第八十三話『責任』
――紆余曲折ありながらも、食事を済ませたゼント。
結局、ユーラの調理の質が落ちてしまった原因は分からない。
またあの美味しい料理が食べられると期待していただけに、少しばかり肩を落とす。
しかし、やり方を忘れているだけなら思い出せばいいのだ。思い出せればの話だが……
ゼントは彼女の記憶を取り戻すことを、まだあきらめてはいない。
生活が安定してきたら、差し当たって何個か試したいことがあった。
この世界にはどういうわけか星空というものが無い。月といった衛星もなく、空に見えるのは雲と日輪と空のみ。
夜になってしまうと、文字通り“一寸先は闇”状態となり、平衡感覚が狂い歩行すら困難となる。
灯りを焚くのがもったいないので、住人のほとんどは朝日と共に目覚め、日が暮れると同時に眠りに就く。
二人も例外ではない。昨日と同じく就寝準備に入る。
だが昨夜と違うことがいくつかあった。
それは、ライラに朝頼んで至急用意した何枚かの毛布の存在。
寝床に敷いて良し、掛けて良しで、この場では何よりの優れものだ。
ユーラのには勿論、どうせならと床で寝る自分の為にも買っていた。
「――それじゃあ、おやすみ。また明日」
彼女を昨夜と同じ場所へ案内し、ゼントも同じ態勢で寝ようとした時だった。
物悲しい声が横から聞こえてくる。
「おにいちゃん。ゆーらとのやくそくは?」
「あっ……」
振り返るとそこには表情を曇らせたユーラの姿。
そして頭の中を過るは今朝の出来事。
自分はその約束をして、後悔しつつも了解してしまったこと。
今日一日にあった出来事があまりに濃縮されていて、頭の中から消えかかっていた。
申し訳なく感じつつも、さらにもう一つ断りを入れようと思っていることに謝意を抱く。
「昨日みたくユーラの寝台に背中を預けるんじゃダメか?ほら、手も握るからっ」
「えっ?でも、それは……」
ユーラが言いたいその先は、聞かずとも表情からひしひしと伝わってくる。――話が違う、と。
しばらく無言で訴えかけていたものの、やがて下がった眉のまま元の姿勢へと向き直る。
「……わかった。わがままはもういわないから。だからゆーらひとりでねるね……」
「いや、そういう事じゃないんだけど……いや、いい!ユーラ、横になって一緒に寝よう!」
何か思いつめるように体が震えていた様子を見て、ゼントはいても立っても居られない。
結局了承するのであれば、最初からやればいいものを……
しかし、彼にも前進しきれぬ根源の葛藤があったのだ。
女性と一緒に寝ることに対して、許されるかどうかの懸念が……
そもそも一つ屋根の下で暮らすこと自体、心に敷く線引きを大きく超えてしまっている。
そう言う意味ではユーラにとって、今回は彼の悪癖がいい方向に作用したと言えた。
くよくよと、逡巡されていつまでも引きずられるよりはずっといい。
「ほんとうにほんとう!?おにいちゃんめいわくじゃない?」
ゼントの顔には一点の曇りも無かった、と言えば必然的に嘘になるだろう。
こめかみには汗がにじみ出てきており、発言の為に相当な体力を使ったのだと見える。
しかし、やってしまった後悔というよりは、どこか瞳には清々しさが宿っていた。
「迷惑じゃない。約束したことを守れないなんて、俺の方がどうかしていたんだ。きっと……」
ユーラの顔には未だ疑念が張り付いている。
どうして怯えたような目をするのかがゼントは分からない。
ただ、全て自分が悪いのだと、責任を背負い込んでしまっている。
『ずっと一緒に居る』『すぐ戻って来る』
たったこれだけの約束すら果たすことができなかった。
一度堕としてしまった人からの信頼は、そう簡単には戻らない。
どんなに積み重ねられたものだとしても、容易に根元から崩れ去る。
長い時間を掛けて、得難い経験を重ねながら、また一から修復していくしかないのだ。
以前は周囲の視線が下す、評価と実力がそれだった。
だから信頼とは望んで得るものではなく、己へと当然の如く付いて回るもの。
だが今彼に求められているのは、口先ではなく行動を伴った証明。
「ほら、毛布を敷いたからここで寝よう」
「う、うん……」
ちょうど二人が寝られるほどの広さの床に、毛布を上から乗せた。
内気に指示に従って、ゆったりと寝そべる。
ゼントは互いの体に毛布を掛けると外側を向いて横になった。
どうしてもユーラの方向を向くというのはできなかった。
下手に意識しない為、最後の砦とばかりに背中という小さくも重い壁を築いたのだ。
それでも彼女は何も言わず、しかしゼントの後ろには手の感触が或る。
寝る前の挨拶も無く、二人が寝床に入ってしばらくの無言が続いた。
やはり静寂に耐えられなかったのだろう。独り言のように呟く。
「ゆーらね、ねるときだけは、だれにもじゃまされずにひとりがいいの」
無論、ゼントの目は見開く。それは今までの言動に矛盾を齎すからだ。
なぜ今このタイミングで、しかもどのような意図を持っているのかも分からない。
しかしこれが彼女の望む行動でないのなら、初めから見直す必要がある。
「えっ?だったら――」
「――もちろんおにいちゃんだけはべつだよ!!」
ゼントが慌てて振り返ると、そこには満面の笑みがある。
退行して初めて聞いた明るい声、間違いなく至上の笑顔だろう。
ゼントはしかし恐怖を覚えた。
その顔を見ると、少なからず自分の中の心が揺れ動かされるから。




