第四十八話『赤イ手』
悪い夢だと思った。
ユーラの瞳と同色に見えるそれ、
かつてないほどの衝撃が体を走った。
とうとう幻覚を見てしまったのかと、思わない方が難しい。
目の前の居る少女も、体をまさぐる不快な感触も、
奥の一つを除いて、何も意識の中に入っていなかった。
初めは小さな赤い点。
不審に感じた時には、天井が全て赤で染まった後だった。
部屋の一面だけを浸蝕し占領した赫、
上から鮮血が滲み出たのか?それにしては固形部分が多い。
考える余裕は無かった。なぜなら――
見たことも無い赤い何かは、天井から見たことも無い数多の突起を垂らす。
突起は次第に中央に集まって、塊となって、最終的には巨大な腕の形になった。
大木の根を思わせる刺々しい見た目、不吉の象徴、羅刹の如く。
そして腕の先に付いている手は、ゆっくりとゼントたちに近づいてきた。
だが標的はゼントではなく、彼に張り付いている者のようだ。
「――ユーラ!」
少女の身に危険が迫っていることを、名を叫んで警告した。
だが、すぐ後ろに強大な腕があるとは想像すらできまい。
彼女は最後の女々しい抵抗とでも思っていたのだろう。
「――うぐッ?!」
短い悲鳴が、ゼントの頭を突き抜けた。
腕は少女の胴体を掴み、全身は持ち上げられて宙に浮いている。
両手までもが握りしめられ、身動きが取れない。
「――痛い!!何!?なにこれ!!?助けてゼント!!」
圧倒的に優位な立場だったにも拘わらず、愚かにも目の前の何もできぬか弱き存在に助けを求めた。
徐に後ろを振り返り、ようやく自身の置かれている境遇を知ってしまったのだろう。
蕩けるような表情から、一気に絶望へ叩きつけられた顔だ。
両手を縛られ、すぐに立ち上がることのできないゼントは傍観することしかできない。
我が物にせんと拘束を付けたことが完全に裏目に出た。
「――離せ!!…この!!」
少女は振り解こうと暴れた。しかし、全身が恐怖で震えてしまって上手くいかないようだ。
微動もしない巨大な腕は、更に上昇し部屋の天井付近まで体が持ち上げられた。
「ユーラッ!!」
ゼントも不自由ながらも立ち上がり、よろめきながらも拘束された両手を差し伸べる。
もう彼女にされたことなど気にも留めて無い。
今はただ、助けることが何よりも優先されるべきだと思った。
「――ゼントッ!!」
少女も何とか左手を赤い腕から引き抜き、彼へと差し出す。
しかし、もう何もかも遅かった。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッーーーー!!!!!」
突然、耳を劈く少女の断末魔、
部屋の窓ガラスを壊してしまえるほどの金切り声、
意識が頭を離れ、目の前が認識できなくなる程度には立ち眩んだ。
倒れたゼントはベッドに沈み込み、数舜の間の後、目の前に狭まる絶望の光景を見た。
騒音の直後だというのに、妙な静けさで恐怖が全身を流離う。
少女が……否、ユーラの頭には無数の“何か”が張り付いていた。
頭部の全体を、赤黒い物体が満遍なく覆っている。
顔の大部分すら覆われ、唯一見える口元からは泡が吹き出ていた。
全身が脱力し、伸びていたはずの左手は重力に従う。
少女の在る足元には、
上から滴り落ちる不浄と共に、周囲に鼻の付く臭気を放った。
「――ユーラッ!!」
構わず、再び名を叫ぶ。しかし、反応は一切と返ってこない。
代わりに脚が時折痙攣して、微かに生きている神経だけが無機質に呼応する。
すぐさま起き上がり、宙に垂れさがった両足にしがみ付く。
「さっさと手を離せッ!!このくそったれ野郎ッ!!」
意味が無いとは思っても、赤い手に頭突きを入れる。
かつてないほどの悪態をつき、全力で引っ張った。
すると驚くほど簡単に、赤く巨大な腕は掴んでいた物を手放し、
二人は高い場所から地面に叩き落とされる。
ゼントは咄嗟に受け身を取り、後から落ちて来たユーラの頭を守った。
「ユーラ!!ユーラ!!!」
頭の回転は無く、ただただ叫んだ。
だが変化はなく耳元で大声を出したところで、僅かな反応すらない。
見上げると未だ赤い腕は健在で、ゆっくりとだがこちらに近づいてくるのが見えた。
脅威が去ったわけでは無いようだ。むしろ、今度は自分が狙われるのではないかと身を震わせる。
天井と視界に広がる赤は紛れもなく死を超えた恐怖でしかない。
自殺を考えている人間でさえ、光景を見れば逃げ出すに決まっている。
逃げ出したいのは山々だが、ユーラをここに置いて行ったらどうなるか分からない。
天井のあれが何なのかも分からない状態で、危険すぎる行為だ。
考える暇もなく、縛られた両手でユーラの脇を持ち、踵を地面に引きずらせながら逃げ出すことしかできなかった。
しかし腕が簡単に逃がしてはくれないだろう。かと思いきや、あっさりと逃げられる。
惨めに逃げるしかないゼントを見つめるように腕を向けるが、追いかけてはこない。
部屋から出ると短い廊下、無意識に上を見上げるが普通の天井だった。
何事も無く外へ出ると、目の前は幸いにも見覚えがある街路。
町はずれの小高い丘の上で人目に付きにくい場所だが、協会までの道は分かる。
予定とは少し違うが、今はそんな事どうでもいい。
協会に助けを求めに行く。あの腕から逃れる道はそれしか残されていない。
外はもう暗く、夜闇の中、
重い物を運ぶ男と引きずられる少女、
何度も来た道を凝視し、その度に化け物が付いて来ていないことに心の底から安堵する。
何も考えず、助けを求めることだけを考えていた。
ユーラの生死すら確認することを忘れて……
◇◆◇◆
――四半刻ほど経っただろうか。
人もいない通りを抜け、やっとの思いで協会前にたどり着く。
疲労が足と手に蓄積し、意識を保つのが精いっぱいだった。
足も裸足になっていたために、爪に泥が入り生傷が至る所に出来ている。
入り口から漏れる灯りは、付近の人影を照らした。
考える余裕は無く、最後の力を振り絞って全力で声を張り上げた。
「カイロスッーー!!助けてくれッーー!!」
まだ協会に残っているかも分からない人物の名を喚き叫んだ。
ゼントの絶対的信頼がおける人物は彼だけだった。




