第五十二話『恍惚』
「――ユーラ起きて、ユーラ……」
……大好きな人の声がする。
暖かく懐かしいようで、平凡な日々から私を連れ出してくれた人……
傍にずっと居たい。一瞬たりとも離れたくない。
それができないのなら、この業火に巻かれて死んだ方がずっとまし。
名前を呼ばれたので目を擦りながら、ゆっくり開ける。
やっぱりあの人の声だ。眠る前に見たのは幻じゃなかったんだ。
視界いっぱいに広がる笑顔が、溢れんばかりの多幸感をくれる。
紛れもない。私のお兄ちゃん……
体を起こして正面に捉えた。そして違和感を覚えた。
自分の手足が自分の物じゃないみたい。
頭で想像した動きと、実際の視界に映る動きが一致しない。
「ユーラ、起きたばかりで悪いんだが、いくつか聞きたいことがある。いいか?」
今まで味わったことのない感覚に戸惑っていると、お兄ちゃんが尋ねて来た。
出来る事なら私も答えたいのけど、すぐ横にあるものが気になって仕方がない。
傍に寄り、こちらを見てくる大小さまざまな四体の肌色をした肉の塊、
話しかけて来たから多分人間なんだろうけど、それにしても醜すぎた。
お兄ちゃんは気にならないかな……
彼の目を見て、すぐに答えなきゃいけないはずなのに、
やっぱりみられてると、全身に悪寒が走っちゃう。
さっきも汚らわしい手で私に触ろうとしてきて、吐き気がするほどに気持ち悪い。
我慢しきれなくなって、思わず指差して言ってしまった。
「ねえ、おにいちゃんふたりきりではなしたい……わたしこのひとたちといっしょにいたくない……」
腕を絡ませながら顔を見上げて懇願する。
しばらく考え込んだけど、お兄ちゃんは私の言うとおりにしてくれた。
彼が手で合図すると肉の塊たちは部屋の外へと出て行く。
やっぱりわたしのお兄ちゃんだ。
一方的なわがままにも拘わらず、気にせずに私を第一に考えてくれる。
いつも強くて、勇敢で、かっこよくて、私のあこがれだ。
お兄ちゃんの顔を見ると、胸にこみ上げてくるものがある。
思い出せないけど、何か悩みがあったような……
どうでもいいや、なぜだか分からないけど、今はこんなにもすがすがしい気分なんだから。
忘れるくらいなんだから、大した悩みじゃなかったに違いない。
「……で、聞きたいことについてなんだけど……」
そうだった。お兄ちゃんと話をしなきゃ。たくさん話したいことがあったのに……
「最後の記憶を教えてくれないか?赤くて大きな腕の化け物の事について」
そう言われて、ここで起きる前の記憶を思い出す。
確かにアレの事は覚えてる。でも視界に広がる赤と、体に走る激痛の事しか出てこない。
それと……
「あんまりおぼえてない……でも、おにいちゃんがあいつをやっつけてくれたんでしょ?ありがとう」
生きているという事は、つまりそういうことなんでしょう?
喋る度に喉の奥が痛んだ。でも感謝の言葉は絶対伝えないと……
「え?あ、ああ、まあそうだな……ユーラも無事で、よかった…」
よそよそしく、言葉を返される。
「なあ、どうして俺を兄と呼ぶんだ?」
「え?おにいちゃんはおにいちゃんでしょ?」
何を言っているのか意味が分からなかった。
今までずっとそうだったのに、一緒に暮らしてきたのに、
なんで今更そんなことを言ってくるのか理解できない。
「…………そうだったな……」
不思議な間の後に、またどこかよそよそしい答弁。
私たちはもっと親しい間柄のはずなのに、
もしかして、何か変な事を言ったのかな……
「じゃあ……なんでもいい、他に覚えてることとか、気になることはないか?」
「えーっと……とくにないかな……」
これ以上考えても何も出てこなかった。
思い出そうとすると頭が痛くなって、気持ち悪くもなる。
寝起きだから頭が働いてないのかもしれない。
「ええと、あと服直してくれてありがとうな」
「……?なんのこと?」
「……覚えてないんだったら……まあ、気にしないでくれ」
服、服……何かあった気がするけどやっぱり思い出せない。
「大体分かった。聞きたいことはこれくらいだ。ありがとう、助かったよ」
こうしておにいちゃんからの質問は途絶えた。
でも、ありがとうって言ってもらえたから満足だ。
確認のために今度はこちらから質問した。
「ねえ、おにいちゃん?」
「どうした?」
「わたしと、ずっといっしょにいてくれるよね?」
私がそう言った瞬間、お兄ちゃん表情が固まった。
ほんのわずかだが、眉の端が下がっていく。
それが何を意味しているのか分からない私ではない。
腕を掴んでいた手から力が抜けていった。
全身が痺れたみたいに動かなくなっていく。
虚無に襲われ、右腕の痛みだけが分かる。
「いっしょに、いてくれないの……?」
「ああ、ごめん。疲れててちょっと考え事をしてただけだ。もちろんずっと一緒に居るよ……」
その言葉を聞いて、体の硬直が一気に解れた。
良かった。愛尽かされたわけじゃなかった。
私がいつまでも護られてばかりだから、見放されたのかと思ってしまった。
お兄ちゃんがそんなことするはずないのに、
私が信じ切れてなかったんだ。
信頼を寄せられてなかったことに、思考が罪悪感に蝕まれていく。
「そうだ、ユーラ。喉渇いてないか?」
「うん、かわいてる。おなかもとてもすいた……」
「ごめんな、今は水しかないんだ。ここから出たら、いっぱい食べられるからな」
そう言って木のコップに入った水を渡してきた。
「ありがとう」
私は受け取って中身を飲み干す。
何故だか分からないけど、とてもおいしく感じた。
安心したら眠くなってきた。
二人だけの小さな部屋の中に大きなあくびが一つ。
「眠くなったら無理しないで寝ちゃっていいからな」
「……うん。ユーラすこしねるね。おやすみ……」
気を使ってくれた。
頑張って起きていたけど、この睡魔には抗えそうになかった。
「ああ、おやすみ。ユーラ、他の人のいう事にはきちんと従うんだぞ……」
何で今そんなことを言うのか分からなかった。
疑問を考える暇もなく、悪夢の世界へと誘われる。
でも大丈夫、起きた時にはお兄ちゃんが居るんだから……




