この絵の中の二人のように
秋の気も息を潜めた曇天の下。その日は手指さえ霜が付くのではないかと思えるほど、酷く冷え込む一日だった。既に放課後を迎えた高校の校舎からは、生徒がさざ波のように校門の外へと流れ出ていく。ようやっと訪れた、堅苦しい勉学の時間からの解放。教室に残り歓談していた1年A組の生徒達だったが、時を経るにつれ、彼等もまた教室の外へと散開していく。
「……」
ごうんごうんと静かに唸る暖房機のみが存在を主張する教室の中。螢は席に腰を下ろしたまま、窓ガラスに額を寄せて外の様子を見下ろしていた。赤み掛かった長髪をくるくると指先で弄びながら、校門へ向かって流れていく生徒達を順繰りに見回す。
「……はぁ」
そうしてひとしきり生徒達の頭を眺めると、溜め息を吐いてから正面へと向き直った。
「それで? あの絵が変ってどういう意味? 具体的にどこが変だと思ったのか教えてよ。……凛?」
螢に問い掛けられ、彼女の正面で退屈そうにスマホを触っていた少女が螢へと視線を移す。その目に若干の睨みが利かされていることに、螢は気付かない。
「……あのさ、まるでいままで会話が続いてたみたいに話し掛けてこないでよ。私が最後に螢に話し掛けてから、どれだけ経ったと思ってるの」
凜は頬杖を突きながらジトッとした目付きで螢を見据える。それが自分に回答を促す挙止だと察した螢は、目を瞬かせると事もなげに答えた。
「十秒くらい?」
「ぶっぶー、ハズレ!」
食い気味に不正解を告げる凛。螢が答えを外すことなど、彼女の中ではわかりきっていたようだ。
「十分! 正解は十分だから! 私と話してるときにチャイムが鳴ってから十分間、螢はずーっと窓の外見てたんだからね、私のことなんて無視してさ! そりゃ集中力高いのはいいことだと思うよ? でもしゅーちゅーたって限度があるじゃん! この前だってさ、ほら覚えてる? 二人で一緒に――」
そのまま螢に向けてペラペラと言い募る。どうやらいままで募らせてきた経年の不満が、先のやり取りをきっかけに爆発したらしい。滔々と押し寄せてくる親友からの苦情に頭の上がらない螢ではあったが、それでもいま彼女には、より重要性の高い関心事があった。
「そ、そんなことよりさ! あの絵のこと教えてよ。変って具体的にどこが変だと思ったの?」
捲し立ててくる凛の言葉を遮り、再度問い掛ける。螢とて、親友からの不満の言葉に耳を傾けてやることが、これからも交友を続けていくうえでとても大事なことなのはわかっている。しかしそれでも、螢にとって絵とは親友との交流と同じくらい――いや、それよりも更に重大なテーマであることは、螢の真剣な眼差しを受けて凜にも伝わっている。細かに言えば、そもそも彼女等はそんなことは重々承知のうえでの親友なのだった。
「はぁ……ほんとマイペース極まりないんだから。いや、知ってたけどさ。うんざりするほど知ってるから怒ってんのに、これなんだもんなぁ」
なおもぶつくさと不満を吐露する凛だったが、螢の毅然とした立ち居振る舞いを前に怒りの炎は消沈したようで、椅子に座り直すと会話を再開した。
「えーっと、あの絵のどこが変なのか、だっけ。それなんだけど……螢さぁ、ほんとにわかんないの?」
「うん」
訝しむような視線を受ける螢だったが、しかつめらしく即座に首肯してみせた。おおよそ三カ月、今日に至るまであの絵については幾度も咀嚼したのだ。それでも何がおかしいのか――何が“彼女”をおかしくしてしまったのか。それがわからなかったから、親友が雑談の折に零した『あの絵は変だよね』という一言に執心しているのである。
「そっか。……んー、なんか螢ってさ、絵はすっごい上手なのにそれ以外は……ずぼら? だよね。ほら、今日だって寝癖すごいし、お弁当も忘れるしさぁ」
「うぐ、それは……」
唐突に自らの恥ずべき体たらくを指摘され、流石の螢も動じてしまう。両膝の上に揃えていた手を肩まで挙げ、髪に手櫛を通そうとする……が、通らない。僅かな陽光を受け、橙色に透ける彼女の頭髪は、手櫛が通らないほどに痛んでしまっていた。
「……そ、そんなことより! あの絵が変ってどういう意味よ! ちゃんと教えて」
