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ドライヤーを片付け、麦茶の入ったグラスを少年に手渡す。自分のグラスには缶ビールの中身を注ぎ、ささやかに乾杯する。たことキュウリの和え物を箸でつまみ、彼はおいしいと言った。
「あんた、腹減っとるやろ。あとはカップ麺しかないけど、いる?」
「いらない。お腹空いてない」
ぽりぽりと彼はキュウリを噛む。女も、つまんだじゃがりこをぼりぼりと齧る。テレビでは、芸人が地方を観光しながらつまらないコメントを並べている。
「うち、あそこ行ったことあんねんで」
海の中からにょっきりと赤い鳥居が生えている。その絵面を指さした。
「誰と行ったの」
「誰とも。一人や」
「寂しいね」
「うっさい」
笑いもしない少年の裸足を、足先で軽く小突く。彼は足を少しだけ逃げるように動かす。オーバーリアクションの声がうるさく、女はリモコンでテレビの音量を絞った。
「よく行ったで、一人旅」
「一人で行くの、不安じゃないの」
「そんなことあらへんよ。むしろ、周りの方がうるさいで。女の一人旅やから、悪いこと考えとるんやないかって。余計なお世話や」少し塩味のする指先を軽く舐め、グラスを手に取り中身をあおった。「気楽な一人旅なんやから、ほっといてくれってな」
「……いいな、一人旅」
呟いて、彼はソファーの上で細い膝を抱える。
「僕もそれぐらい強くなりたい」
グラスを置いて、女はけらけらと笑う。
「そんなん、大人になって金稼いだら、いくらでも行ったらええやん。たいしたことやあらへんよ」
「出来る気がしない」膝に顔を押し付け、彼は暗い瞳で床を見つめる。「自分でお金を稼いで、知らない土地で暮らして。僕は、いつも強い岬さんみたいになりたい」
女は口をつぐんだ。決して自分は強くない、むしろその逆だ。そう訴える台詞が喉元まで出ていた。これを強いと呼ぶならば、強くならざるを得なかった。一人で生きざるを得なかった。まだ中学生の少年が憧れる生き様ではない。
「今度どこかに行く時は、僕も連れてってよ」
彼は顔を上げると、そんな言葉を口にした。
「あほ言わんとってや。学校はどないすんの」
「そんなの、もうどうでもいい」
「勉強しいや。うち、あほの子の面倒みたくないで」
「旅行って、そんなに知識いるの。行ったことないから、わからないけど」
初めて食い下がる少年の口に、女はじゃがりこを一本咥えさせる。黙って口を動かす少年と同じものを食べながら、宙を見つめて少しだけ考えた。
「……ほんなら、ええかなあ。あんた大人しいし、邪魔にはならへんやろ」
渋々といった口ぶりだが、内心ではかなり良い提案だとも思った。行けるものなら行ってみたいという気になった。
「あんた、海行ったことあるか」
「ない」
「ほんなら、今度行こか。泊まりでな。夕焼けがえらい綺麗なとこ知っとるからな」
こっちを見て、彼はうんと頷く。「……でも」難しそうに眉根を寄せた。
「お金がないよね」
「そんなん気にせんでええ」
「お金、あるの」
ある、と言いかけて口ごもってしまう。あるのは「自分の金」ではなく、あいつからの「慰謝料」だ。その意識のせいで、咄嗟に大人らしい返事ができなかった。
「旅行って、お金かかるんだよね。僕、全然もってないよ」
「あんたみたいな子どもに払わせたら、岬さんの名が廃るわ。そんぐらい、どうにだってなる」
「だけど」
尚も不安げに彼が言い淀むので、女は空のグラスを手に取った。缶に残っていたビールを最後の一滴まで注ぎ込む。グラスの三分の一しか満たされていないが、それを彼にずいと突き出した。
「ビールも高いねんで。これ飲んでから生意気言いや」
「やだよ」
顔をしかめる彼の頬にグラスを押しつけ、「ええから」としつこく勧める。
「ほら、一口でええわ。ちょっとは大人になり。これ飲まんと連れてってやらんで」
意地悪な台詞を吐くと、彼は唇を尖らせつつグラスを受け取った。座り直し、膝に置いたグラスを両手で包んでじっと見つめている。白い冠の消えかけた炭酸飲料は、ぷくぷくと細かな泡を昇らせる。
意を決し、両手を持ち上げて彼は縁に口をつけた。細い喉が一度だけ上下する。途端に少年はグラスを膝に戻し、べえっと舌を出した。
「苦い」
その様子に、女は声を出して笑う。少し酔った頭では、初めて見る少年の表情がやけにおかしく思えた。
「飲めたやん。ほら、もう一口」
「やだ」
彼が突き出すグラスを受け取り、テーブルに置く。その最中も目尻に涙が浮かぶまで笑い転げていた。