第五十話『消却』
――ゼントは言葉を聞くや否や、すぐに家を飛び出した。
カイロスさえ置き去りにして、だがユーラの居場所を知らないために数歩で立ち止まってしまう。
佇むゼントに、息を切らしたカイロスが後ろから声を掛ける。
「町の北西のはずれに教会があるだろ?その近くだ。俺の事はいいから急いでやれ!」
何もかもお見通しと言うように、必要な情報をくれた。
協会の長である彼がわざわざ足を運ぶとは、なかなかに異常事態なのか。
それとも彼以外ここへ来たくなかったのか。
ともかく、ゼントは北西へと向かった。
教会の綺麗な庭を横目に走る。呼吸が整わなくてもひたすら走る。
途中で何度も不安に駆られた。何があったのか。もしかしてまた失踪したのかと、
近くで診療所と言える場所は一つ。すぐに場所は特定できた。
木造の湾曲した屋根のある平屋、入り口の扉に手を掛け中に入る。
正面には廊下が奥へと伸び、左右に扉が連なっていた。
部屋を一つずつ回って確認していると、奥からから見知っている人物の喚き叫ぶ声が耳に入ってしまう。
「――やめて!近づかないで!」
声は老婆のようにかすれ、赤子のように弱々しいものだが間違いない。ユーラの声だ。
ゼントは声の聞こえた部屋へノックもせず駆け込む。
中に入ると四人の人物が居た。
ハイスとフォモス、見知らぬ長身の男、
そして、ベッドの隅で毛布に包まり、頭を抱えるユーラ、
フォモスがユーラへとそっと手を伸ばし、だが彼女は拒絶するように顔を毛布に埋めている。
一体全体何がどうなっているのか分からない。
扉の前で立ち尽くしていると、長身の男が体を向け問いかけて来た。
「もしかしてあなたがゼントさんですか?」
「あ、ああ…………」
低く渋い声、薄黄色のコートを身に纏った男に対して、力なく頷くことしかできない。
「私はこの二人に呼ばれた医者です。ほらユーラさん。お兄さんが来ましたよ」
長身の男は軽く自己紹介を済ませると、怯えているユーラへと声を掛ける。
どうしてその言葉を選んで使ったのか理解できなかったが、すぐに知ることになった。
医者の声を聞き入れると即座に顔を上げた。
瞳には涙を溜め表情は歓喜に満ちたものだが、先日を思い出してつい身構える。
同時に彼女の姿を見て、とてつもない違和感を抱いた。
右腕全体が木板で固定されているが、違和感の正体は別にあった。
瞳が――元の色に戻っている……
いや、今まで彼女の瞳がどんなものか分からないが、髪色と同じ自然な色。
きっとこれが本来の色なのだろうとゼントは直感で感じた。
虚ろな毒々しさも、くすんだ輝きも一切と無い。
それはつまり、ユーラ自体の精神も元に戻ったことを意味している。
だというのに……
彼女の最初に発した言葉は、異常としか言えなかった。
這いずるようにベッドを移動して、右手を動かしにくそうだがゼントへと向かう。
フォモスが差し伸べた手を無視して、ハイスは体を抑え込まれ、
そして、ゼントに向かってしわがれた声で叫んだ。
「――“おにいちゃん”たすけて!!へんなひとたちがいやなことしてくるの!!」
……その瞬間、彼の中で何かが崩れ落ちた
何を言っているのか、まだ理解できなかったからだ。
一体彼女に何が起こったのだ……
放心状態で、全身の力が抜け、膝から崩れ落ちそうになるが必死にこらえる。
もしかして、一生涯真面な会話ができないのではと。
篤い焦燥に駆られながら、ユーラが暴れる様子をただただ眺めていた。
◇◆◇◆
何日も彼女が目覚めないので、ハイスらは町の外から優秀な医者を呼んだらしい。
かなり手痛い出費だっただろうが、彼らは惜しむことなく決断を下した。
医者の呼んだおかげか、昨夜には目を覚ました。
だが、突然人格が豹変してしなったように、不可解な言動を繰り返すばかりで、手に負えないとのこと。
「おにいちゃんはどこにいったの!?なんでいないの!」
「おにいちゃんをかえして!でていって!」
彼女らしからぬ幼稚な喋り方、駄々を捏ねる子どものような振る舞い。
加えて、フォモスたちを見るとたちまち目を背け、異常とも思えるほど怯えているようだ。
