第九十二話『衝迫』
深々とした場所を抜け、ようやく道らしき道が見えて来た頃、
森というには木々がまばらで、ところどころから木漏れ日が降り注いでいる。
――その中でライラは……泣いていた。
目に埃が入ったわけでもないだろう。
紛れもない情緒の涙だった。宝石のような瞳からは絶え間なく水が流れ出ている。
それが今までにない事で、ゼントはただただ異質に思えた。
「おいっ、なんで泣くんだよ。今の会話に悲しくなる要素があったのか!?」
突然の涕泣にひどく慌てふためく。話に聞く、情緒不安定の現象だろうか。
問いかけても首を動かすことはなく、機械のように正面を見続けていた。
「気にしないで。自分でも何でこうなっているのか、……分からないだけだから」
ライラはたまに見せる悲しそうな表情すらしていない。
声からもおおよそ普段通りだと窺える。嘘は言っていないようだ。
しかしそこまで平常に涙が出るほうが、普通に泣く事よりも一層極まって感受させる。
困惑した様子で眺めるだけだったゼント。
だが、その言葉を聞いてなぜか見ていられなくなった。
いつの間にか拳を作り、静かに力強い口調で告げていた。
「……止まれ」
「だからゼントは気にしなくても――」
「止まれって言っているんだ!!」
いうことを聞かず歩き続けるので、激しく声を上げた。
こうでもしないと、彼女は壊れてでも無理に進み続けてしまう。
語気をかなり強めたおかげで、ようやく茫然とだが立ち止まってくれた。
「降ろせ」
「でも……」
「いいから降ろせ」
ゼントの声には怒りではなく、呆れでもなく、小さな哀れみが灯っていた。
瞳にも同じ色を帯びている。だからライラの顔を直接見ることはできない。
近くにあった太い木の根元に降ろした。そのまま木を背もたれ代わりに、脚を伸ばして座る。
「ごめんなさい……私、そんなつもりじゃ……」
「……しばらくここで休憩しよう……ほら、前が見えなくなるから涙くらい拭け」
もともと大粒だった涙が、更に大きなものへと変質していく。決して演技ではなかった。
意味を持たない謝罪には反応を示さず、懐からきれいなハンカチを手渡す。
それはユーラが家のどこからか見つけて、丁寧に洗ってくれたものだった。
何も言わず受け取って、仮面のような顔を伝う水を丁寧に丁寧に拭きとって取り除いてく。
ライラもゼントの顔を直接見ようとはしない。
後ろめたい事があるかのように、絶えず視線は左右に動いていた。
しかし視線が交わらないので、互いに気が付くことはない。
泣いている理由は分からなかった。
原因もきっかけも、人間が理解できるはずもない。
ただ、ゼントには推察できることもある。
なぜライラは自分自身で泣いているわけが説明できなかったのか。
彼女の感情はきっとまだ生まれて間もないのだ。
ほとんどの人に備わっているはずの感情が、本質的に理解できていないのだろう。
だから、何故自分が涙しているかもよく分かってない。
この少女はなんと不完全なのだろう。
竜を倒せるほどの実力の持ち主なのにもかかわらず、
奥底に眠る心は、露のように儚くて、泡のように淡く脆い。
自らの意志で感情を知らず、理性のままに生きてきたのか。
あるいは、環境から知る機会を与えられなかったのか。
まるで、生まれながらの奴隷だ。
ゼントは木々の間から流れてきた風を感じて、真上を見上げた。
ライラには伝わらないよう、静かに憂いの帯びるため息を吐く。
たまにはゆっくりとした時間が必要だと感じた。
昨日までは特に忙しすぎた。
それ以前は……時間は止まっていた。
「ゼント、もう止まって落ち着いたから行こう」
出現した穏やかな時間を楽しみ始めた途端だった。
その発言に驚き、声が聞こえる正面を見る。
涙は跡形もなく完全に消えていた。しかし違和感は残った。
そう、彼女の表情がやや不機嫌なものに変わっている。
「さすがに早過ぎないか?もう少しゆっくりした方が……」
「私は大丈夫だから!」
苛立って、投げやりとも思える言い草。
隠そうともしない、明らかな強がりだった。
その真面目な表情を見て、
つい、ゼントは鼻で笑ってしまった。
当然だが、ライラの顔はより不機嫌に染まっていく。
「なんで笑うの」
「いやーこれまた随分と、お前は相当に弱いんだなぁと思ってな」
「弱い?私が?そんなわけがない。もし弱かったら私はこの時まで生きられてない」
嘲笑するように言ってしまう。自分で言っておいて失言にも思えて一瞬戸惑った。
しかしライラは、弱いと言われたことがよほど応えたらしい。
むきになっている姿が無邪気な子供の様で、ある意味珍しくかわいらしかった。
だがこれは、今この場でしか言えないかもしれない。
勢い任せだったが、彼女の為にも吐き出してしまおうと思って言い切る。
「いいや、弱い。俺の言葉の意味が分からない時点で、幼稚な子どもと等しい」
「そこまで言うのなら、その意味を教えて。私に何が足りないのか教えてよ!」
「今のお前に必要なのは、言葉で与えられた知識じゃないな。体感による経験だ」
「経験……?」
「まあ生きてりゃ、そのうち嫌でも分かるようになる」
「…………」
黙ってゼントを睨め付けるような、悲しむような眼差しで見つめる。
おそらく、頭の中で不安と含羞と憤りとが入り混じっているのだろう。
答えを直接教えたところで、今のライラには理解などできまい。
また学ぶのと教わるのでは、物事の見方が変わる。
何より、人生がつまらなくなってしまう。
依頼に向かう途中で、この少女は人間らしくないと考えていたが今なら分かる。
彼女は純粋なだけで、誰よりも人間らしい。朝の考えは撤回しようと思った。
良いか悪いかはさておき、汚い考えしか脳に無い下賤な人間よりは、一線を画すほどにましなのだから。




