05・それは複雑でうるさくて、それでいて心地が良い
「何ここ」
一仕事を終えた私たちは、酒場の前に立っていた。アシュリー曰く、仕事を終えるたび、毎回こうやって仲間と過ごすのだとか。帰り道に聞こえてきた皆の発言から、どうやら何か企んでいる気配が濃厚だった。
「おいおい、チンチクリン。私を怪しんでるのか? これは命令だ、行くぞ」
その「命令」という言葉が耳に響いた瞬間、身体がまるで呪いに縛られたかのように逆らえなくなった。足は勝手に動き出し、酒場の席へと私を導いていく。
「それじゃあ! ゼロの入隊に――」
「「「「カンパーイ!」」」」
ジョッキがぶつかり合い、ビールの泡がこぼれ落ちる音が響く。人間って不思議だ。アシュリーとまともに会ったのは今日が初めてだというのに、こうしてテーブルを囲むだけで、まるで長年の仲間のように一瞬で打ち解けてしまう。知らない人同士が、笑い声と酒の香りで繋がっていく。
「んで? ゼロはなんであんな魔法が使えるんだ? しかも無詠唱でよぉ」
「バルボラ、お前ほんと聞いてねえな。その頭、筋肉しか詰まってねえのか? だから彼女もできねえんだよ!」
黒灰の魔女には男がいない。最近、戦争続きの不安から、人肌が恋しくなった魔女たちが「彼女」を作るようになったとか。精神科の医者がそんな分析をしていたのを、どこかで耳にしたことがある。
「なんだいクレア、あんたもう酔っ払ってんのか? それだから彼女ができねえんだよ!」
凸凹コンビとは、まさにこの二人だ。バルボラは巨体で岩のような筋肉の塊、大剣を手に持つ荒々しい女性だが、一方の隣に座るクレアは小柄で細身、レイピアを携えた優雅な姿が対照的だ。まるで絵本から飛び出したような二人だった。
「どうだチンチクリン、ウチの団は面白いだろ?」
面白いって何だろう。このアシュリーと話していると、胸の奥で何かが踊るような感覚がする。これが「楽しい」っていうものなのかな?
「この気持ちが、楽しいって言うの? アシュリー」
「そういうことだ。お前は人形なんかじゃない、立派な人間だよ」
彼女の大きな手が私の頭をわしゃわしゃと雑に撫でる。その感触が、嫌いじゃなかった。初めて人と触れ合ったその瞬間、胸が温かくなって――そうか、これが「嬉しい」なんだ。不思議と口角が上がり、照れくさくて頬が熱くなる。するとバルボラが「おいおい、笑った顔可愛いじゃねえか!」なんて言いながら、私の頭にゴツい手を乗せてきた。
「これが、嬉しい」
「そうそう、それが嬉しいだ」
心って忙しい。そして、うるさい。でもそのうるささは、嫌なものじゃない。あの白い部屋にいた人が、今の私を見たら何て言うだろう。
「アシュリーは、どうして私に話しかけてくれたの?」
「ん? そうだなぁ〜」
突然、彼女が私をぎゅっと抱きしめた。そして小さな額にそっとキスをして、「いつかこうしたかったから、かもな」と呟く。私はその行為の意味を理解できなかったけど、彼女の胸の中は温かくて心地よくて、ずっとここにいたいと思った。
「なんだ? チンチクリン、甘えたくなったか?」
「あ、いや、別に」
慌てて身を起こし、そっぽを向く。この気持ちは分かる――「恥ずかしい」だ。顔が熱くなって、ジョッキに映る自分の赤い顔を両手で隠した。
「乙女ね、ゼロさんって。もっとお堅い方かと思ってたわ」
クラーラが柔らかい声で笑う。彼女はこの団の華だと、バルボラとクレアが言っていた。一本に束ねられた長い三つ編みと、水のように透き通った声が印象的で、穏やかな雰囲気を漂わせている。この荒々しい人だらけの部隊には似合わない気もするけど、彼女がここにいる理由って何なんだろう。
「私は、別に……」
「ふふっ、素直じゃないのね。可愛い」
その時、店員がアシュリーに渡そうとした酒のジョッキが私の横を通り過ぎる。目では誤魔化せても、鼻は誤魔化せない――微かに漂う異臭に、私は反射的にそれを奪い取った。
「毒が入ってる」
アシュリーは泡立つ黄色いビールを不思議そうに見つめる。私は急いで周囲を見渡し、犯人を見つけ出した。瘦せこけた老婆のような女が、油の抜けたボサボサの髪を揺らしながらバタバタと逃げようとするのが見えたのだ。
「逃がすか」
瞬時に掌から蔓を放ち、女を逆さ吊りにする。酒場が一気にざわめきに包まれた。アシュリーたちは最初私を止めようとしたが、女を席に引きずり戻すと、アシュリーは驚いた顔で「よく分かったな」と杖を手に持った。
女の袖から覗く刺青は、有名なものだった。「ゴリアックファミリーのライス」。宙吊りのライスは私を見て、「なかなかやるじゃねえか。リコリスに似た気配を感じる」と不気味に笑う。死を恐れる様子は微塵もない。
「ダリナも任務を全うしたようで何よりだ」
「人違いだ」
「そうだ、ちびっ子もこちら側に来い。エルシリア派にいたら人間じゃなくなるぞ。人形になりたいのかい?」
私は静かに答える。
「もともと私は人間じゃない」
私の光が届かない瞳を見たライスは、「洗脳されてるな、可哀想に」と一瞬だけ真剣な表情を見せた。
「お前みたいな子供をたくさん見てきた。解いてくれたら自由をやるぞ。反エルシリア派は人を自由へ導く軍だ。どうだ? 共に世界を――」
その瞬間、魔力が限界を迎えた。維持していた魔法が乱れ、ライスを縛る蔓が突然締まり、骨が砕ける音と共に血が鼻や耳、口から溢れ出し、彼女を締め殺した。
「魔法を……使いすぎた」
「高い魔力がまだ身体に合ってないんだな。私を守ってくれてありがとう」
「別に。ここは危険になった。帰ろう」
◯
皆と別れ、私は部屋とは程遠いゴーレムたちの待つ場所へ戻った。酒場での笑顔や耳に残る声が頭を巡り、自然と口角が上がる。
「これが、嬉しい」
石の椅子に腰掛け、目を閉じる。今日はよく眠れそうだ。明日のことを考えると、少し胸が躍った。
―― だが、現実はそう甘くなかった ――
鉄の扉が激しく叩かれ、「ゼロ、ルイズだ」と声が響く。扉を開けると、ルイズ様が不機嫌そうな顔で私を睨み、人差し指で鼻を弾いた。
「やってくれたな。お前、ゴリアックファミリーのライスを殺しただろ?」
「はい」
「あれはエルシリア様が『アシュリーを殺すため』に私が選んだ駒だ。それをよくも邪魔してくれたな」
何故? 頭の中が疑問で埋め尽くされる。アシュリーが何故殺されなきゃいけないのか。悪いことなんて何もしていないのに。何故? 何故?
