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第六十二話『絶倒』

 



 彼女は兄と唯一慕う者を、心の底から信用していた。

 それは無垢ゆえの歪み切った愛なのかも分からない。

 純情な異性に対しての好意なのか。純粋に家族としてのものか。


 目覚めた時、ゼントが傍に居なくても彼を非難することは無い。

 なぜなら約束したからだ。ずっと一緒に居ると、

 孤独を抱えたまま、一日という永劫にも近い時間を過ごした。


 状況を早とちりしているのは、他の可能性を強引に模索した結果なのだ。

 そんな少女の疑う事を知らない信頼を、一方的に打ち壊そうとしている。

 これは裏切りだ。ゼントは最低の嘘をついた。そして、彼女を絶望へと突き落とそうとしている。



 勝気な態度で上から目線だったかもしれないが、ひたすら健気に世話を焼いてくれたユーラ。

 かつての彼女はもうどこにもいない。目の前に居るのはただの幼い子供だった。


 しばらく、部屋の中に静寂が訪れる。だが静謐とは到底呼べまい。

 ゼントは視線を伏せることしかできなかった。



「――ゆーらなにかわるいことした?わるいことしたから、そんないじわるするんでしょ?」


 少女の瞳にはまだ輝きが残っている。稚拙な頭で必死に考えていた。聞こえた言葉は何かの間違いだと、

 だが鎖に繋がれた少女を薄暗い部屋に放置することが意地悪で済むなら、この世は腐っている。

 ゼントは悲惨な光景を見てもなお、口を堅く噤まざるを得ない。目の前の少女が求めている言葉を紡げないから。



「どうしてなにもいってくれないの?なにがわるかったのかわからないの。ゆーらなおすから、いってくれればぜんぶなおすから」


 骨折して不自由な右手を動かし、ゼントの服の袖を手繰り寄せる。

 ユーラの瞳から希望が、感情が、そして色が抜けていく。

 空っぽへと変貌するのも、既に時間の問題だった。



「いやだいやだいやだ!!ゆーらをひとりにしないで!!」


 ゼントは一切言葉を発しない。笑顔もない。瞬きすら……

 彼の手首を強く掴んだ。独りという恐怖が彼女の頭を過る。


 生まれてからずっと、強い心痛に晒されなかった彼女は精神面が脆弱だ。

 それは今も変わらない。孤独への恐怖は、親を求める小動物のよう。



 一方ゼントの体を支配していたのは、紛れもない痛みだった。

 今まさに眼前で縋られる光景に、耐え難い苦痛が意識と頭を蝕む。

 忍耐で押さえつけ、ようやく発狂しそうなほどの――


 強く掴む少女の手は柔らかい。しかし、冷たく、細く、そしてどこまでも弱々しく。

 以前抱き着かれたことがあったが、その時感じたはずの感触を記憶から消し去ってしまっていた。



「……ほら、まだ食事をとってないんだろ?少しでもいいから食べよう、な?」


 ユーラはもう何日もまともに食事を摂っていない。空腹で限界のはずだ。

 話題を一方的に変えて、机の上に残された料理へと懸命に促すも、場が収まるはずがない。



「いっしょに……」

「はい、口を大きく開けて……」


 掴まれた手を無理やり無視して、残ったもう片方の手で置かれていた匙を握った。

 そしてまだ何か喋ろうとしていたユーラを制し、まだ湯気の出ているスープを掬って口へと近づける。

 感情を無にして……出なければ糸が途切れてしまいそうだったから。

 彼女は一瞬身を捩り拒否反応を見せるも、数秒後には大人しく口を開いた。



 彼女は従順とはとても言えない。ただ希望を求めていた。

 ゼントの指示に従ったら、自分の唯一の要求にもこたえてくれるかもしれないと。

 だから、次々と口元に運ばれてくる料理を、一心不乱に食べ続けた。


 だが瞳にはこらえきれない涙を浮かべている。

 料理を運ぶごとに、あふれ出る恐怖の感情は大きくなり瞳に溜まっていく。



 置かれていた料理を食べつくすとゼントは再び屈み、

 努めて安心させるように優しく声を掛けた。



「――ユーラ、悪いのは全部俺なんだ。いくらでも恨んでくれて構わない」


 全力で全ての料理を食べつくすも、

 耳に入って来るのは変わることのない悲観だった。



「ちがうの!そんなこといってるんじゃないの!ゆーらがぜんぶわるかったんでしょ?がんばってつぐなうから!もういっかいやりなおすきかいをください!ひとりはいやなの!」


 悲痛に満ちたかすれ声。稚拙な喋りで、切望が千切れ、零れるように流れ出てくる。

 世の中は不条理だった。手前勝手な理由で見放されたというのに、まだ自分が悪いと信じているのだから。



「大丈夫だ。ここには俺以外にもいろんな人が居るから安心しろ」


 苦し紛れに言い訳をする。自分に向かってだ。



「そうじゃないの!おにいちゃんじゃないとだめなの!なんでもするから!おねがいします!」


 ゼントは理解できなかった。求められているのが何故自分なのかと。

 何故自分を兄と呼び、他の者へは総じて拒絶を示し、そして退行してしまったのか。



 心臓に鈍い痛みが走る。

 心を痛める、などという隠喩では表しきれない本物の痛みだ。

 感じたことのない箇所の、紛れもない疼痛にゼントは呼吸を忘れる。



 それでも何も言えないゼントを見て、懇願する少女の顔は更に歪み続けた。

 原因はゼントただ一人によるものだ。



「……どうか、おねがい……します。ゆーらを、ひとりにしないでください。おねがい、です。どうか……」


 その目にはとうとう、諦観の念が表れはじめる。

 ついに離れないようにと掴んでいた右手から、力が抜けていく。

 手首の痛みからは解放され、その代わりユーラの両手は地面に向かってしだれる。




 その光景にとうとう、ゼントは憤慨した。

 張っていた最後の糸が、一瞬でプツリと切れる。


 ……もう我慢の限界だった。


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