右手を固定されながらも、振り払うように周囲の人物を拒絶していた。
フォモスが何とか宥めようとするも、彼女は取り付く島もない。
なぜなのか、理由はすぐに分かった。
「ユーラ落ち着け、怖い夢でも見たのか?」
「あなただれ?わたしにさわらないで!!」
「え…?何言ってんだよ……ずっと一緒にやって来ただろ……?」
「しらない!あなたなんかしらない!」
これは報いなのか……
彼女はパーティーメンバーの二人を……忘れてしまっていた。
空気は一気に不穏となり、二人の顔は青ざめる。
彼らからすれば、初めてユーラの異常な光景を見たのだ。
衝撃はゼントよりも数段大きい。
記憶の喪失は、以前からそうだったのか、事件に遭遇した後からなのか。
訳が分からずも、疑問は一先ず後回しとなった。
怯えられながら、懸命に問いかけを重ねる。
すると彼女の言う“兄”というのが、どうやらゼントだという事を突き止め、
たまたま見舞いに来ていたカイロスの協力の元、彼の召喚へと至る。
フォモスもハイスも目の下には隈が出来ていた。
一晩中、問答で格闘していたのだろう。
ゼントがユーラの傍へ寄ると、縋るように抱き着きつかれそのまますぐ眠ってしまった。
よほど体力を消耗していて、そして彼の出現が彼女を安心させたのだろう
ゼントは未だに状況が呑み込めていない。
傍らで眠るユーラに対しても冷たい視線しか送れない。
腕の身動きが取れないまま、ベッドに腰掛け三人で医者の説明を聞く。
「よく調べたところ右手の骨が折れています。痣を見る限りですが外側から力が入って、骨折したのでしょう。見たところ喉も内出血しているので、大声を出させないようにしてください」
手際よく淡々と述べる医者、
「最後に確認しますが、あなたはユーラさんのお兄さんというわけではないのですよね?」
「そうだ。それにこいつに兄が居るなんて聞いたこともない」
丁寧な口調に気後れしながらも、平然と振る舞いはっきり答える。
だが内心では、小動物のように震えていた。
外傷については、あの化け物に掴まれた際のものだろう。
あれだけ大声を出せば声も掠れるに違いない。
「私は外傷が専門なので詳しくは分かりませんが、ユーラさんは記憶障害を起こしています。知り合いを忘れ、そしてあなたの事をお兄さんだと認識しているみたいです」
それは言葉だけで言われていたら理解できなかったが、実際にあのユーラを見てしまったら嫌でも理解せざるを得ない。
「しかし、不思議なことに彼女に兄が居るという情報はどこもなく、兄がすり替わってしまった可能性は考えにくいです。退行現象が生きているので、精神的なショックを受けたということも……」
それもそのはずだ。
可能性があるとすればあの時、化け物に何かされたに違いない。
ゼントは頭で再び赤い手について考える。
長年冒険者をやっていたが、やはり記憶にない。
珍しい生き物だとしても、一切情報が無いというのは不自然だ。
「私が言えるのはこれくらいです。分からないことだらけですが、記憶が戻る可能性もまだあります。今はとにかくこれ以上のショックを与えないようにお願いします」
医者の解説にゼントはただ黙って頷くしかなかった。
彼が言いたいことはつまり、彼女が思い込んでいる兄のように振舞えという事だった。
考えてみれば、化け物に遭遇する直前にも事実を突き付けたことがあったが、瞳がより虚ろになるだけだった。
今度は何が起こるか分からないという事だ。
木の天井を見ながら、大きなため息を吐く。
少なからず以前のユーラが戻って来ることは、もうないと宣告されたようなものだ。
当然の出来事で、未だ状況が呑み込めていなかった。
「アニキ……その、ユーラの事、二人で話あったんだけど……」
ふと横を見るとハイスが神妙な面持ちで話しかけて来た。
意を決したように続ける。
「――すぐそこの教会に預けようと思うんだ」
彼は真っ直ぐにゼントを見つめ、眼差しからは確固たる意志が読み取れた。
それが何を意味しているのか分からない彼らではない。