親友からの苦言を無下にしておいて、髪の毛や昼ご飯の話題などにかまけてはいられない。それがたとえ、彼女自慢の赤髪についての話だったとしても。たとえ親友の弁当を、半分以上平らげてしまっていたとしても。
「わかったわかった。でも、変っていうかなんていうか……間違っている、って感じ? そういえば、瑞氣ちゃんはあの絵について何か言わなかったの?」
「……なんでいま瑞氣の話が出てくるのよ」
「だってあの絵って螢と瑞氣ちゃんの二人で描いたんでしょ? なら瑞氣ちゃんはどう思ってるのかなぁって」
「…………」
なかなか回答を寄越してくれない凜の態度に悶々としつつ、螢の脳裏にはあの絵と“彼女”のことが自然と想起される。三カ月前、螢はとある絵画のコンクールに作品を応募したのだ。そのコンクールとは、通称『合作コン』。そして合作コンに螢が提出し、見事佳作を受賞した作品こそ、件の“あの絵”に他ならない。
「瑞氣……」
合作コンは名前の通り、複数人が共同で制作した作品のみを対象としたコンクールだ。当然螢の作品も共同で制作したものであり、その共同者こそ、螢の双子の妹である瑞氣なのだった。
「螢?」
急に押し黙ってしまった螢を見据え、凜が不思議そうに呼び掛ける。
「あ……もしかしてまだ、瑞氣ちゃんと仲直りできてないの?」
「だって瑞氣があたしのこと、避けるんだもん……」
うじうじと拗ねるような声音で呟くと、螢は俯いた。そしてそのまま、ここ三カ月間の出来事――延いては、いままで彼女が歩んできた人生の古今を想起する。彼女の人生とは、押し並べて言えば“絵を描くこと”だった。そして彼女の隣には、いつも瑞氣の姿があった。
「あたし……もうずっと絵を描けてない」
合作コンに作品を提出してから三カ月。物心が付いたころからずっと一緒に絵を描いてきた螢と瑞氣だったが、この三カ月間は全く絵を描いてはいなかった。それは螢に言わせれば、“描けなくなってしまった”というのが正しいニュアンスだろう。
「螢……」
どっと気持ちが沈んだ様子の螢に、心配そうな視線を送る凛。
「……あれ?」
しかしふと視線を上げると、キョロキョロと周囲を見回した。いつの間にか教室内は、寒々しい静寂で満ちていた。既に二人以外の生徒は全員教室を去ってしまったようで、暖房も切られてしまっている。屋外は息が白くなるほどの低気温だが、幸い教室内はまだ温かい。それでもいずれは教室内にも冷たい空気が浸透するし、最終的には二人も教室を出て、各々帰路に就かなければならない。そもそも帰りのホームルームの後にこうして二人が雑談をしていたのも、根底には寒空の下に身を晒すことを嫌ったからというのがある。その思いは二人とも共有するものであるが、同時に“帰らなければならない”という思いも、当然二人の中に存在していた。むしろ、疲れた体を一等寛げる空間へと運ぶことはやぶさかではない。この温かい教室を出るという関門さえ突破してしまえば、帰宅とは自ずと成されるものだ。もっとも、その教室を出るという第一歩こそが、寒くて寒くて億劫なのだが。
「……ふぅ。ねえ螢、そろそろ行こう?」
「え? あ、うん……」
凛の言葉に不意を突かれた様子の螢だったが、素直に席から立ち上がって鞄を担ぐ。凜は一足先に扉の前までスタスタと歩いていくと、そのまま螢を置いて教室を出ていく……なんてことは当然、しない。彼女自身は、外が寒かろうが歩いて温かい我が家へ帰ることはやぶさかではない。しかし、落ち込んでいる親友をこんな寒い日に一人、とぼとぼさみしく帰路に就かせることを可哀そうだと思った。だから凜は、教室を出て家路に就く前に、螢の方へと振り向いた。
「ほーたるっ!」
にっと笑うと、不思議がる螢にそのまま言葉を続ける。
「螢、いますぐ瑞氣ちゃんと仲直りしてきなさい!」
「え、凛? 何を……」
「仲直りしてくるまで、あの絵が変って思った訳は教えてあげないよ! 瑞氣ちゃんまだ学校にいるんでしょ? それならほら、行ってらっしゃい!」
「え? あ、待っ――」
螢の制止も聞き入れられることはなく、凜はキュッキュッと足音を立てて廊下を駆け去ってしまう。
「…………」
