第八十四話『安穏』
――朝の冷涼な空気がゼントを眠りから遠ざける。
と同時に凄まじい速度で跳ね起きる。
ユーラが後ろから抱き着くような形で、体を雁字搦めにしていたからだ。
腕だけでなく脚までもを、まるで離れないように絡めてきている。
なぜか自身も彼女の方向を向いており、互いの顔が正面にあれば誰でも驚くだろう。
体を起こしても一緒にユーラの体が付いてくる。
揺れ動かされたことで彼女も目が覚めてしまったようだ。
「――はぁーーんんん、おにいちゃん。おはよう」
「……おはよう」
ゼントの顔を見ると幸せそうな顔で、日課のように伸びあくびを揃えて行う。
一方見つめられた側は身震いをして、心ここにあらずと言った様子だ。
この光景を“ライラ”――かつての恋人に見られでもしたら、半月は部屋から解放してくれないだろう。
「えーっと、その、立ち上がりたいから、できれば体から離れてくれるとありがたいんだけども……」
「あっ……ごめんなさい。きがつかなかった」
寝ぼけているのか下を向き、我に返ったように手足での拘束を解いてくれた。
立ち上がって裾を軽く払うと深々と謝ってくる。
これからはこう言ったことが増えてしまうかもしれない。
安穏な日常には違いないが、複雑な想いに駆られる。
そういえばとゼントは、着ている服もどうにかしなくてはいけないと感じた。
今ユーラが身に着けているのは、中心を紐で留める無地の作務衣のような格好。
初めて会った時と同じ服ということを見るに、おそらくあの教会特製に品なのだろう。
以前来ていた彼女を象徴すべき服は今手元にない。
あったからと言って、現状の問題が解決するわけでもないのだが……
実を言うと、まだユーラを受けいれて三日目だが、今までにも何回か困っていた出来事がある。
それは厠や風呂、着替えなどといった衛生的な面で障害。ゼントを精神的に攪乱させた。
ここでは多くを語るようなことはしないが、裏で並々ならぬ苦労があったのだという事は暗示しておく。
さて、ゼントは纏わりつく物理的な問題を払い、本日の予定を考え込んでいる。
明日はもう調査依頼に出る。なるべく今日中にできることは片付けたい。
しかし、意識外からの淀みなき声に、思考を阻まれた。
「それで、きょうはゆーらといっしょにいてくれるんだよね?」
これはユーラにとっての唯一の望み。ささやかで部屋を満たすほどの極限の願い。
だというのに、ゼントは酷薄な言葉を告げざるを得なかった。
決して残忍を極めたわけではない。それでも自身への責苦を得てしまう。
「その、本当に悪いと思ってるんだけど、今日も明日も外に出ないといけないんだ。どっちもできる限り早く帰って来るし、それが終わったら丸一日家に居る時間をつくるから……」
本来、この内容を昨日の時点で言わなくてはならなかったのだ。
どうにも返って来る反応が恐ろしくて、結局言い出せず後回しにしていた。
忍びない行為、かつ堪えない光景は目に見えていたので、心して身構える。
「――うん。わかった。いえでまってるね」
しかし、実際耳に入ってきた言葉は、想像よりはるかに柔らかいもの。
驚き、思わず数舜の硬直が入るほどの衝撃があった。
「え……!?本当にいいのか?だってっ…昨日はあんなに……」
「うん、だいじょうぶ!きのうはちょっとこわくなっちゃっただけで、こんどはちゃんとおるすばんできるよ!たくさんじかんがかかってもいいから!」
思わず聞き返すも、ユーラは努めて笑顔で答える。
一体どんな心境の変化があったのか分からないが、いい子になってしまった。
勿論それはありがたい限りなのだが、逆に心配になってしまう。
「あとこれ、きのうのひとにわたしておいてくれない?」
突然の変化に戸惑っていると、何やら手渡してくる。
それは昨朝ユーラに渡したお金の袋、今はライラの手元のあるべき物だ。
なぜそれを持っているのか。理由を考える前に説明を始めた。
「おにいちゃんがでていってすぐに、あのくろいおんなのひとがもどってきて……すぐにわたそうとおもったんだけど、たべものとかだけおいてでていっちゃって……」
「分かった。俺から渡しておくよ」
ため息をつき呆れながら、お金を受け取った。
これは言って聞かせねばなるまいとゼントは奮起する。
なんとなく理解していたことだが、ライラはどこか抜けている性質があった。
それは常識に付随したものなのか、元来の性格故なのか。
大切な報酬だけでなく費用代も忘れているというのも、なかなかに散漫な注意力だ。
――その後、朝の一悶着を終えて、外へ出る準備を終える。
朝食はパンに野菜を挟んだだけという簡素なものにして、ユーラにやらせてみる。
普通に作れていたので、基本や難しい調理ができなくなっているだけかもしれない。
「――それじゃあ行ってくる。」
「う、うん。いってらっしゃい……」
一緒に出掛けられればそれが一番なのだが、どうしても他の人間が怖いらしい。
自信なさげに見送っている。
あんなことを言っていたが、どうやら完全に独りを克服できたわけでは無いのだろう。
道中を走ってでも早く帰ってこようと、ゼントは固い決意をしたのだった。




