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コミカライズ・ラジオ朗読作品

【コミカライズ】淑女のふりをした悪女、王太子のお飾り婚約者になりました

作者: 三羽高明

――マリアベル! お前との婚約を破棄する!


 王宮から届いたある手紙の返事を持って私とお父様が馬車に乗り込んだのは、あの悪夢の出来事から一年ほどが過ぎた日のことだった。


「いいか、マリアベル。お前はお飾りの婚約者だ」


 私の向かいに座るお父様が、もう何度繰り返したか分からないセリフをまた言い始めた。


「だから『ジェームズ王太子殿下がワタクシを構ってくださいませんわ!』とか、『もっと遊び回りたいんですの!』なんて絶対に言うんじゃないぞ。たとえジェームズ様がお前と一言も口を利いてくださらなくても、他所に愛人をたんまりと囲っていようとも、ひたすら耐え忍び……」


「分かっています、お父様」


 王城が見えないかと思って外を眺めていた私は馬車の小窓から視線を外し、やれやれと首を振った。


「お上品におしとやかに淑女の鑑を意識して、でしょう?」


「そうだ。大丈夫、お前はやればできる子だ。昔の悪くて可愛い自分はもう忘れるんだ」


 そう言いつつも、お父様は心配しているらしかった。まあ、仕方がない。だって昔の私は可愛いかはともかくとして、お父様の言うとおり、あまりいい娘ではなかったのだから。


 身分を笠に着て傲慢に振る舞ったり、舞踏会をハシゴして贅沢三昧したり、家庭教師の講義もしょっちゅうサボったり……。


 高慢で浪費家で怠惰。本当に嫌な女。だから罰が下ったんだ。婚約破棄という名の罰が。


 私はかつて元王太子――今の王太子様の兄の婚約者だった。でもある夜会で、私はその関係の終わりを突然に告げられたんだ。


 その瞬間に、それまで順風満帆だった私の人生は方向転換を余儀なくされた。あまりにもショックすぎてあの夜会直後の出来事はほとんど忘れてしまっていたけれど、それ以降、皆から白い目を向けられるようになったことだけはハッキリと覚えている。


 だから私は変わろうと決意した。領地に帰ってたくさん勉強し、立派な淑女になれるように努力した。もちろん、贅沢も一切しないし、身分で人を判断するような考えも改めた。


 昔の私にはもう絶対に戻りたくなかったから。


「そもそもの事の起こりは、先月の元王太子殿下の死亡事故に端を発する……」


 私の頑張りをお父様は間近で見ていたけれど、それでもまだ不安なのか、くどくどと現状の解説を始めた。


「なんでも乗馬中に転んで頭を打ったんだとか。知らせが入った時には、屋敷中から手を叩いて喜ぶ声が聞こえてきたものだな。お嬢様を辱めた報いだ、と」


 そうそう私も……と頷きかけて我に返る。そんなことしてないわ! 今の私は淑女なんだから!


「それで、新しい王太子として選ばれたのがその弟……ジェームズ様だ」


 私は記憶を辿って、ジェームズ様の姿を思い描こうとする。


 真っ先に思い浮かんで来たのは、その青い目だ。何故だか分からないけれど、そこだけがやたらと印象に残っていた。


「後継者が決まったところまではよかった。問題は、まだ宮廷には元王太子一派がはびこっているということだ。つまり奴らの力を……」


 馬車が急停車し、お父様は話をやめた。もうついたのかしら? と私は外を見る。


 けれども馬車は城門前で立ち往生しているだけのようだった。誰かが道を塞いでいるらしい。


 そこにいた人たちを見た私は口元を押さえる。馬車の外から嫌味な声が聞こえてきた。


「おやおや、どなたかと思えば、王太子殿下に婚約破棄されたマリアベル嬢ではありませんか」


「一体何しに来たのやら。もう王宮にあなたの居場所はないと言うのに」


「また恥をさらしたいんですかねぇ」


 城門の前に立って馬車を通れなくしていたのは、元王太子派のお歴々だった。お父様が舌打ちする。


「精神攻撃を食らわせて追い返そうとでもいうのか、バカどもめ。ここは私がガツンと……」


「いいえ、お父様」


 私は元王太子派に抗議しようとするお父様を制止した。ニッコリと笑ってみせる。


「ここは私にお任せを。生まれ変わった私……淑女マリアベルの姿を見せる絶好の機会ですもの」


 そう言うと、私はお父様の返事を待たずに外に出た。


「これはお久しゅう、マリアベル嬢」


 出てきた私を見て、元王太子派たちは目をギラつかせた。


「地味なドレスをお召しですな」


「上辺だけでも取り繕うとしているのですか。健気なことで」


「ですが、いつまで持ちますかな。なにせ、あなたの本性は皆が知っているのですから……」


 随分と好き勝手言ってくれるじゃない! あんたたち全員平手打ちにしてやるわ!


 ……なんて言葉が口から飛び出そうになったけど、私はグッと堪えた。私は淑女だ。淑女は暴力沙汰を起こしたりしない、と自分に言い聞かせる。


 そして、ムカつくジジイどもを殴る代わりに背中を丸めながら目を潤ませた。


「おじ様たち……ひどいですわ」


 私は上目遣いになりながら元王太子派たちを見つめた。


「ワタクシは新しい王太子様に呼ばれたから来ただけです。悪いことなど何もしていません。それなのに、こうして道を塞いだりするなんて……」


 私は顔を両手で覆ってすすり泣き……の真似事を始めた。その傍ら、指の隙間から元王太子派の様子をうかがう。


 ああ……皆動揺してるわ。それはそうよね。この状況、端から見ればジジイたちがか弱い乙女を泣かせたように見えるんだから。


 見たか、淑女の武器『涙』の威力! これが私の修業の成果よ! 昔の私ならプライドが許さなくて悔しくても泣いたりしなかったけど、今の淑女マリアベルは遠慮なく嘘泣きしまくってやるんだから!