一人教室に取り残された螢。一瞬呆気に取られてしまったが、すぐに意識を浮上させた。そしてポケットからスマホを取り出し、位置情報アプリを開いてみる。町を見下ろす形でマップが表示され、画面上で複数のアイコンが蠢き出した。学校の敷地内でゆっくりと移動するアイコンは凜のものだ。そして昇降口の辺りで留まっているのが――瑞氣のアイコン。しかし、これは現在の彼女の居場所を教えてはくれない。最近の彼女は学校へ到着すると同時に位置情報の共有をオフにしているらしく、アイコンは今朝の位置のまま止まってしまっていた。登下校の際にいちいちオンオフを切り替えている辺り、心配を掛けたくはないのだろうが、しかしこれでは彼女の詳しい所在はわからない。それでもアイコンが止まっているということは、彼女はまだ校内にいる。螢自身、下校する生徒達の中から瑞氣を見つけられてはいないため、その可能性は高いだろう。
「仲直り……か」
凛の言葉を思い出す。螢だって当然、このままでいたいとは思っていない。いままでのように一緒に絵を描く関係に戻りたいと思っている。しかし螢には、瑞氣に避けられるようになった理由に心当たりがなかった。
『変っていうかなんていうか……間違っている、って感じ?』
結局凜があの絵を変だと思った理由も、間違っているという言葉の真意も、わからずじまい。
「……もう一回、あの絵を見てみよう」
瑞氣に避けられるようになった時期からして、合作コンが関係しているのは間違いない。であれば、あの絵からわかる事実がまだ何か残っているかもしれない。螢は冷えた空気で満ちつつあった教室を出て、更に冷たい風が通り抜ける廊下を歩き出した。
*
合作コンへの応募は螢と瑞氣が個人で行ったものであり、学外の活動である。つまり高校は二人の作品作りには一切関与していない。しかしながら、高校としてはたとえ何の関与もしていなくとも、自校の生徒の活躍は広く知ってほしいものらしい。一ヶ月ほど前にコンクールの運営から螢達の元へと返還されたあの絵は、現在に至るまで彼女等の通う学校の校舎に展示されていた。
「……やっぱここにはいないか」
絵の展示スペースへと向かう螢だったが、寄り道をしていったん瑞氣の教室を覗いてみた。しかし、薄暗く薄ら寒い教室の中には、瑞氣どころか一人の生徒も残ってはいなかった。下校時刻を過ぎてから既に三十分近く経っているのだから、当然だろう。螢は特に残念がることもなく、当初の目的地である展示スペースへと歩を進めた。四階から三階へ降り、しんと静まり返った廊下を進んでいく。ふと校内に自分の足音しか響いていないことに気付き、何となく心細くなる螢だったが、展示スペースまで辿り着くと目線を上げた。そしてすぐに、心細さは意識の表層から消え去った。異変に気が付いたからだ。
「あれ? ない……?」
十作品ほど並べて壁に掛けられている生徒の絵画群。その中でも特に大きかった螢と瑞氣の絵はしかし、ギャラリーから姿を消してしまっていた。壁面に残された不自然な空白が、晴れやかなギャラリーを翳らせるノイズと化してしまっている。
「撤去されたってこと? あたし何も聞いてないんだけどな……」
別に無断で撤去されたことについて怒る気持ちなどはない。絵の展示スペースは有限だし、一カ月も展示すれば十分だと考えるのも理解できる。ただあの絵は大きいから、螢でなければ持って帰ることができない。持ち帰りの都合くらいはこちらに合わせて欲しいというのが、螢の願望だった。
「……ん?」
ふと展示スペースの先――廊下の一番奥にある美術室が気になった。螢と瑞氣の所属する美術部は、今日は休みだ。最近部活をサボっている螢としては、顧問と顔を合わせる心配がないため正直ありがたい。
「……瑞氣?」
呟きが零れる。別に何か気配を感じたわけではない。光も漏れていないし、暖房による温かい空気も流れてはこない。ただ……非常勤の美術の先生は今日、学校に来ないはずで。展示スペースから美術室程度の距離であれば、先生でなくとも、螢でなくとも、あの絵を運ぶことができるかもしれなくて。そうであれば、今日一日くらいならあの絵を美術室に隠しておくことも、できるかもしれなくて。……それが可能かもしれないと思い至っただけで、そんなことをする目的は螢には全く思い浮かばなかったが、それでも。
「……ふぅ」
美術室の扉の前に移動する螢。別におぞましい何かが待っているわけではないとわかっていても、若干緊張した面持ちで中を覗いてみた。
「……」
