第八十話『哀絶』
ゼントは家の前まで時間を掛けずにやってきた。
帰ったからといって、やることは後を絶たない。
ライラに買ってきてもらった品物の確認や、本格的な依頼の準備など、
もともと家から出た目的は、カイロスへの報告と話し合いだけのつもりだったのだが。
しかし、予期せぬ出来事が続いたため、思っていたよりも数倍の時間が掛かってしまっている。
これではユーラとの“すぐ戻る”という約束は果たせていないだろう。
「――ただいま。ユーラ、今戻った」
その出来事は建物内部に足を踏み入れた瞬間に起こった。
良くも悪くも油断しきっていたのだろう。完全な意識外からやってくる。
「――うわっ!??」
玄関をくぐるや否や、重みを伴った衝撃が足元に押し寄せる。
両足を固定されて、重心の均衡が崩れたゼントはそのままの姿勢で床に倒れ込んだ。
咄嗟の事で頓狂な声を上げると同時に、不完全な受け身を取ることしかできない。
第一に頭を過った可能性は、何者かによる襲撃。そう考えるのも無理はない。
実際は壁裏に隠れるように潜んでいた者が、彼の足に飛びついてきたのだ。
加えて悲鳴のような、音節にもならない叫びが耳に飛び込んでくる。
何が起こったのか分からないまま、倒れた状態で足元を見ると視界には亜麻色が映った。
そこでようやく襲撃者の正体を知るものの、状況はまるで理解できない。
「ユーラ!?何かあったのか!?ま、まさか赤い奴が現れたのか?どこだ!?」
床にぶつけた頭を手で押さえながら、慌てたように尋ねる。
ずっと家に居たユーラが、瞳に涙を溜めて見つめてきた。
ただ事じゃないと、首を動かして見渡すも赤は天井のどこにも無い。
「ううん、ちがうのっ、ただひとりがこわかったの!さびしくて、むねのなかから、かきむしられるみたいで……!」
初めはやっと聞こえるくらいの小さな声だった。
そこから段々と、感情がとめどなく溢れてくるように、
涙と声を多量に、絡めて訴えかけてくる。
「もうあえないかとおもった!!ゆーらのことわすれちゃったのかもしれないって!!それか、いっしょにいるのがいやになったのかもって!どんどんこわくなっちゃって、それで、それで!!」
部屋に堂々鳴り響く雷鳴の如く声は、もはやかろうじて言語として成り立つ絶叫だった。
それは激しい情念。ところどころ掠れながらも、強引に無視して喉の奥を動かし続ける。
治ってきたとはいえ、まだ喉も完全に癒えていないはずなのに、どこからそんな声が出せるのだろうか。
ゼントもまさかこんな事態になっているとは思いもよらなかっただろう。
すこし予定より遅れてしまっただけ、そう考えていたに違いない。
しかし、誰かにとっての深く考えずに済むお気楽な一秒は、誰かにとっての永劫に近い絶望なのかもしれなかった。
時間の価値が、感性が、両者の間であまりに乖離している。
決して理解することは叶わない。理解し得ない。それでも彼女の為には呑み込むしかなかった。
医者に言われていた大声を出させない、という事項を破ってしまう。
感情に絆され、止めることができなかったので致し方無い。
右腕に至っては普段から痛みを感じている様子はないが、さすがに今の衝撃で確実に激痛が走るはず。
にも拘らず、彼女の涙は全て恐怖の注がれていた。
「そんな……ユーラのことほったらかしにするなんてありえない。そう言っただろ?俺のこと信じてくれなかったのか?」
「しんじてたの!だからすぐゆーらのところにもどってきてくれるって!ずっとまってたのに……いつまでもかえってこなくて……」
体を地面から起こして宥める。また、労わるように優しく語り掛ける。
しかし、彼女から出る声は安心するのではなく、だんだんと細く衰弱していく。
その発言が耳に入って来るなり、ゼントは何度目かも分からない自らに対しての恥を感じた。
自分は約束を破っておいて、あまりにも図々しいだろうと。
一番つらかったのはユーラのはずだ。なのに、気が動転していたとはいえ、ゆるされない質問をしてしまった。
目の前の少女には、実在しない兄へ寄せる信頼以外、できることは無かったというのに。
彼女の持っている信じる心は、もはや信仰や崇拝、あるいは狂信と謳われても過言ではない。
せめてもの償いに、ゼントにできることと言えばそう。誠意を見せる事だけだ。
心を尽くして、約束を守れなかったことを謝ろう。赦してもらえるまで、何度でも、何度でも。
正面に向くために、一旦拘束から抜け出し体勢を立て直そうとするも――
「――?!! だめ!!はなれたらやだ!!」
ユーラが再び飛びついてきて、上半身が地面に叩きつけられる。
膝にあった顔が今度は鳩尾まで登って来た。
「逃げたりしないから、だいじょ――」
「つめたいのがこわいの。おにいちゃんはあったかいから、ゆーらこのままがいい」
何も言い返すことはできない。それを望むのであれば、できる限り叶えて然るべきだから。
上目づかいで物惜しそうに見ていたが、次第に胸に耳を付け、そのまま泥のように深い眠りに落ちてしまった。
それに追随するかのように、ゼントも全身の力を抜いて床に仰向けになる。
精神は幼くとも身体は大人に近く、女性に対して失礼だが体重もそれなりにあり、正直に言えばかなりつらい。
でも、だから何だと言うのだ。自身の犯した過ちに比べれば砂粒にも満たないだろう。
ふと、上に乗るユーラの体温が、添うように体に伝わってくる。
そして無意識に彼女の頭に手が伸びて、気が付くと撫でてしまっていた。
ゼントはその二つの感触を、同時に思い出してしまう。
かつての頃の、導かれる標を求めた記憶を。