「来たのか、マリアベル」


 そろそろ次のステップに移らないと……と思っていると、城内へ続く道から誰かがやって来た。ハッとなった私は、思わず泣き真似をやめる。


 あの毅然とした青い瞳の持ち主がすぐそこにいた。


 背筋をピンと伸ばして不遜な表情でこちらを見ている青年。死んだ兄の代わりに新しく王太子となったジェームズ様だった。


「これは殿下……」


 元王太子派たちは形式的な挨拶をしたが、ジェームズ様はそれを無視し、私に向き直った。


「どこぞの羽虫が道を塞いでいたようだな。馬車でき潰してやればよかっただろうに」


 あら、いい考え……じゃなかったわ! 淑女はそんなことはいたしません!


「ワタクシ、暴力は嫌いですので……」


 私は震えながら腰をなよなよと振ってみせた。ジェームズ様は面白そうに「ふぅん?」と笑っている。


 ジェ、ジェームズ様……。私が淑女を『演じてる』って見抜いてるのね。これは手強い。もしかしたら真の敵は身内にいるのかもしれないわ。


 とは言っても、お飾りとは言え婚約者の不利になるようなこと――皆の前で私の猫かぶりを暴露するようなことをジェームズ様はしないと思うけど。


「まあいい。行くぞ、マリアベル」


 ジェームズ様はこっちに腕を突き出してきた。……腕を組んで歩けって言ってるの? 大胆なことを……。『自分の婚約相手だ』って皆にアピールする気なのかしら?


 淑女としてはこんな時どうするべきなのか少し迷ってしまったけれど、これから婚約を結ぶことになる人には従っておく方が身のためかもしれない。私は大人しく彼の腕を取った。


 ジェームズ様は、馬車の中からハラハラと様子をうかがっていたお父様と少し言葉を交わしてから私と一緒に歩き始める。最後まで無視されっぱなしだった元王太子派たちは頬をピクピクさせていた。


「ところでマリアベル」


 やれやれと思っていると、ジェームズ様が話しかけてくる。


「涙はいつの間に止まった?」


 心臓が喉元まで飛び上がってきた。そう言えば私、元王太子派の前で泣く演技をしてたんだった。なのに私の顔には、涙の痕跡なんか何一つ残っていないんだ。


「ジェームズ様と会えた嬉しさで引っ込んでしまったようですわ」


 私は動揺を表に出さないように気を付けながら微笑みかける。ジェームズ様は「それはよかった」と口角を上げた。


「僕も君と会えて嬉しいぞ、マリアベル」


 そんなふうに言うジェームズ様に対し、内心で「食えない人」と警戒心を強くしたのはもちろん内緒だ。



 ****



 王宮内の客室で待たされることしばらくして、ジェームズ様がやって来た。


「君の父君と話をした。婚約の話、受けてくれてありがとう」


 開口一番にジェームズ様は礼を言う。私は肩の荷が下りた思いで、「ふつつか者ですが、よろしくお願いいたします」と返事する。


 今日私とお父様がやって来た目的は、ジェームズ様が手紙で打診してきたある事柄について返事をすることだった。私たちの婚約の可否だ。


 もちろん、「喜んでお受けします」以外の返事はない。だってこれは、私にとっては生まれ変わった自分を見せるチャンスなんだから。私は王太子の婚約者になれるくらいの淑女なんだと皆に分からせないといけない。


「ではジェームズ様、式の日まで、どうかご機嫌麗しゅう……」


 用が済んだ私は退出しようとした。でもジェームズ様は「帰るな」と私を引き留める。


「しばらくはここで暮らせ。別に領地に戻らなくても支障はないだろう?」

「ここって……王宮ですか? 何故?」


 まさかの申し出に不穏なものを感じずにはいられない。けれどジェームズ様はすまし顔で「君のことをよく知りたいからだ」と言った。


「分かるだろう? マリアベル。どうして僕が君を婚約者に選んだのか。君がどういう役割を求められているのか」


「ええ、もちろん」


 私の役割? そんなものはない。ただいればいいだけ。要するにお飾りでしょう?


 と、私は心の中で付け足した。


 あの城門での一騒動を見ても分かるとおり、元王太子派はまだ残っている。でも、ジェームズ様はそれを快く思っていないんだろう。


 元王太子派は古ギツネの集まりだ。隙あらばあちこちに口出しして、自分たちの利益になるように画策する。前王の崩御後、未成年だから王位に就けないでいた元王太子の影に隠れて、彼らは好き勝手していたんだ。


 ジェームズ様は同じことを繰り返したくなかったに違いない。だから私を婚約者にした。自分は兄とは違う。お前たちの言うことなんか聞かないと示すために私を選んだ。


 だって私は兄が切って捨てた娘なんだから。これ以上明確な意思の表明もないはずだ。


 つまり、私は反元王太子派を象徴する存在ということ。この婚約にはそれ以上の意味はない。


「ワタクシ、いただいたお役目を立派に果たしてみせますわ。新しい王太子様の婚約者という役を」


「期待してるぞ」


 ジェームズ様は含みのある顔で笑った。ああ、この人、面白がってるんだわ。


『せいぜい最高のお飾りっぷりを見せてみろ、淑女様』


 そんな声が聞こえてきた気がした。


 こうして、淑女マリアベルのお飾りの婚約者生活は幕を開けたのだった。



 ****



「マリアベル様~! またジェームズ様が何か置いていきましたよ~」


 隣室から悲鳴が上がる。クローゼットの扉を使用人が無理やり閉めようとしているところだった。


「もう入らないのに~! ふぎゃぁ!」


 あふれ出した服やアクセサリーで、使用人は生き埋めになってしまった。私は彼女を救助しながらため息を吐く。


 ――着るものがないと困るだろう?