美術室内は、廊下よりも更に寒々しい空気感を秘めている。しかし、それだけだ。それ以外の異質な何かが螢を待ち構えていることなど当然、ありはしない。一瞬の逡巡の後、結局螢は中に入ってみることにした。強張った手付きでゆっくりと扉を開け、冷気の壁を蹴破って美術室の中へと踏み入る。そして教卓の前まで来ると、室内を隅まで見回した。すると。
「……あ」
教室の奥に、一人の少女がいた。車椅子に座り、驚いた表情で振り返る少女。白髪のショートヘアが横薙ぎに揺れる。
「ほ、螢……!」
そして螢の姿を認めると、少女は僅かに息を呑んだ。
「……瑞氣、ここにいたんだ。こんなところで何して……」
もたげている右手へと視線を移すと、そこには絵筆が握られている。そして彼女の正面には、イーゼルに架けられたキャンバス。
「あんた……何してるの?」
今日美術部は休みだ。先生もいないし、電気も暖房も付けずに取り掛かるような作業もないだろう。螢は怪訝そうな表情のまま瑞氣の元へと近付いていき、彼女が向かい合っていたキャンバスを見下ろした。
「! これ……」
そこには、二人の少女が描かれている。片手を繋ぎ、二人の長い髪がまるでメビウスの輪のように捻じれ溶け合い、繋がった……赤髪の少女と白髪の少女の絵。これは螢が合作コンに応募した“あの絵”に他ならなかった。しかし……白い髪の中程が、黒い絵の具で塗り潰されてしまっている。螢の知っているあの絵には、そんな描画は存在しなかった。
「――! あんた、なんてこと……!」
瞬時に状況を理解した螢は、眉根を寄せて瑞氣のことを睨め付けた。
「だ、だって……」
怒りを露わにする螢を前に、青ざめた顔をする瑞氣。顔色の悪さが怯えからくるものなのか、冷え込んだ美術室に留まっていたことによるものなのか。はたまた、その両方によるものか。どうあれ、いまの螢はそうして萎縮する妹の面持ちさえ、見えなくなってしまっていた。
「だって、何よ! あたしに断りもなく描き変えるとか、流石に度が過ぎてるでしょ!」
この絵は螢と瑞氣、二人の作品だ。それに独断で手を加えるなど、螢には到底許せなかった。
「あたし達……ずっと一緒に絵を描いてきたじゃん! なのに、どうして急に、こんな……!」
螢の中で三カ月に渡って煮詰められてきた鬱憤が、轟々と溢れ出す。いつだって二人は心が通じ合っているかの如く、協力しながら――共鳴しながら一緒に絵を描いてきた。そんな十数年間続いてきた日常は三カ月前に突如として損なわれ、いま目の前では螢が最も瑞氣にされたくなかったこと――されるというイメージすら抱いたことのなかった出来事が、起きてしまっていた。
「どうしてこんなことしたの……ねえどうして? 瑞氣……っ」
床にくずおれ、瑞氣の顔を見上げる。螢の顔には既に怒りの面影はなく、ただ困惑と悲しみの色のみが浮かべられていた。瑞氣に本物の怒りを覚えたことも、それを剥き出しにしたことも。螢はいままでただの一度もなかった。だから彼女の煮え滾るような怒りは、爆発の仕方すらわからないまま急速に沈澱していった。
「螢……」
そんな螢の様子を見て、瑞氣の顔色は若干好転する。初めて向けられた、姉からの本気の敵意。それが止んだことで、ひとまず心の落ち着きを取り戻したのだ。床に座り込んだまま見上げてくる螢に、瑞氣は答え始める。
「……確かに私達はいままでずっと一緒に絵を描いてきて、ずっと一緒に絵と向き合ってきた。だけど私達は……私達自身とは、向き合ってこなかった。螢、私ね……この絵が嫌い」
「え……?」
それは螢が全く想定していなかった回答だった。二人にとって、絵とは表象を現実に再現するための手段……その最適解をキャンバスの上に表現した結果だった。作品の出来に良し悪しはあっても、そこに見出すべきはすべからく今後の創作に活かすべき反省と改善の機会。学習のために絵を吟味することはあっても、好んで見蕩れたり、嫌って描き直したりする対象ではなかった。……そのはずだった。
「嫌いって……どうして? ちゃんと二人で話し合ったじゃん。テーマもモチーフも、構図も色使いも……全部二人で納得して描いたじゃん! なのに、どうして……」
「っ、どうして、どうしてって……やっぱり螢にはわからないよね。私の気持ちなんて」
