第1話
「寒くなったね…」
典子が曇った空を見上げてぶるっと身震いをした。
隣に立っていたゲクトがそんな彼女の肩を抱いて自分に引き寄せた。
典子は恥ずかしそうに微笑むと彼に身体を預ける。
「なんかちょっと恥ずかしいな」
彼女がそう言うとゲクトはさらに身体を摺り寄せてきて、それだけでなく彼女の手も握りしめる。
「俺はこういう雪のちらつく冬は好きなんだ。こんなふうに好きな子と堂々と抱き合えるし、手も握れるから」
「あ、それ、前に雑誌でのインタビューに答えてたよね。どの季節が好きですかっていうの」
典子はクスクス笑った。
ゲクトは彼女の笑い声が好きだった。シャンプーの香りのするふわふわとした髪の毛も、ピアノを弾く細い指も、ぽっちゃりとしたほっぺも身体も、とにかく彼女のすべてが愛しいと思っていた。
彼は空を見上げる。
もう少し若い頃だったら、そんなふうに一人の女性を手放しで愛しいと思うこと自体も罪悪感を持ってしまったかもしれない。
今まで愛してきた女性すべてをその時その時に本気で愛し、心からその人を幸せにしたいと何度も思ってきたものだったが、結局は誰の事も現実にはこの手で幸せにすることはできなかった。そのことが、本来の自分自身であったなら、今のこの幸せを感じることを良しとしなかったことだろう。自分には幸せになる資格などない、というふうに。
(だが、最近ではそう思わなくなってきたように思う)
そう思うことに対して多少の罪悪感は今でも感じるが、典子と出会ったことによって、以前の身を切られるくらいの罪悪感から解放されたように感じるからだ。
ゲクトは隣で楽しそうに雪と戯れる自分の妻を見詰める。
彼女を見ていると「ああ、これでよかったんだ。これが正しいことだったんだ」という確信にも似た思いに囚われるのだ。
それはとても不思議な感覚で、まるで何かのお告げのように自分には感じられた。
そして、特に最近では記憶の底に意識して封印していたある出来事、ある人のことを思い出すことが多くなったような気がする。
(だからこそ、今日は典子を連れて行こうと思ったんだ)
ゲクトは再び空を見上げる。
(あの日もこんなふうに空から優しく雪は降り注いでいた)
「覚さん?」
典子は空を見上げたまま動かなくなった彼に気遣うように声をかける。
ゲクトは我に返って隣の愛する人を見詰めた。
それから握りしめたままの彼女の手を引き、静かに歩き出した。
「君には今までの俺の交友関係を全て話してきたが、ひとつだけまだ話していないことがあるんだ」
歩きながら彼は語る。少し声が震えているようだった。
「俺が芸能界に入ってすぐのことだった。こんなふうにちらつく雪の中でその人に出会ったんだよ。まるで雪の妖精のように儚い美しさを持った人だった……名前は雪子」