 そう言っては、ジェームズ様は私にドレスだの何だのを贈ってきていた。初めは気を使ってくれているのかと思ったけど、それにしてはかなり量が多くて、近頃の私はそこに別の意図があるんじゃないかと疑わずにはいられなくなっている。


「ひ~。ありがとうございます!」


 服の山から脱出し、使用人は額の汗を手の甲で拭った。


「あやうく王太子様の愛がこもった贈り物に埋もれて死ぬところでした!」

「愛?」


 私はぷっと吹き出しそうになるのを必死で堪えた。


 これは愛なんかじゃない。あの人は私で遊んでいるだけだ。だって私はお飾りの婚約者なんだから。そこに愛なんて温かい感情があるはずがない。


『ほら、どうだ? こんなにたくさんの服や装飾品に囲まれていると、悪女時代を思い出すだろう? だが、淑女はビカビカした派手な格好はしないものだぞ?』


 きっとそう言いたいに違いない。あの人、意地悪だから。


「そうですね、愛ですわ」


 ジェームズ様の腹黒な一面をこの使用人に教えてあげるのは簡単だけど、ここは思い込みに任せておこう。


 だって彼女、少し前にこのお城で働き始めたばかりらしいし、まだ王宮は夢がいっぱい詰まってるキラキラした所だって信じてるような純真な子なんだから。


「この服や装飾品は返しておいてください。こんな贅沢、ワタクシには似合いませんもの」


「そうなんですか~? この青いドレスとか素敵なのに~」


 使用人がドレスの山を掻き分けて青色の服を取り出した。あら、確かにいいデザイン。私好みかも……。


 って、そんなこと考えたらダメ! 淑女は見た目ではなく心を磨くものなんだから! そのためにも、普段から質素な身なりをするように心がけてるんだもの!


「ワタクシ、ジェームズ様に贈り物はもう結構ですと言ってきますわ」


 何も言わないでプレゼントを突き返したら失礼に当たるだろう。淑女として品位に欠ける振る舞いをするわけにはいかなかった。


 けれどジェームズ様のところへ行く前に、私を呼び止める声がする。


「あらぁ、懐かしいお顔。マリアベル嬢じゃないの」


 誰よ、あなた。


 いかにも知り合いっぽく声をかけられたから顔見知りかと思ったけど、全然面識のない女の人だ。すごく厚化粧だし、ドレスも露出が多くて派手。頭から木を生やしているみたいに髪も高く盛っている。


 そして、一番目を引くのは真っ赤な口紅が塗られた分厚い唇だ。そこだけ別の生き物みたいにうごめいていて、ちょっと気持ち悪い。


 ……待って。この唇、どこかで見たような……。


「スザンネさん……?」


 私はかつてこの王宮で共に過ごしたことのある少女の名前を口にした。娘は「今頃気が付いたの?」と笑う。


「まあ無理もないわね。あたし、昔とは全然違うものぉ。……まあ、それはあなたもかしら。ひどい格好ねぇ。浮浪者が侵入してきたのかと思ったじゃない」


 スザンネさんは手にした扇で口元を隠しながら嘲笑した。なるほど、確かにこれは全然違う。


 昔の彼女はもっと地味だったはずだ。そのくせに王太子の――私の婚約者の周りをウロチョロしていたのがムカついて、軽く小突いてやったことがある。


 お父様が決めた婚約だったから特に彼に思い入れはなかったけど、自分のものを横取りされるのは我慢できなかったんだ。


 あの時はヒイヒイ泣いてるだけだったスザンネさんが、まさか私をいびる側に回るなんて……。人ってどう変わるか分からないわね。昔の私みたいになっちゃって。


「あらあら、何かしら? 悔しいのぉ?」


 彼女の成長っぷりに感激すら覚えていると、スザンネさんは勝ち誇ったような笑みを浮かべる。どうやら私が怯えていると勘違いしたらしい。別に怖くも何ともないのに。


 不特定多数から向けられる形のない悪意に比べれば、こんなあからさまな嫌がらせ、むしろ清々しく感じてしまう。


 それにしても、スザンネさんはよっぽど私を恨んでいるようだった。淑女に変身した後で私、迷惑をかけた人たちにちゃんと謝りに行ったんだけど……。その時の彼女は「許す」って言ってたのに、嘘だったのかしら?


「あたし、あなたがいなくなった後、王太子様にとぉーっても可愛がっていただいたのよぉ? あなたはあんまり愛されていなかったみたいだけど、あたしは違ったの」


 王太子じゃなくて、王太子でしょう?