「瑞氣の、気持ち……?」
瑞氣の気持ちがわからないなんて、そんなわけがない。なぜなら、ずっと一緒に生きてきたのだから。そう思いたい螢だったが、その目に映る瑞氣の表情が。絵筆を握り締めたままふるふると震える拳が。螢の考えを瞭然と否定していた。
「私、絵を描くことが一番好きで、絵を描くことが一番大事。それは螢も同じでしょ? でもね、あの絵を描き終わってから気付いたの。……私はあなたの隣にはいられないんだって。一緒に絵を描いちゃいけないんだって」
「え、なんで……? そんな――」
「だからね、気付いたの。あの絵の中の私は、私じゃない。螢はきっと気付いてないんだろうけど……私はね、あなたと違って自分の髪なんて好きじゃないの。だから私は、あの絵の中の私みたいに髪を伸ばしたりなんてしたくない。それに……私は歩けない。あの絵の中の私みたいに、あなたの隣に並んで立つことなんて……できない」
「そんなの……絵と現実は別じゃん! 自分の髪が嫌いでも、歩けなくっても……瑞氣はいつもあたしの隣にいて、対等で――」
「対等じゃない! 対等なんかじゃ、なかった……。一緒に絵を描く私達は、対等なんだって私もずっと思ってた。でも、私がいつも螢の隣にいたのは……私が一人じゃ生きていけないから。あなたに助けてもらわないと、自分の生活すらままならないから。……それなら私が隣にいなければ、螢はもっと自由に絵を描くことができるでしょ? 私はもうこれ以上……螢に迷惑を掛けたくないの!」
「瑞氣……」
苦しそうに、辛そうに。絞り出すような声で叫ぶ瑞氣の顔を見ていられず、螢は目を逸らした。そして行き場を失った視線を、すぐ横に立つキャンバスへと向ける。混濁した視線を向ける螢とは裏腹に、絵の中の二人は和やかそうな視線を返してくる。
『もうこれ以上……螢に迷惑を掛けたくないの!』
(それってつまり、あたしのことを避けてたのはあたしに迷惑を掛けたくなかったからってこと? ……なによ、それ。あたしはあんたのことを迷惑だなんて、思ったこと――)
『私達は……私達自身とは、向き合ってこなかった』
「……っ」
瑞氣の言葉が脳裏をよぎる。きっと、いまこうして本物の瑞氣から目を逸らしていることがまさに、自分達自身と向き合っていないことの証左だろう。……そう思ってもなお、螢は本物の瑞氣の方へと視線を戻すことができなかった。絵の中の瑞氣は、いまなお螢に柔和な笑みを向けてくれる。それは、三カ月前まで本物の瑞氣から向けられていたものと大差なかった。絵の中の瑞氣の白髪は、黒く塗られて短く手直しされている。これは、今現在の瑞氣の髪型と大差ない。更によく見ると、髪だけではなく足にも新たに絵の具が乗せられていることに気が付いた。絵の中の瑞氣の両足は、まるで筋肉を削ぎ落とされたかのように、弱々しく修正されていた。現実の瑞氣の足をそのまま写し取ったかのように、細く、弱々しく。
「……」
そのまま螢は絵の中の自分へと視線を移した。
(……あれ?)
そして、気付いた。修正された絵の中の瑞氣を見た直後だから、わかる。
(――これ、あたしじゃない)
自身の髪を手で掬い、絵の中のものと見比べてみる。するとやはり、痛んで手櫛すら通らない螢の髪は、絵の中の螢の髪のように艶やかなウェーブを描かない。それだけではない。睫毛だってこんなに長くはないし、肌だって瑞氣と並んで遜色ないような美白ではない。
(この絵は……変だ)
この絵の中の螢だけ。まだ、現実と違う。……間違っている。
「! ほ、螢?」
突然床から立ち上がる螢。ぐるりと周囲を見回すと、すぐ横の棚に並べられていた絵筆をガッと掴み取った。そして瑞氣に向かって、叫ぶ。
「赤系の絵の具、溶かしといて! あと黒も!」
「え……」
「早く!」
「! わ、わかったよ……」
唐突に気勢を上げる螢に動揺しつつも、瑞氣はテキパキと絵を描くための準備をし始めた。……その光景はまるで、以前の二人のもののようだった。
*
螢が絵の修正を始めてから、数十分が経過した。
「――螢! ねぇ、螢ってば!」
「! 瑞氣……どうしたの?」
幾度とない呼び掛けの末、ようやく螢は瑞氣の方へと振り向いた。普段であれば、ここまで作業にのめり込むことはそうそうない。三カ月ぶりに行うまともな描出が、ただでさえ高い螢の集中力を数段階引き上げていた。
