第5話
「それで、二人は結婚したの?」
そういう典子にゲクトは目を向けると泣きそうな表情をした。その時の気持ちを思い出したのだろう。
「俺はその時は奴には何も声がかけられなかった。とにかく、今は何も考えられない。許すとは言えないが、それでも、謝罪は受け入れるから、自分のしたいようにしろ、としか。どちらにせよ、自分には結婚を反対する理由はその時にはなかったわけだからな。結局は彼女が俺から逃げた理由もわからなかったわけだし」
「あなたが悪かったわけじゃないわ」
突然、ゲクトと典子の後ろから声をかけてきた者がいた。
二人は慌てて振り返る。
そこには二人の男女が立っていた。
「雪子…それに翔琉さん…」
そう、そこには話に出てきた二人が立っていたのだ。
「そうか…とうとう出会ってしまったな」
ゲクトがぽつりと言った。
彼らが立っている場所はとある寺の目前だった。
「今まで毎年ここにやってきていたが、君たちには会わないようにしていたんだが」
「いつの頃からか、私達より先にいつもお参りに来ている人がいると気づいていたのだけど、たぶん、あなたなんだろうなと思っていたわ。ありがとう、覚さん」
すると、彼女、雪子は典子に向き直るとニコッと笑った。
「あなたが典子さんね。私のことは…」
「さっき、初めて聞きました」
「そう。でも安心してね。今はもう私達は何でもないから」
そういう彼女を隣にいる男性は悲しそうな顔をして見つめていた。
そんな彼らには相変わらず白い雪が音もなく降り注ぐ。
それからしばらく後、彼らはとある墓石の前に来ていた。
一人一人が線香をあげて、最後に雪子が線香をあげ、墓を見上げる。
「本当はこんな大層な墓など用意する必要もなく、水子供養として永代供養をしてもらえばよかったんでしょうけど、私はそれでは自分を許せないと思ったわ」
雪子は淡々と言い続ける。
「確かに、翔琉さんに酷い事をされたこともショックだったけれど」
傍に立つ翔琉は跪く雪子の肩に手を添えていたが、その手が微かに震え、それを雪子が優しく握ったのを典子は見逃さなかった。
「それよりも、私は覚さんの大事な赤ちゃんをちゃんと産んであげられなかったんだ、翔琉さんとのことがなくても産むことはできなかったんだと知って、とても覚さんに顔向けなんかできないと思ったの。どちらにせよ、赤ちゃんは死んでしまう未来しかなかったわけだから」
「そんな…子宮外妊娠なんて、君のせいなんかじゃない。ただ運が悪かっただけで…」
「あの時はそういうふうに思ってしまったの!」
雪子はゲクトの言葉を遮る。
「あの時はね、もう、私という存在は覚さんを不幸にしてしまうとしか思えなかったの。だから、謝罪しにきた翔琉さんに、本当に悪いと思っているのなら、私をここから連れて行ってちょうだいと頼んだの」
雪子はゆっくりと立ち上がるとゲクトを振り返り、正面から彼と向き合った。
彼女の瞳はゆるぎなく、かつての最愛の人を見つめていた。
そして、その視線をゲクトもしっかりと受け止め、そらすことなく見つめた。
「………」
「………」
しばらくの間、二人は見つめ合った。
だが、そこにはすでに恋人同士の甘い空気はなく、ただ悲しみだけが存在しているようだった。二人の愛の結晶が失われたことによる悲しみが。
「あれから」
すると、雪子が口を開いた。
「あれから、翔琉さんと暮らし始め、最初は愛するあなたにもう会えないことがつらくてしかたなかった」
その時のことを思い出したのか、雪子の表情が微かに曇る。
「でも、つらいと思うこと自体が私には許されないことなんだとも思った。だから、私なんて存在しないほうがいいんだって思うようになった」
「目を離すとすぐに自殺しようとしていたんだ」
雪子の言葉を受けて翔琉が言った。
「オレはとにかく彼女を生かすことだけを考えるだけだった」
「彼は…翔琉さんは、献身的に私に尽くしてくれたわ。こんなに他人に大事にされたのは初めてだったかもしれない。もちろん、覚さんに大事にされてなかったわけじゃないけれど」
いや、そうだろうか、とゲクトは思う。
本当に自分は雪子を大事にしていただろうか。
本当に大事に思っていたなら、彼女がつらくて苦しい思いをするはずがなかった。
そして、きっと、たとえつらい思いをしたとしても、自分から離れてしまうこともなかったのではないかと。
「長い時間をかけて、私は翔琉さんの優しさに癒されていったのよ。それで、いつの日か気づいたの。たぶん、あのままあなたと一緒になったとしても、いずれは私たちは別れてしまったのではないかって」