 って言うか、そんな昔のことを持ち出して今さらどうなるのかしら? 彼女の言う『王太子様』はもう死んでしまっているのに。そんな過去の栄光に縋っているよりも、さっさと新・王太子派に鞍替えした方が絶対に利口だ。


 ……と、昔の私ならそう指摘して相手より優位に立とうとしたんだけど、あいにくと今の私は淑女。淑女はドロドロの権力闘争には首を突っ込んだりしないものだ。


「ごめんなさい、スザンネさん。せっかく楽しいお時間を過ごさせていただいているところ恐縮なのですが……」


 私は残念そうに首を振った。


「ワタクシ、ジェームズ様に呼ばれているのです。ジェームズ様はお忙しいから、早く参りませんと。あの方には王太子としてのお勤めが色々ありますので……」


 最後のセリフにスザンネさんの分厚い唇が震え出す。私は一礼してその場から去った。背後から聞こえてきたのは、彼女が持っていた扇がミシリと真っ二つになる音だった。


「呼んでないぞ」


 あまりの愉快さに笑い出しそうになっていた私は、慌てて真面目な顔を取り繕う。近くの通路の壁にもたれかかっていたのはジェームズ様だった。


 見てたのか、と思った。それなのに助けてくれないなんて、やっぱり意地悪だ。城門で元王太子派から私を庇ったのは、気まぐれか何かだったんだろう。案の定、お飾りの婚約者は大して大切にはされていないらしい。


「ごめんなさい。ですが、怖くてしょうがなかったのに、他にどうしても切り抜ける方法を思い付かなくて……」


「怖くて、ねえ……」


 ジェームズ様は私を上から下まで眺め回す。


「絡まれる状況や相手が違えば別の反応をするのではと思ったんだが、なるほど……」


 そして、思ってもみなかったような言葉を口にする。


「君、昔の方がよかったな」

「えっ……」


 何、それ。


 昔って、悪女時代の私のこと? 淑女の私よりも、悪女の私の方がいいの?


 訳が分からない。この人は何を言ってるんだろう。


「ほら、行こう。特別に王太子が『呼んで』やる」


 ジェームズ様は私に腕を突き出してきた。私は黙ってそれを取る。心の中に生まれたざわめきは、すっかり静まっていた。


 所詮私はお飾りなんだもの。だったら別に淑女の演技をしてたっていいじゃない。だって彼が求めてるのは私の存在だけで、その中身じゃないんだから。


 でもそうだとしたら、『昔の方がよかった』なんて言うのかしら?


 よく分からない。理解できたのは、ジェームズ様が相手だとお飾りの婚約者もそんなに楽ではないということだけだった。



 ****



 ある衝撃的な噂が王宮を駆け抜けたのは、その翌日のことだ。


「おめでとうございます、スザンネ様」

「亡き王太子様も天国で祝福してくださっているでしょう」


 王宮の広間の一角を貴族たちが占拠している。その中心にいて得意げな顔になっているのは、スザンネさんだった。


「ありがとうございます」


 スザンネさんは自分のお腹を愛おしそうに撫でながら、近くを通りかかった私に聞こえるように、わざと大きな声を出した。


「本当にびっくりですわぁ! まさかあたしが、亡くなってしまわれた王太子様のお子を授かっていたなんて……」


 スザンネさんはこれ見よがしの高笑いを飛ばす。その傍にいた元王太子派が、「おめでたいことですな」と言った。


「かつての王太子殿下の忘れ形見ですからねぇ。このお子が次代の王位に就くのが筋というものでしょう。もちろん、スザンネ様には母后としてご活躍いただきませんと。ええ、ご心配なく。我々もスザンネ様を全力でお支えしますので……」


 聞かれてもいないことを元王太子派たちはペラペラと話している。私は寒気を覚えながらそれを聞いていた。


 案の定、私の薄ら寒い予感は当たってしまう。その日を境に、スザンネさんは我が物顔で王宮をうろつくようになったんだから。


「このドレス、趣味じゃないって言ってるでしょう!」


 スザンネさんの罵倒が廊下の端から聞こえてくる。叱られているのは使用人の少女だった。


「こんなものしか用意できないなんて、本当にグズねぇ!」


 スザンネさんは少女が持っていたドレスを破いてしまった。そのまま去っていく。少女はまっ青な顔で床に散らばったドレスの残骸をかき集めていた。


「……ほら、これ」


 私は自分の足元に転がっていたボタンを少女に渡す。「ありがとうございます」と消え入りそうな声で彼女は礼を言った。


 その直後、耐えきれなくなったように泣き出す。淑女として放っておくわけにもいかず、私は彼女の背中をさすりながら自分の部屋へと招き入れた。


「わわっ!? どうしちゃったんですか~!?」


 居間を掃除していた使用人が驚いた顔で出迎えてくれた。私が泣かせたとは思っていないらしくて、少しほっとしてしまう。


「ええ~! スザンネ様が!? それはひどいですね!」


 ソファーに崩れ落ちるように座った少女は、ポツリポツリと事情を説明しだした。訳を知った使用人は怒りをにじませる。


「誰か正面切ってあの人の言動を非難してくれればいいのに! そう思いません?」


 水を向けられ、私は曖昧に頷くしかなかった。


 だってそんなことをすれば未来の母后の反感を買ってしまうんだもの。大きすぎるリスクを進んで冒したがる人なんかいるはずがない。


 でも、私がスザンネさんの態度を腹に据えかねているっていうのは誤魔化しようのない真実だった。昔の私でもあんなことはしなかったわよ! ……多分。


「ジェームズ様は? ジェームズ様は何か言ってなかったんですか?」

「……何も」


 私はため息を吐いた。


 この件に関して、ジェームズ様は貝のように口を閉ざしている。きっと、これはジェームズ様にとっても慎重に扱うべき事柄だからだろう。


 兄の子どもが正式に跡取りとして認められてしまったら、元王太子派と反目しているジェームズ様がひどい目に遭うのは分かりきっている。廃嫡の危機だ。もしくは無実の罪を着せられて国外追放を言い渡されるかもしれない。