「もうそろそろ暗くなってきちゃうよ……」
言われて螢は窓の外に目を向ける。すると天気が回復しつつあるのか、朧雲は晴れ間に裂かれ、橙色の夕日を覗かせていた。美術室内もいつの間にか照明と暖房の電源が入れられており、快適な空間が作出されている。もちろんこれは、画材の準備と共に瑞氣がせっせと手回ししてやったことだった。
「ほんとだ、もうこんな時間……。それじゃそろそろ帰ろっか」
「……うん、帰ろう」
たったそれだけの会話をすると、その後はお互い無言のまま画材の片付けをし始める。先刻は流れで一緒に作業をしたとはいえ、厳密には二人は未だ仲直りが果たせていないのだから、仕方ない。それでも二人が仲違いをしてから、初めての進展だ。三カ月も我慢してようやく得られたこの機会を、みすみす逃したくはない。螢は片付けをしながら、どうやって瑞氣に話を切り出そうかと思案していた。
「あ、あの……」
しかし、先に会話を持ち掛けたのは瑞氣の方だった。若干集中していた螢は声を掛けられてから数瞬後に気付き、慌てて返事をしようとする。しかしそんな螢の様子は気に留めず、瑞氣は話を続けた。
「私ね、このあとちょっと用事があるから、先に帰ってて」
「え、用事? こんな時間から? まぁ、何か知らないけど昇降口で待ってるわよ。何なら手伝うし」
「で、でも……」
螢の提案に煮え切らない態度を取る瑞氣。
「……あんたすぐ車輪を溝に落とすじゃない。暗くなってきたし、一人じゃ帰り道危ないでしょ」
「うぐ、それは……」
瑞氣はぐうの音も出ないといった様子だった。普段から車椅子を使用している瑞氣だったが、感覚の通わない車輪の操縦には、いつまで経っても慣れることがなかった。……それでも、車椅子を押してもらっては螢に迷惑を掛けてしまう。だから一人で帰りたい。しかし一人で帰ろうとすれば、それはそれで家に着くのが遅くなって迷惑を掛けてしまうかもしれない。
「…………」
結局瑞氣はどうして欲しいのか結論を出すことができず、再び会話は途切れてしまった。そのまま二人は黙々と画材の片付けを進めていく。パレットにラップをして棚に仕舞い、絵筆を洗って洗濯バサミで吊るして――そうして着々と片付けは進んでいき、結局二人は互いに何も言い出すことができないまま、画材の片付けを終えてしまった。このまま仲直りを果たすことなく帰ることになり、また瑞氣に避けられながらの生活が始まるのだろうか……。そんな風にこれからのことを憂いながら、螢は机に置いてあった自らの鞄と瑞氣の鞄に手を伸ばす。すると――。
「! 触らないで!」
「……!」
瑞氣にしては珍しい、そこそこボリュームのある叫び声。元々鼻を抜けるような細った声質のため大した迫力こそなかったが、それでも妹からの明確な拒絶の言葉を受け、螢の背筋は凍り付いた。
「あ……絵の具、付いちゃうから……先に腕を洗って」
「な、なんだ、そういうことね……」
言葉の真意を知り、ほっと胸を撫で下ろす。もしも鞄を触ることすら拒絶されるほど嫌われていたのだとしたら、ショックで卒倒していたかもしれない。そう思えるくらいには、螢の心臓は早鐘を打っていた。
「……」
そんな螢の内心を察したのか、瑞氣も若干バツの悪そうな顔をしていた。螢はいったん窓際の水道へと移動し、両腕を冷水に晒す。手指だけでも辛いのに、肘の手前まで冷水を掛けなければならないのは、もはや滝行でも行っている気分だった。ひーひー言いながら腕をこする螢の隣で、瑞氣は手指だけを丁寧に洗っている。袖を捲ってはいるが、螢と違い腕まで汚してはいないようだ。
「ねぇ、用事って何なのよ」
瑞氣に尋ねてみる。これまでは三カ月分の距離を感じて話し掛けられなかったが、嫌われているわけではないとわかったことで緊張が解れたのだった。
「……四階のロッカーに教材を取りに戻るだけだよ。宿題が出たみたいだから。……それだけ」
先ほどは言い淀んでいたにもかかわらず、瑞氣も今度は素直に伝えた。先刻生んでしまった誤解のことを、申し訳なく思ってのことかもしれない。
「なんだ、そんなこと。でもなんで美術室に持って来なかったのよ。宿題出たんなら、ここ来るときに鞄に入れてくればよかったじゃない」