「そんな…」
ゲクトが呟く。
「今ではあなたはあの時よりもっともっと有名人になっていて、あのまま私があなたの傍にいたとしたら、私はいろいろな心配事に悩まされていたと思うの。それは愛だけではどうにもならないくらいのもので。私にはそれに打ち勝つ心は持てなかった。だって、あなたの傍にいられるだけの強さがあるのだったら、あの時に私はあなたから逃げなかったはずだから。だから、逃げてしまったことが、私はあなたの隣に立つ資格はない証拠となる。つまり、私たちは互いに運命の相手ではなかったのよ」
そうかもしれない。
そうなんだろう。
そんなふうに雪子に言われ、ゲクトは妙に納得をしていた。
だがしかし、自分たちの間にあった愛情は間違いなく真実の愛だった。
それだけは否定したくないし、なかったことにはしたくない。
「もちろん、私もそう思うわ」
ゲクトの言葉にそう答えると、雪子は隣に立つ翔琉の手を握りながら言葉を続けた。
「だからこそ、私は今日、あなたにちゃんと向き合ってから報告したいと思ったの」
「え?」
「あれから何年も翔琉さんと暮らしてたけれど、彼は一度も私に触れることはなかったの」
隣に立つ翔琉はうつむいたままで、彼の表情は読み取れない。
「私は自分のことばかりで、彼がずっと苦しんでいたことを思いやれることができなかった」
「そんなっ、君は完全に被害者で、オレが思いやってやらなきゃいけなかったんだから…」
慌てて顔を上げる翔琉に首を振ってみせてから雪子は続けた。
「あなたは充分に罪を償ったわ。私はね、そんな翔琉さんの誠意に心を打たれ、そして、そんな彼にいつの頃からか惹かれていることに気づいたの」
翔琉は泣いていた。
その涙を見た典子は、なんてきれいな涙だろうと思った。
「それからは私から彼に迫ったのよ」
さっきまでまとっていたはずの悲しみを払しょくさせるように雪子は笑った。
それは本当に素敵な笑顔だった。
「でね、めでたく妊娠したというわけ」
「ええっ!」
ゲクトだけでなく、翔琉までが叫んだ。
どうやら聞かされてなかったらしい。
雪子は驚く翔琉に頷きかけると話を続けた。
「だからね、覚さんと私の赤ちゃんにもそれを報告して、それから覚さんともちゃんと話をしてから…」
雪子は翔琉に向き直ると言った。
「あなたにプロポーズしようと思ったのよ」
「雪子…」
「ここで覚さんに会えるとは思ってなかったので、ちょうどよかった」
雪子はゲクトにそう言ってから、再び翔琉に向き直る。
「翔琉さん、私と結婚してください」
翔琉は滂沱のごとく涙を流すだけで、答えられない。
だが、うんうんと頷く。
雪子はそんな彼を抱き締めた。
そうしてからゲクトに顔を向けた。
「覚さん、本当にごめんなさい。あの時はそうするしかなかったとはいえ逃げてしまった私だったわ。それについては本当に申し訳なかったと思っている。本当にごめんなさい」
ゲクトは複雑な気持ちを抱いていた。
彼女を愛していた気持ちは今でも忘れていない。と同時に、自分から逃げてしまった彼女に対して腹を立てた気持ちもあって、その気持ちも忘れていなかった。だから、今やっと彼女に会えて、もしかしたら愛してた気持ちや腹立たしい気持ちがぶり返すのではないかという怖れも抱いていたのだが。
しかし、そういった気持ちはまったく出てこないというわけではなかったが、それ以上に、彼女が別の男の子供を妊娠したと聞かされ、やはり心中は穏やかではいられなかった。
自分の子供は生まれてくることはできなかったのに、と。
それはどうしても持ってしまう正直な気持ちだった。
「でも、大丈夫?」
「え」
ゲクトの隣で大人しく話を聞いていた典子が口を開いた。
「子宮外妊娠したって言ってたよね。無事に出産できるか、心配じゃない?」
「ありがとう。でも大丈夫。今度はちゃんとそれを踏まえて医師と相談してるから」
少しの間、ゲクトは典子の存在を忘れていた。
そして、それを心で申し訳ないと思ってしまった。
ゲクトは典子の手を再び握った。
それから雪子に視線を向けると、しっかりとした口調で言った。
「雪子、今、幸せか?」
その問いに、雪子は満面の笑みで答えた。
「ええ、今まで生きてきた中で一番幸せよ。たぶん、たとえ、このお腹の子が無事に生まれてこなかったとしても、今度はちゃんと前を向いて翔琉さんと生きていけると思うの。だから、私の運命の人はこの人だったんだと思うわ」