 そして、危ないのは彼だけじゃなくて私もだ。


 ああ……。スザンネさんに嫌味なんか言わなかったらよかった。自分で自分の首を絞めるなんて本当に愚かだ。


 でも……ジェームズ様は喜ぶかしら? 罪人仲間が増えた、って。


 ……なんて、私はあの人に何を期待しているんだろう。バカバカしい。ジェームズ様が王太子でいられなくなったら、お飾りの婚約者の私なんか真っ先に捨てられるに決まってるのに。


「何かお考えがあったとしても、ジェームズ様はマリアベル様には話したりしませんよ……」


 スザンネさんにいじめられた少女が鼻をすする。


「だって愛する人を危険な目には遭わせられないですもん。ジェームズ様はお一人で立ち向かおうとなさるに決まってます」


「愛する人って……」


 私はうっかり皮肉な笑みをもらしてしまった。淑女らしくない表情だわ、とすぐに気が付いて慌てたけれど、少女は気にもとめないで「愛する人ですよ」と断言した。


「少なくとも、お嫌いじゃないと思います。だってジェームズ様、マリアベル様への贈り物のドレス選びにすごく時間をかけていたんですから」


「どういうこと?」


 意外な情報が飛び出してきて私の心臓が跳ねた。こっちの反応を伺いつつ、少女が「私、衣装係だから知ってるんです」と言う。


「ジェームズ様、わざわざ王宮の貸衣装部屋に足を運んで、ご自分の手でドレスを選んでいたんですよ。私に『マリアベルならどれが好きだと思う?』とか聞いたり、『この色は彼女の瞳に映えるな』とか言ったり……。楽しそうでしたよ、すごく」


「そ、そんな……」


 嫌がらせだとばかり思っていたプレゼントの真相を知って、私は固まってしまう。あれが心からの贈り物だったなんて……。


 なのに私は形式的な『ありがとうございます』しか言わないで、全部返してしまったんだ。ジェームズ様……もしかして傷ついたかしら?


「どうしよう……。謝った方がいいかしら……。でも、どうやって?」


 困り果てる私だったけど、使用人が「お任せあれですよ~!」と言って隣室へ飛んでいく。そして、一着のドレスを手に戻ってきた。


「実は後でマリアベル様の気が変わるといけないので、これだけ残しておいたんです!」


 これって……私が素敵だと思った青いドレスじゃない!


「このドレスを見た時のマリアベル様の目、輝いてましたからね~。お気に召したんでしょう? なのにあっさりと返しちゃうのは忍びなくて」


 ああ……なんて敏腕なのかしら。期待の新人ってこのことだ。お給料を弾んであげるように進言しておかないと。


 まっ青なドレスに身を包んだ私は、早速ジェームズ様の元へと駆けつけた。王宮の庭にいた彼は私の姿を見るなり、その青い目を細める。


「『お気持ちは嬉しいのですが、ワタクシの身には余る光栄ですわ』じゃなかったのか?」


 ジェームズ様は私がドレスを返品しに行った時のセリフをそのまま返してきた。私は「思い直しましたの」とかぶりを振る。


「ねえジェームズ様。このドレス……ワタクシの瞳に映えまして?」


 そう言いながら優雅にターンしてみせると、ジェームズ様はニヤリと笑った。


「いいや」


 ジェームズ様が腕を伸ばしてくる。


「でも、僕の目と同じ色だ」

「あら、嬉しい」


 演技ではなく、心の底からの笑みが出た。私はジェームズ様の腕を取って王宮までの道を彼と歩く。


「ジェームズ様」


 絡まった腕から体温が溶け出していくような不思議な感覚を味わいながら、私は囁いた。


「淑女でも戦わないといけない時がありますのよ。……今がそうですわ」


 私はジェームズ様の腕を強く握りしめた。


「行き着く先が玉座だろうと地の底だろうと、どんな時もお傍にいること。ジェームズ様が婚約初日におっしゃっていたワタクシのお役目、こういうことではありませんか?」


「そんなところまでついてくるなんて酔狂だな、君も」


 ジェームズ様は大きな声で笑った。


「まあ、旅は同伴者がいた方が楽しいか。いいだろう、一緒に行こう。ただ……僕は地獄へ落ちるつもりなんか全くないけどな」


「あら、奇遇ですね」


 私はクスクスと笑った。


「ワタクシもですよ」


 ああ、どうしましょう。私今、すごく悪い顔になってるかも。


 でもそれを止めようと思わないくらい、この瞬間はとても輝いているように感じてしまう。


 もう退路は断ってしまった。私に残されたのは、邪魔者を蹴落とし、ジェームズ様と進んでいく道しかないんだ。


 そんな決意に呼応するように、私の心臓が少しずつ鼓動を早めていった。



 ****



 それ以降もスザンネさんの暴走は止まらない。日に日に尊大になり、時には王族顔負けのことまで言い出す始末だ。


 そして大きくなっているのは態度だけではなかった。彼女の腹部も日を追うごとにどんどんと膨らんでいっていたんだ。


「これっておかしくはありません?」


 王太子の執務室のソファーに座る私は腕組みをした。


「ワタクシ、懐妊したことは一度もありませんけど、常識的に考えてこれが異常事態だということくらい分かります。いくら妊婦とはいえ、こんな速度でお腹は大きくなりませんわ! まだ妊娠が発覚してから一月も経っていないのに、あれでは臨月の体ですよ」


 スザンネさんのお腹は、もう下に落ちているものが見えないくらいになっていたんだ。


「それにワタクシ、使用人たちから聞いたのです。彼女、この間ワインをしこたま飲んで気持ちよく酔っ払っていたんですって」


 妊娠中に飲酒なんかしてはいけないのに、これはどう考えてもおかしかった。ジェームズ様が難しい顔になる。


「僕も調査している内に奇妙なことに気が付いた。スザンネを診察し、懐妊していると判断した医師が見つからないんだ」


 ここから導き出される結論は一つだけだ。あらゆるところがずさんだし、あの人たちは油断しすぎだと思いながら、私とジェームズ様は顔を見合わせる。口には出さなくても、二人とも同じことを考えているのが分かった。


