第七十一話『正常』
予期せぬ訪問者が去ると、ゼントは一息つこうと壁を背に地面に座り込む。
無意識に体が強張ってしまっていた。考えたいことは山ほどある。
静かな部屋に深い息遣いが響き渡った。
予期せぬと言えばもう一つ。
彼が意識を現実から背けていると、ユーラは晴れ渡るような笑顔で近づいてくる。
そして何も言わず、ゼントに背を向けて両足に挟まるように座った。
完全に体同士が密着するような体勢だ。
「うおっ!?」
更に言えば、思いっきり体重を預けてきて、目を閉じ寛いでいる。
意識外からの感触に驚いて、自分の両手を上げてしまう。
彼の視界には、亜麻色の長髪で埋め尽くされた。
前に見た三つ編みの装飾などは無くなっている。
単に人格が変わって、見た目を気にしなくなったのだろうか。
しかし依然と質感はさらさらで艶もあった。
問題はそこではない。
彼女を引き取ると告げた時から、ずっと気になって仕方がなかったことがある。
一緒に寝てほしい。手を繋いでほしい。などの身体的接触の要求だった。
彼女から見れば当たり前の事なのかもしれないが、兄妹にしても過度とも思えるほど。
まだ聞いてくる分には構わないのだが、今回に至ってはゼントの意志を確認することも無く。
周りからはあまりいい印象を抱かれない上に、今後もこうなっているのでは困ってしまう。
流石にゼントも声に出して言ってしまった。
「ユーラ、今後はなるべくこういうのをやめないか?」
「こういうのって?」
「えっと……体の距離が近いんだ。少しだけ離れないか?」
すると彼女は後ろを素早く振り返る。
見える表情は驚きだった。先程の憩う声からは想像もできない程。
だが、次第に不満を持つ顔へと遷移する。
ユーラが何を言わんとしているかは、無論彼にも伝わった。
だから、言葉を言い換えて何とかして取り繕うとする。
「いやそうじゃなくて、俺もしなくちゃいけないことがたくさんある。ずっとくっついていられると、できないことがあってちょっと困るというか……」
それは説得というよりは、もはや言い訳というにふさわしかった。
あまりにもお粗末な内容、彼女が納得するはずもない。
「しなくちゃいけないことってなに!?だったらゆーらがやるから!そうすればいっしょにいられるでしょ?」
予想の斜め上の発言、愛らしくもある困り顔。
なにがなんでも傍に居たいという意志の表れだった。
一方ゼントは更に返答に頭を抱える結果となる。
「えーっと……とりあえずは家事とか、かな」
「じゃあそれをゆーらがやるから!」
「今は必要ない。右腕の怪我が治ったら頼むよ」
「えー?じゃあ、がんばってはやくなおすね」
頑張ったところで、怪我が早く治るわけでもないだろうに……
彼女は子どものように、よく感情が揺れ動く。つられて気が付けば、話は逸れてしまっていた。
そしてゼントは理解する。自分ではユーラを強く叱れないことに、
同情に煽られ何度繰り返えそうと、そんな意志も資格も無い事を彼は悟った。
ではどうするのか?
そう、なにもできない。
つまりは成されるがままだ。
だが、完全に屈するわけでもない。
「――ユーラ、遅かれ早かれ、俺は外に出なきゃならない」
「……おにいちゃん。もうそのはなしはやめよう?」
ここまでは想定内、ここからが本題の交渉だ。
一人にはなりたくない。外に出たくもない。
打ち崩す為にゼントは覚悟を決める。
「できる事なら何でもするから、外に行かせてもらえないか?」
「…………」
彼女はしばらく考え込んだ。かなり長い時間、眉を潜ませたまま。
その後、顔を赤らめながらいくつかの条件を出した。
「えっとね。でかけるときに、ゆーらのあたまをなでなでしてほしいなぁ、なんて……」
「それだけ?」
よせばいいのに、ゼントは自ら地雷を踏み抜いた。
「じゃ、じゃあいっしょにねてほしいな。ちかくでとかじゃなくて、すぐとなりに……」
「そ、そうか」
両手を何とか合わせて、声は歓喜に満ちていた。
自身の軽はずみな言動に後悔しつつも、ゼントは喜ぶ彼女に逆らえず了承してしまう。
しかし紆余曲折はあったものの、何とかユーラによる外出許可が下りる。
「でもひとりでいるときに、あのあかいやつがでたらどうするの?」
「俺も極力はユーラの傍に居るようにする。それでも、一人の時に遭遇したら全力で逃げるんだ」
未だ脅威は去っていない。化け物がまた出現するという可能性も否定できなかった。
一先ずは協会に状況を確認しに行きたいという思いがある。
だからそのために、ゼントは早速行動に移る。
「え?もうそとにいっちゃうの?かいものはあのひとにまかせたのに?」
「ちょっと確認したいことがあるんだ。すぐ戻るから安心して」
「すぐって?どれくらい!?」
「すぐはすぐだよ。なんならついて来ても……」
「それは……ゆーらいいや。そとはこわいから……」
傍には居たい。だが、外には出たくない。
葛藤に苛まれてユーラが出した結論は、慕っている兄と離れるというもの。
本当はもっと引き留めたい。縛り付けてでもいい。
だけれど、それ以上に大好きな兄の手を煩わせたくなかった。
できる事ならもっと強い要求を出したい。でも手がかかると嫌われるかもしれない。
嫌われると、もう一緒には居られない。だから、我儘を押さえてささやかな内容にした。
突如現れた謎の女性を頼る兄の姿に、不快感を覚える自分がいる。
我儘を呑んでくれたが、全く頼られない。期待もされてないのか。
このままではいずれ、いくら兄でも愛想尽かされる。
困らせないようにと、一人でいることを我慢した。
「それじゃあ行ってくる。俺がいない間あの黒長髪の奴が帰ってきたら、これを渡してやってくれ」
「あっ……」
また精いっぱいの笑顔で挨拶すると、お金が入った袋を手渡してくる。
いつもの黒い服を身に纏い、後ろ姿は素直にかっこよくも感じる。
でも……、一度でも離れてしまうと二度と会えなくなる気がして、不安が波のように荒ぶった。
しかし彼女は兄を信じようと決めたのだ。迷うことなく家族と言ってくれた彼を……
自分の意志を捻じ曲げてでも止めることはできなかった。
彼女が今、できる事と言えば一つだけ……
「おにいちゃん!」
「なんだ?」
「ゆーらのあたまをなでて!!」




