イニシャライズ
まっくらな世界
目を開けてもなにも見えないし、閉じてもなにも見えない。 音らしい音も聞こえない。
自分の心の声だけが入ってくる唯一の感覚。
意識の水面に〝いと〟を投げ入れても、ただ波紋が広がっていくだけでなにも釣れないし、ひっかかりもしない。
ぼくの心にはなにも住んでいないのだろうか。
どうして自分はここにいるんだろう。
もしかして死んだのだろうか。
立っているのか座っているのか、浮いているのか沈んでいるのかわからない。
手足の先の感覚がないはずなのに妙にあたたかいのは気のせい?
夢を見ているのだろうか。
そういえば呼吸をしている気がしない。
本当に死んだのかもしれないな・・・
でも、今まで自分が生きていたという確信すら思い出せない。
生きてる証拠もなければ、死んでる証拠もない。
いったいぼくはだれなんだ? 誰か教えてくれ!
自分がだれなのか決定するのは自分か? それとも他の誰か?
頭の奥にキーンという冷たい音が響いてくる。
ただ平たく、高くも低くもならない音。
ぼくの頭の中の音だろうか。
そもそもぼくに頭なんてあったか? 眼は鼻は? 口は耳は?
その音がだんだん人の声のように聞こえてくる。
〝おまえが見ているものは、おまえの内側に映し出された映画のスクリーンとおなじだ〟
突然、目の前の暗闇がひらけ、四角い窓から明るい日差しがそそぎ込んでくる。
太陽の光の中にエメラルドグリーンの美しい海が静かに漂っている。
どこかで見たことのある気がする風景。
これはデジャヴというやつだろうか。
浜辺には誰もいない。 黄色い砂と青い空、それとこの緑の海、それだけの風景。
しかし、奇妙なことに波の音や風の音は聞こえない。
この暗闇のなかの四角いスクリーンだけが、今のぼくに与えられている唯一の感覚の綱のようだった。
どれくらい時が経っただろう。
静かの海に見とれていたぼくは、いつしか白い雲が青い空を流れてゆくのに気がついた。
それと同時にはっきりと、しかし今度は少し灰色がかった人の声を聞いた。
〝おまえが聞いているものは、映画のスピーカーから流れ出る音響効果とおなじだ〟
遠くの方の暗闇から誰かのコツコツという足音が聞こえてくる。
人を不安にさせるというよりは、もの悲しくさせる足音。
その足音のテンポは鼓動を打つ様にはやくなり、人数は加速度的に増えていく。 ひとりが十人になり、十人が千人になっていく。
さらに近づいてきて、気づいた。これは雨音だ。
これもどこかで聞いたことのある灰色の雨音。
足音に気をとられ忘れていたが、目の前のスクリーンには相変わらず緑の海が静かに横たわっている。
この風景にこの雨音は非常に不調和だと思ったが、不思議と心が休まるような気がした。
〝おまえが触れているものは、薄いゴム手袋をした医者の手とおなじだ〟
妙に生あたたかかった手足になにかが触れた。
赤い壁のようなものがぼくの周りを取り囲んでいる。せまいが息苦しくはない。
いまだにぼくの耳には雨音がこびりついている。
降り続く雨のせいで壁の中は水で満たされてしまったようだ。 口の中に水が入る。
しょっぱい。
雨じゃなくて緑の海水が四角い窓から流れ込んできたのかもしれない。
〝この世界におまえと直接繋がっているものは何ひとつない。 おまえが感じているものは全て、おまえの中のせまい個室に映し出された虚像にすぎない。
おまえの中には宇宙より広大な世界が広がっている。
しかし、おまえの中で真実は何ひとつ見つけることはできない。
おまえの知っている〝おまえ〟は単なる幻影であり、実像なるおまえは永遠に知ることのかなわない存在である。
最も近しい存在が最も遠い自分。
自己を見つめ、そして自己と対話するのだ〟
さっきからぼくに話しかけてる人は誰なんだろう?
知ってるようなしらないような声。
まぁどうでもいい。 ぼくはねむいんだ……
意識の流れはただ連綿と続き、あの青い空を流れていた白い雲のように掴まえることもできずに、どこからかやって来てはどこかへ消え去っていった。
――どこかで赤ん坊が泣いているのが聞こえる。
看護婦は言った。
「生まれました。元気な男の子ですよ」
そういって赤ん坊を持ち上げ、横になっている女の人のところまで連れて行く。
女の人は神妙な面持ちで赤ん坊を見ている。
まだ若い綺麗な人だ。
この人がお母さんなら赤ん坊も安心だろう。
この赤ん坊はそのうち立派な名前をつけられ、名前の通り立派な人生を歩んでゆく。 両親の期待通りの場所で暮らし、期待通りの生き方をする。
逆らえぬ人生の流れのまま結婚をして子供を生み育て、年老いて死んでいくのだろう。
そしてまたまっくらな世界に戻って、未来永劫おなじことをくり返す。
こうしてぼくは生まれた。
いったいぼくはだれなんだ?
興味を持っていただけたなら是非
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