「……問い詰めますか、スザンネさんを」


「……そうだな。今ならまだ、ただの思い違いだったという苦しい言い訳で許してやる、と言っておこう」


 ジェームズ様が席を立つ。私は肩の力を抜いた。


 何とかこれで片がつきそうだ。スザンネさんだってバカじゃない。引き際くらい分かっているはずだ。


 でも、追い詰められたネズミは猫をも噛むということを、この時の私はすっかり忘れてしまっていたらしい。


 それから少しして、宮廷内に昔のゴシップ誌の切り抜きが出回るようになったんだ。その記事のタイトルは、『悪女マリアベルの蛮行の日々』というものだった。


「ああ、こんなところにも……」


 言いながら、庭の彫刻に貼り付けられていた『悪女マリアベルの蛮行の日々』をジェームズ様が剥がす。ぐしゃぐしゃに丸めて、ポケットに突っ込んだ。


「マリアベルの昔の武勇伝を喧伝して回るなんて、熱心なファンがいたものだな」


 嫌味っぽく言って、ジェームズ様が椅子に座り直した。近くにいた貴族が「まあまあ……」となだめている。


 今日はジェームズ様主催で王宮の庭でお茶会が開かれていた。呼ばれたのは私を含むジェームズ様を支持している貴族たちだ。分かりやすく言えば、将来の宮廷で権力を持つ人たちの集まりってことになる。


「ですが、貼り紙くらいで済んでよかったではありませんか」


 品のよさそうな婦人が私を見て慰めるように笑った。


「きっとこれは元王太子派の仕業でしょうけれど、下手をしたらもっと過激な手段に出られてもおかしくはありませんもの」


「……一理あるか。他に被害は受けていないんだろう、マリアベル?」


 仏頂面でティーカップを傾けながらジェームズ様が尋ねてくる。私はすぐに「ええ……」と頷いた。


 でも、それは嘘だ。実はゴシップ記事が出回るのと同じようなタイミングで、私の部屋に怪文書が送られてきたり、窓から死んだ動物の死体が投げられたりしていた。


 それを黙っていたのには理由がある。


 私は自分を囮にして、実行犯を捕まえようと思っていたんだ。


 だって貼り紙ならいつどこに貼られるのか分からないけど、手紙を届けたり、死骸を投げたりする場所は、絶対に私の部屋だって決まってるんだから。だったら待ち伏せして捕まえることだって可能なはずだ。


 でも、そんなことを言ったらジェームズ様は心配する……してくれるかもしれないから、あえて口にしなかった。


 いや、もちろんそれは私の思い込みで、ジェームズ様は『いい作戦だ!』ってはしゃぐかもしれないんだけど……。


 とにかく、心配されないならされないでちょっとショックだから、やっぱり黙っておくに限る。


「とは言え、このまま見過ごしておくわけにもな」


 ジェームズ様は難しい顔で紅茶にため息を落とす。


「さっさと尻尾を掴まないと、今にきっと大惨事に……」


 ブツブツ呟くジェームズ様の後方の茂みが揺れる。猫でもいるのかしら、と思った時には、そこから男性の太い腕が伸びてきていた。


「悪女マリアベルめ!」


 男性が握っていたこぶし大の石がこちらに飛んでくる。それがテーブルに置いてあった茶器を割り、辺りに紅茶の匂いが立ちこめた。


「マリアベル! 伏せろ!」


 辺りにはたちまち悲鳴がこだまする。男性がもう一度石を投げてこようとした。その攻撃から盾となって私を守ってくれたのはジェームズ様だ。


「ジェームズ様!」


 赤い血が飛び散る。騒ぎに気付いた二人の衛兵がやって来て、それを見た男性は茂みから飛び出して逃げていった。


「で、殿下! お怪我を……!」


 その場にうずくまっていたジェームズ様に、蒼白な顔で衛兵たちが駆け寄る。けれどジェームズ様は肩に置かれた手を振り払って、「何をしている!」と彼らを怒鳴りつけた。


「早く犯人を捕まえろ! これくらいでは死にはしない!」


 叱責され、衛兵は犯人を追いかけていった。残ったもう一人がハンカチを当ててジェームズ様の傷を止血する。


「ジェ、ジェームズ様……」


 私はその様子をただ見ていることしかできなかった。額に傷を負ったジェームズ様は顔中血まみれだ。私の体が震え出す。


「どうした、マリアベル。君の方が先に死にそうな顔だぞ」


 ジェームズ様は相変わらず皮肉っぽく笑っていた。


「安心しろ、これは名誉の負傷だ。ただ……体を傷物にした責任を取って、君は僕と結婚しないといけなくなるかもしれないが」


 そんな冗談にも笑う気力がない。その内に、ジェームズ様は衛兵と共に建物の中へ入っていった。


「マリアベル様、私たちも戻りましょう?」


 貴族が話しかけてくる。優しい声色だった。けれどその心遣いに感謝するような余裕もなくて、私はただ機械的に首を縦に振るしかなかった。



 ****



 翌日の宮廷は、お茶会襲撃事件の噂で持ちきりだった。


「犯人はマリアベル嬢を狙ったんですってね。なのにジェームズ様が怪我をなさって……。おかわいそうに」


「それもこれも、皆あの悪女が悪い!」


「ろくでもない娘だな」


 そんな噂が飛び交っているのを聞いて、私は呆然となる。思い出したのは一年前のことだった。


――あの人、ついに王太子様に嫌われちゃったんですって。

――いい気味だわ。だってすごく嫌な奴なんだもん。

――本当! 最低よねぇ。


「あんな女をこれ以上傍に置いておく道理もありませんな。これは婚約の解消も確実でしょう」


 私は唇を噛みしめる。急ぎ足で部屋に戻ってベッドに潜り込んだけど、嫌な記憶は止めどとなく再生されていく。


――マリアベル! お前との婚約を破棄する!