「えっと、その……私、朝からここにいるから」
「え……あんたまさか、今日授業出てないってこと?」
「……うん」
気まずそうに顔を背ける瑞氣。この日彼女は朝学校へ登校して早々に早退を申し出、それから放課後に螢に見つかるまでの数時間、こっそりと美術室であの絵の修正を行っていたのだった。どちらかというと優等生である瑞氣にとって、実は今日という日は一世一代の大作戦の決行日だったのである。
「はぁ……何やってんのよ」
呆れたように言いながら、洗ってキンキンに冷えた両腕をタオルで拭う。そして捲っていた袖を元に戻し、いうことを聞かない指先にうんざりしながらなんとか袖のボタンを留めていく。
(……あ、制服に絵の具が)
よく見るとワイシャツとカーディガンの袖にべっとりと絵の具が染み込んでいた。集中して作業をする中で袖を捲ったため、気付かないうちに巻き込んでしまっていたらしい。
「あ! 螢!」
突然声を上げ、螢のすぐ横へと車椅子を進ませる瑞氣。そして頭を上下左右に振りながら、螢の全身をくまなく見渡す。
「やっぱり! 袖に絵の具付いちゃってるじゃん! あ、顔にも、髪の毛にも! あぁっ、スカートにも!」
動転しながら絵の具で汚れた箇所を一通り確認し終えると、タオルで螢の顔や髪を拭い始めた。元来瑞氣は世話焼きなのだ。ずぼらな螢とずっと生活を共にしてきたことで焼き付いた性質ともいえるだろう。
「んむぅ……ありがと」
「はいはい、どういたしまして……はぁ」
可能な限り絵の具を拭き取って軽く溜め息を吐くと、瑞氣は再び水道でタオルと手を洗い始めた。
「…………」
真剣な表情でタオルをこするその姿を、螢はじっと見つめる。せっかく一度手を洗ったというのに、螢が付けた絵の具を拭いたためまた洗う羽目になってしまった。きっと冷たくて辛いだろう。きっとこうして螢の世話を焼くことを、迷惑に思っているのだろう。……などとは、螢は微塵も思わなかった。なぜなら、螢は知っているから。これが柏手瑞氣という人間の、本来の姿だということを。
「……手、出して」
タオルと手を洗い終わり、凍えてしきりに擦り合わせていた彼女の両手を引き寄せる。そして両脇に挟んで温めていた自身の両手で、彼女の手を包んでやる。もちろんそれくらいでは大して暖を取れないことなど承知していた。それでもやらないよりは、幾分温かいはずだ。
「だ、大丈夫、平気だから。あっ、ちょっと……」
遠慮する瑞氣の言葉を無視して、包み込んだ手の中に呼気を送り込む。二人の手の大きさに大差はないが、赤く悴んだ瑞氣の手は、螢にはまるで小さな子供のもののように感じられた。そうでなくとも、柏手瑞氣は柏手螢の妹なのだ。姉である螢は、些細なことでも妹を助けてやらねばなるまい。……しかし、それは対等ではない。瑞氣と螢は姉妹であり、それと同時に双子なのだ。螢にとって瑞氣とは、対等の存在だった。
「……ねぇ、瑞氣。あたしやっぱり、二人で一緒に絵が描きたいよ」
「螢……でもそれじゃ、螢に迷惑を――」
「迷惑だなんて思ってないから。……あのね。瑞氣、聞いて。あたしはね、あんたのために毎日車椅子押すのも、毎日一緒にお風呂入るのも。着替えを手伝うのも、ベッドに移動させるのも。一度だって、迷惑って思ったことないの」
それは螢がようやく自覚した、嘘偽りのない本当の気持ちだった。瑞氣の手で修正されたあの絵……本当の瑞氣を写したあの絵を見て、螢はようやくある事実に気付くことができた。その事実とは、自身がいままで瑞氣に迷惑を掛けられていたということ――歩くことができない彼女のために、いままで様々な形で手を貸してきたということだ。しかし、螢はいままで一度たりとも“手を貸している”などという風に考えたことはなかった。元来螢にとって、瑞氣に手を貸すことなど迷惑に思う余地すら存在しなかったのである。
「……嘘」
「嘘じゃない! あたしね、瑞氣があたしのことを避けるようになってから、全然絵が描けなくなったの。ずっと理由がわからなかったけど、ようやくわかった。画材の補充も管理も、あたし一人じゃ全然できなかった。それだけじゃない。髪の手入れも、持ち物の確認も……瑞氣に手伝ってもらわないと、何一つちゃんとできなかった。……ごめんね、ずっと手伝わせちゃって。迷惑だったでしょ」