ルイズ様は無表情で短剣を渡し、「お前が始末しろ」と冷たく言い放つ。だが、周囲に誰もいないことを確認すると、彼女は私の目を見て、「私だって本当はアシュリーを失いたくない」と悔しそうに呟いた。
「何故アシュリーが殺されなきゃいけないんですか?」
「私も聞いたけど理解できなかった。神の模様が背中にあるとかで。馬鹿らしいよね」
「神……ですか」
言葉に詰まり、頭が混乱する。
「まぁそういうこと。しっかりやりなよ」
肩を叩き、「終わったら私の部屋に来な。今のお前は自分を見失ってるはずだから」と微笑む。その表情は初めて見るもので、少し驚いた。
「年長者がアドバイスしてあげるからさ」
魔法で姿を消し、私は走り出した。疑問も雑念も背負ったまま、何が正しいのか分からないまま。ただ与えられたことをこなす――それが今までの私だった。でも、アシュリーと出会ってから、心にノイズが鳴り始めた。感情を知ったせいだろうか。
アシュリーの部屋に忍び込む。寝巻姿の彼女は私に気づいていない。が、「……げて」と振り絞った微かな声に、彼女は振り向き、ナイフを握り締めたまま立ち尽くす私を、アシュリーは驚いた顔で見つめた。
「どうした?」
やるしかない。一瞬で間合いを詰め、刃が彼女の胸に――あと少しで届く。だが、その瞬間、心のノイズが爆発し、反射的に後退した。もう一人の私が腕や足を乗っ取り、「逃げて、私が殺す前に」と口が勝手に動く。
ナイフが自分の太ももに刺さり、激痛が走る。痛い、痛い。でもその痛みが、私の身体が自分のものだと教えてくれた。嬉しくて口角が上がるのに、目から水が溢れる。これは何だ? 視界が歪み、アシュリーの姿すら見えなくなる。
「感情なんて、知らなきゃよかった」
アシュリーはもう頭を撫でてくれないだろう。私は人形じゃない、ただの化け物だ。感情がなければ、もっと一緒にいられたのかな。
「アシュリー、もっと一緒にいたかった。貴女を殺す前に私を殺して」
後悔が胸を締め付ける。私は人間にはなれない。目を閉じ、彼女が私を殺してくれるのを待った。だが――
「馬鹿だな、ほんと」
アシュリーは私を抱きしめた。ノイズが静まり、身体が脱力して膝から崩れ落ちる。
「殺して。自分が怖い」
「大丈夫。お前は強い子だ。いつか自分を好きになれる日が来る。いろんな人と出会って、自分を見つけろ」
「この城から出られないよ」
「出られるさ。いつか籠から出してくれる人が現れる。その道は辛いけど、成長するよ。私が保証する」
「アシュリーと一緒にいたい」と言いかけた瞬間、彼女の人差し指が唇に触れ、言葉が止まる。
「私も一緒にいたかった。でも任務は終わりだ。行かなきゃ」
「何処に? 任務って何?」
「騙して悪かったな。私、本名は――」
―― ダリナ・バラーク ――
彼女は私を押しのけ、「生きなさい」と微笑んだ。そして――
「だめえぇぇぇぇぇぇぇぇえ!」
片手を自分の顔に付けると、魔法が解き放った。壁に血肉が飛び散る。彼女の緑の瞳が足元に転がった。アシュリーの首から上が消え、誰か分からないほどに変わり果てていた。
「嘘だ……」
理解できない自分に怒りが湧き、全身を飲み込む。
「どうして! 分からない自分が憎い」
感情が荒れ狂う。怖くてたまらず、私は、何度も何度も何度も、石のタイルに頭を打ち付けた。
《人工知能型破壊プログラムBM-124・ニュークリアスはオブジェクト01とのシンクロ率が100%になりました》
無機質な声が脳に響き、意識が途切れた。