 私を狂わせたあの一言。周りの白い目に耐えられなくなり、私は夜会の会場の大広間から走って逃げた。それで……その後は……。


――マリアベル。


 ……えっ、何これ?


 クッションに顔を埋めていた私は身を起こした。


 今まではあの夜会直後のことなんて何も思い出せなかったのに。きっと、ショックで記憶が飛んでしまっていたからだ。


 だけど私、あの婚約破棄のすぐ後で誰かと話をしていたの?


 でも、誰と? 何を?


「あの、マリアベル様……」


 ドアにノックの音がして、遠慮がちに使用人が寝室へと入ってきた。


「先ほど、ジェームズ様を診察していたお医者様から連絡がありました。もう面会してもいいとのことです」


 では、と言って使用人は帰っていく。面会……つまり、お見舞いの機会があるってことか。


「……行かないと」


 私はどん底の気持ちで部屋を出た。すると、またしても皆のヒソヒソ声が聞こえてくる。私は歯を食いしばった。


 私はお飾りの婚約者。ただいればいいだけの存在だ。


 でも、そこには最低限のルールだってちゃんとある。私はジェームズ様に迷惑をかけてはいけなかった。空気みたいに振る舞うのが理想だったのに、私はそれができなかったんだ。


 今私を苛んでいるのは一年前とは別のものだ。皆の罵倒ではなく、自分の責任を果たせなかったことやジェームズ様に怪我を負わせてしまったことが、私の心を抉っていた。


 私がノックするとジェームズ様が出迎えてくれた。頭に巻かれた厚い包帯を見て、私は目を伏せたくなる。


「医師も大げさだな」


 私に椅子を勧めながら、ジェームズ様は出窓に腰掛けた。


「大した傷でもないのに、バカみたいに丁寧に治療して。それに、療養期間だって丸一日もいらなかっただろうに」


「でも血が……」


「血ぐらい紙で指を切った時にだって出るだろう。そんなに深刻に考えるな」


 ジェームズ様はあっけらかんとしていた。どうやら、本当にそこまでの怪我ではないらしい。けれど、そうと知っても私の心は軽くならない。


「ワタクシは責任を取らないといけません」


 重たい胸の内から言葉をすくい上げる。


「ワタクシとの婚約は……解消、ですか」

「……君はそうしたいのか?」


 あまりにも静かな声だった。私は違和感を覚える。だってまるで、私に決定権があるみたいな言い方をするんだもの。


 戸惑っていると、ジェームズ様がさらに続けた。


「君はどうしたいんだ? どうなりたい?」

「え……」


 私はどうしたいのか、どうなりたいのか……ですって?


 視界が揺らぐほどの衝撃を覚えた。何かが頭の中から湧き出てくる。動悸が激しくなり、呼吸が乱れた。


「……あっ」


 思わず、声が出た。


 途切れていた記憶が繋がった音を聞いた気がした。ジェームズ様の放った言葉。それが私に思い出させてくれた。


 私が変わりたいと――悪女の自分を捨てたいと願うきっかけになった、あの日のことを。


――マリアベル。


 一年前の婚約破棄の直後。広間から出て行こうとした私を呼び止めた人がいた。それはジェームズ様だったんだ。


――どうしたんです、ジェームズ様。あなたも私をバカにしに来たんですか。


 普段から言葉を交わすような関係でもない人がこのタイミングで自分に話しかけてくる理由なんて、それしか考えられなかった。


 けれどジェームズ様は「違う」と首を横に振る。


――君はどうしたいんだ? どうなりたい?


 あの青い瞳で真っ直ぐに見つめられてかけられた言葉が、私の胸を震わせた。だって彼の目はとても澄んでいて、私を導いてくれそうな気がしたから。


 そして私は答えたんだ。「変わりたい」と。


 大きな挫折を経験してからやっと分かった。今までの私は間違っていた。もっと違う自分にならないといけない、と。


 彼が……ジェームズ様が気付かせてくれたんだ。


 そして、今もそうだ。今私がするべきことは落ち込むことじゃないはずだ。


「ワタクシ、変われますか?」


 私は縋るような思いでジェームズ様に問いかける。するとジェームズ様は軽く笑った。


「変わるんじゃなくて元に戻るんだ。何事にも物怖じしない昔の君に」


「昔の……ワタクシ……」


「気付いてないのか? どうやら君は随分頑張って淑女になろうとしているようだが、そのせいで自分のいいところを殺してしまったのは、とてももったいないことじゃないか?」


 何事にも物怖じしない昔の私? 私の……いいところ?