これも嘘偽りのない、螢の本当の気持ちだ。自分ができないことを、どれだけ瑞氣に押し付けてしまっていたのか……いままでどれだけ瑞氣に迷惑を掛けてしまっていたのかを、ようやく自覚した。……だけどそれでも、螢は断言できる。自分が瑞氣のことを迷惑だとは思っていないのと同じに、瑞氣も螢のことを迷惑だとは思っていない、と。
「……迷惑だなんて、思ったことないよ……」
それを聞き、螢は少しだけ笑みを零す。
「ふふ、そっか。もしそれが嘘じゃないならさ……これからも、あたしのことを手伝ってよ。あたしもこれからも、あんたのことを手伝うからさ」
いままで二人にとって、妹を助けることなど当たり前のことでしかなかった。お互い助けている自覚はなく、同時に助けられている自覚もなかった。だから瑞氣は、自分だけが迷惑を掛けているのだと思うようになったのだ。二人が均一に並び立つ、あの絵を見たことで……現実とは異なる、満ち満ちた様相で螢の隣に立つ自分の姿を見たことで。
「瑞氣。あたしね、絵を描くことが一番好きで、絵を描くことが一番大事」
「……うん」
知っている。なぜなら瑞氣も同じだから。……しかし。
「ずっとそう思ってたけど、ちょっと違った」
「……え?」
嗄声と共に、瑞氣の体がヒクリと揺れる。
「気付いたの。あたしの中で一番大切だったのは、瑞氣と一緒に絵を描くことだった。瑞氣と一緒じゃないと、絵を描いてても全然楽しくなかった。瑞氣と一緒じゃないと……あたしは何にも描けなかった。だからね、瑞氣が一緒に描いてくれないならあたし……もう絵を描くの、やめる」
「! そんな――」
俯きがちだった顔をバッと上げ、螢の顔を見る。瑞氣の目に映る螢の表情は、真剣そのものだ。
「だからあんたがもし、あたしにもっと絵を描かせてやりたいって思ってるならさ――」
二人の目線がしっかりと合った瞬間、螢は告げる。
「これからもずっと、あたしと一緒に絵を描いてよ。これからもずっと、あたしの隣に、いて……」
そこでいったん、螢の言葉は途切れた。瑞氣を見つめる琅玕の瞳が、仄かに光沢を帯びる。
「み、瑞氣が隣にいてくれないと、あたしっ――寂しいよ……!」
「――!」
螢の気持ちは、結局はその一言に帰結した。大切な妹から三カ月もの間距離を置かれていたことが、彼女はただただ寂しかったのだ。しかし、ただ寂しいという気持ちを伝えたところで瑞氣が納得してくれないことは、螢にはわかっていた。だから彼女は語ったのだ。あの絵と瑞氣の言葉のお陰で、自身が何を理解したのか。そしてそれを踏まえて、これからどうしていきたいのか……その展望を。
どちらかというと落ちこぼれである彼女にとって、自身の思考をつらつらと論述するのはたいそう難儀な試みであった。しかし彼女の大一番、その結果は――どうやら、白い星を掴み取るに至ったらしい。
「螢……っ! ごめんっ……ごめんね、螢……!」
唇を震わせ、ボロボロと泣き出す瑞氣。迷惑を掛けないようにするためとはいえ、大切な姉を拒絶し続けることは、瑞氣にとっても苦しいことだった。両手にじんわりと伝わってくる螢の温度を感じながら、涙に濡れた顔を自身の肘窩に埋める。
「螢っ、私も本当は、螢と一緒に――」
*
夕日に染まる教室の中、二人の少女が手を繋いでいた。
(……瑞氣。確かにあたし達は、あの絵の中の二人とは違うかもしれない)
一方は衣類の所々が絵の具で汚れ、もう一方は涙で顔がぐしょぐしょだ。
(あんたもあたしも、あんなに綺麗で、あんなに満ち満ちた存在じゃないかもしれない)
いまの彼女等に、絵になる映えは決してない。……それでも。
(それでも、あたし達はずっと隣り合って生きてきた。お互い気付いてすらいなかったけど、ずっとずっと支え合って生きてきたんだよ。……今日あたし達は、ようやくそれに気付くことができたんだ。それなら、あたし達はもう――)
「ねぇ……あたし達はもう、ずっと一緒にいられるよね? もうあたしの隣から、離れていったりしないよね……?」
夕日に照らされ、朱色に溶け合う二人はもう、決して。
「……うん、もちろんだよ。私達は、ずっと一緒――」
綺麗でなくとも、満ち足りずとも。隣り合って、支え合って、離れない。
「この絵の中の二人のように」
【完】