再びソファーに戻った。つまみはすっかり姿を消し、女は彼のグラスをすすいで、二杯目の麦茶を注いでやった。クーラーを点けたまま窓を開ける贅沢を、今日だけは許すことにする。右手側の窓の向こうでは、花火が上がり続けている。時折ぽつぽつと会話をし、ただ静かな時間を過ごす。
女は、首を傾けて花火を眺めている少年を見つめた。いつの間にか、彼から血痕は消えている。家に来た時から、風呂から上がっても顔や手足にこびりついていた血や泥は、跡形もない。顔から全身に散っていた青あざも綺麗さっぱり消えている。爪が割れ、土のついていた足先も、今や健康的な肌色だ。そして瞳には光が宿っている。痩せてはいるが、ここまで綺麗な姿を目にするのは、出会ってから初めてのことだった。
「あんた、今どこにおるん」
囁き声に、少年は振り向かない。花火に夢中なせいで、聞こえていないらしい。
だから身を乗り出し、その左肩を握りしめ、こちらを向かせた。
「なあ、今、どこにおるんよ!」
顔を近づけると、ほんのりと甘いりんごの香りがする。土と汗と血のにおいはすっかり消え、穴ぼこのようだった瞳に、自分の姿が映るのを目にした。必死な形相の女が、彼を通してそこにいた。
「うち、知っとるんやで! あんたは行方不明なんかやない、殺されたんやろ! やから帰ってこれへんのやろ!」
顔色を変えない彼の左手首に傷はない。包丁で裂いても、そこから血は流れなかった。生きてはいない自分の身体を見下ろして、泣きそうな顔をする彼は、どうにかして生きていたいと願っていた。
「うちはわかっとるんや。全部、全部わかっとったんや!」
雪の舞う寒い夜、公園で出会った時から、知っていた。気づいていた。汚れた薄着で震える彼の姿が、全てを物語っていた。家を追い出され、行き場のない少年は、いつだって傷だらけで腹を空かしていた。コンビニの温かなおでんを貪り、決して泣かない彼が泣きそうな声で発した「ありがとう」は、鼓膜を越えて脳の奥に染み込んでいる。やり場のない感情を覚え、居場所のない彼と過ごす時間は、虐待のひどさに比例して長くなっていった。
最後の日、今日と同じ台詞を彼は口にした。暗く澱んだ疲れ切った瞳で、生きている実感が欲しいと言った。あれが、彼が発した最初で最後の救難信号だった。恐らくこの世で唯一、同じにおいを嗅ぎつけた相手に対し、彼は命がけで手を伸ばしたのだ。
それなのに、馬鹿なことを言うなと軽くあしらった。何も考えず、中学生の世迷言だと相手にしなかった。「それより、飯でも食べへんか?」少年にとって絶望的な台詞を吐き捨て、その手を振り払った。彼は何も言わずに首を横に振り、いつの間にか帰ってしまっていた。
明日になればまたやって来るだろう。
その明日は永遠に訪れず、やがてテレビのローカルニュースで、彼に捜索願が出されていることを知った。最後に部屋を訪れた翌日から行方不明になり、親が警察に届けたそうだ。
「あんたの親が絶対犯人やのに、アリバイがあるって。そんなん……そんなん、でっちあげに決まっとるやん! それやのに、のうのうとテレビなんか出て、白々しいことばっか言いよって……!」
彼の細い両肩を握り締め、声を振り絞る女は思い出す。テレビカメラを向けられ、「はやく見つかって欲しい」と言いながらハンカチで目頭を抑える母親。ふざけんな、ふざけんな、ふざけんな! 画面に怒鳴り散らした。あんたがあの子に何したか、うちは全部知っとんや!
「いっつも言うてたやろ。殴られたとか、飯をくれんとか。あんたは、ぼろぼろやったよなあ。うち、警察にも言うたんやで。あんたは親に虐待されとって、毎日傷だらけやったって。やから家出なんかやなしに、親が手出したんに決まっとるって、そう言うたんや。そんでも、証拠がないからって!」
あの日から、行方不明の彼は何度もこの部屋を訪れた。その度に、あの日と同じ台詞を口にした。最初は彼が帰ってきたのだと喜んだが、少し目を離した隙に彼は姿を消した。そして翌日も現れ、同じことを言った。
どうにかして彼と話をしようと、毎回返事を変えた。願いを叶えれば良いのかと応えても、振り返ると消えていた。夕飯を食べさせようと、茶碗に飯をよそうために背を向けた途端にいなくなった。誰もいない浴室で、シャワーから温水だけが流れていた。
これほど長い時間、姿を現しているのは、今日が初めてだ。
そして確信できることが一つ。彼はもう、この世にはいない。
「なんであんたが……あんたみたいなええ子が、死んでも辛い目に遭わんといかんねん。あんたは、生きていたかっただけやのになあ。なあ、ほんまにどこにおんの。今、どこにひとりぼっちでおるんよ」
ぼろぼろと涙が溢れ、こうべを垂れる。あの日の自分が殺したいほど憎らしい。それと同じように、彼を尚も苦しめる両親が果てしなく憎い。その感情を超えて、生きたかったと願う彼の姿が悲しくて仕方ない。
「ごめんなあ。ほんまに、ごめんなあ。あん時、ちゃんとあんたの話を聞いてれば、助けられたかもしれへんのにな。一晩でもうちに匿っとったら、きっと今も生きとったのになあ」
後悔してもしきれない。他人との繋がりを諦めながら、それでも出会うことのできた相手を、みすみす見殺しにしてしまった。熱い涙をとめどなく流し、心の底から謝罪を続ける。
ふと、頬に何かが触れた。冷たくも、ましてや温かくもないが、確かに触れられる感触。それが少年の指先であることに気づき、ようやく顔を上げた。
彼は、笑っていた。出会ってから半年間、一度も目にしたことのなかった笑顔で。
「僕は、生きてたんだ」