「ジェームズ様! 投石犯が捕まりました!」


 立ち竦んでいると、挨拶もそこそこに部屋に衛兵が転がり込んできた。


「また、取り調べによると……」


 そう言って衛兵は尋問の結果を報告する。私とジェームズ様の視線が絡んだ。


「さて、どうする、婚約者マリアベル」


 輝くあの青い目で見つめられたからには、答えなんか一つしかないような気がした。『何事にも物怖じしない昔の君に』という言葉を思い出しながら、私は口を開く。


の答えをわざわざ聞く必要があるのですか、ジェームズ様」


 私は唇の端に笑みを乗せた。


「反撃開始に決まっているでしょう!」


 そう言うと私は、令嬢にふさわしくないような速度で王宮の中を駆け抜けた。そして人通りの多い廊下にいたターゲットを見つける。


「スザンネさん! よくも私の大切な人に怪我をさせてくれたわね!」


 突然肩を掴まれ、スザンネさんは甲高い悲鳴を上げた。私は「うるさい!」とそれを一蹴する。


「石を投げた犯人が全部吐いたのよ! スザンネさんを含む元王太子派に雇われたことを! 他にも城中にゴシップ記事を貼りまくったり、私の部屋に嫌がらせの手紙とか動物の死体を送りつけさせたりしたんですってね!」


「な、何のことだか……」


「分からないとは言わせないわ!ケンカを売る相手を間違えたわね! あんたと私じゃ、悪女歴が違うのよ!」


 私はスザンネさんを突き飛ばした。彼女は床に倒れ伏す。その拍子に、彼女のスカートの下から大きなクッションが落ちてきた。同時に腹の膨らみも元に戻る。


「あらあら、随分と可愛らしい赤ちゃんですこと」


 私はクッションをつま先で蹴飛ばす。スザンネさんはまっ青になって、這うようにしてその場から逃げてしまった。


 辺りにいた人は呆然となったまま動けない。元王太子派が今回の事件に関わっていたことや、何よりスザンネさんの妊娠が嘘だというのがこんな形で白日の下にさらされたのが衝撃的だったらしい。


「僕が出る幕はなかったな」


 私が荒い呼吸を整えていると、ジェームズ様がやって来た。


「衛兵たちに連絡しておいた。元王太子派を捕らえるように、と。あいつらはこれで終わりだ。もちろんスザンネもな。これだけ黒いところがあるんだ。どんな罪に問われたっておかしくはない」


 平然とした顔で言った後、ジェームズ様は私に笑いかけてきた。


「さっきの君、かなりよかったな。それでこそ王太子の婚約者だ。君のああいう豪胆なところ、本当に最高だぞ」


「……もしかして、ずっと昔から私のことを買ってくださっていたんですか?」


「そうだな」


 ジェームズ様はあっさりと認めた。


「追撃の手を緩めない容赦のなさ、誰が相手でも立ち向かう不屈の精神、そしてあまりにも堂々とした大胆な態度……。使いどころさえ間違えなかったら素晴らしい武器になるのに、といつも思っていた」


「どうしてそう言ってくださらなかったんですか」


「言ったら君は聞いたか? 下手なことをしていじめの標的にでもされたら堪らないだろう」


 み、耳が痛い言葉……。確かに当時の私じゃ、ジェームズ様の話をまともに取り合ったか怪しいわね。


「あの婚約破棄事件を見ていて思った。マリアベルはこんなに素敵な素質を備えた女性なのに一部の欠点だけに目くじらを立ててどうこう言うなんて、兄上は心が狭い、と。悪いところがあるなら直せばいいだけで、そのチャンスも与えずに切り捨ててしまうなんて残念なことだ」


「……ベタ褒めですね」


「褒めたら悪いのか? 自分の好きな相手を」


 その瞬間、私の中で何かが弾けた。


 今までほんのりと感じ取っていたある疑問が確信となって言葉として出てくる。


「ジェームズ様……もしかして私のことが好きだから婚約者にしたんですか……?」


「ああ、そうだ」


 ジェームズ様は何を今さらといった顔になっている。


「君が兄上の婚約者だった時から、ずっと好きだったが? そうじゃなかったら、わざわざ兄上が捨てた人を相手に選んだりしないだろう?」


「そうだったんですか……」


 なのに私は勝手な思い込みで、自分はお飾りだって感じてたんだ。もしかして私ってすごく鈍い?


 でも、こうして本音を聞く機会が持てて本当によかった。だって……好きな人の本心ってやっぱり気になるから。


「だが、再会してみて驚いた。何だかよく分からない淑女もどきがそこにいたんだから」


「よく嫌いになりませんでしたね。ジェームズ様が好きな私のいいところ、全部消えちゃってたのに」


「消えてないだろ。現に今は元に戻ってるじゃないか」


「完全復活、ってわけじゃないですけどね」


 私は笑った。


「昔みたいな意地悪に戻ったらごめんなさいね?」

「そうならないように、これからは僕が傍で見張ることにしよう」


 約束だ、と言って、ジェームズ様が私の顎を持ち上げて唇にキスをした。


 同時に、それまで固まっていた周囲の人たちが拍手をし出す。皆笑っていた。誰もが私を祝福してくれているんだ。


 そんな私は、もうお飾りなんかじゃない。れっきとした王太子様の婚約者なんだ。


 それを証明したくて、今度は自分からジェームズ様に口づけた。


 ますます歓声が大きくなる。それと同時に、私の心も際限なく弾んでいった。

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― 新着の感想 ―
[一言] たまたま見かけたので読んだのですが、とっても面白かったです! 短いのにまとまっててすごくよかったです
[良い点] コミカライズおめでとうございます! とても面白かったです〜! マリアベルのような強い女性って素敵ですよね(*´꒳`*) 読ませていただきありがとうございました!
2022/11/24 19:07 退会済み
管理
[良い点] コミカライズ、おめでとうございます! 過去の自分の悪女ぶりを反省して、淑女として生きていこうとしたマリアベルですが、彼女の良さは隠れてしまっていたのですね。 ジェームス様は、よい素質を最初…
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