04・ゴーレムの子(後編)
墨を垂らしたような黒く退屈な空が広がり、深い霧が視界を覆う中、第三師団は不審船に向かって急いでいた。箒の柄を握る手に汗がにじみ、冷たい風が頬を切りつける。上空ではオストラン海域の海面すら見えず、まるで雲の中に浮かんでいるような感覚に襲われた。霧の向こうからかすかに聞こえる波の音が、どこか不気味に響く。
「振り落とされるなよ、ゼロ」
「大丈夫」
ゼロはいつもの冷静な口調で答えたが、私にしがみつく小さな体はかすかに震えていた。その震えが私の腕に伝わり、彼女の冷たい指先が服をぎゅっと掴む感触が妙にリアルだった。高い所が苦手なのかもしれない。恐怖心があるなんて、人間らしい一面に驚きつつも、どこか愛おしく思えた。
「高い所、苦手か?」
「別に」
「でも震えてるじゃないか?」
「別に」
震えが止まらないのに、表情一つ変えずに落ち着いて答える姿に感心した。だが同時に、それが洗脳のせいだと考えると、胸が締め付けられるような哀れさがこみ上げる。思わず、抱きかかえる腕に力が入った。
その時だった。
「強い魔力反応! 無属性の魔法が来る。五つ……いや、八つだ! 1時、5時、6時、7時、8時、10時、12時、真上、真下。距離は100メートル、80メートル、60メートル……」
ゼロが淡々と報告した瞬間、皆が「まさか」と笑いものだった。だが、彼女が距離をカウントダウンし、45メートルに近づいた時、私たちにも魔力の気配がはっきりと感じられた。霧の中からぼんやりと光が浮かび上がり、四方八方から迫る魔力の波に、笑顔は一瞬で消え去った。光線が網目のような軌跡を描き、死の罠のように迫ってくる。私は必死に箒を翻し、光と光の隙間を縫うように避けた。仲間たちも敵の魔力を探りながら、懸命に動き回る。
「まだ来る!」
「チンチクリン、敵の位置は分かるか?」
「真下に多数の高魔力反応を確認。船があると思う」
その瞬間、ゼロが私の腕から滑り落ちた。「あ~れ~」と棒読みで呟きながら、彼女は霧の中へと落下していく。抱きつかれる感触からも分かっていたが、あの子は絶望的に握力が弱いのかもしれない。
「真下に船だ! バルボラ、クレア、クラーラは私と来い! インドラ、ネラは上空でフォローを頼む!」
箒の柄に体を預け、一気に急降下した。風が耳元で唸り、霧が薄れるにつれ、船の帆がぼんやりと姿を現す。やっとエルフの姿を確認できたが、その人数の多さに息を呑んだ。隣を飛ぶ三人も同じだった。不安が彼女らの顔に浮かび、目が合った瞬間、互いの緊張が伝わってくる。
魔法を魔法で打ち消し、一気に間合いを詰めた。私は片手に握った剣を振り抜き、エルフの胴を切り裂く。だが、数が多い分、敵の攻撃速度がこちらを圧倒していた。地上では避けるだけで精一杯。上空を見上げると、魔法が飛び交い、七色の光が夜空を切り裂いている。美しい光景のはずが、今はただ恐ろしいだけだった。
「まだエルフがこんな戦力を残していたのか……」
圧倒的だった。敵の半分を削っても、攻撃の手は緩まず、むしろ私たちは船の後端まで追い込まれていた。よく見ると、反エルシリア派の黒灰の魔女が混じっており、魔法を放つ速さが尋常ではないのも納得できた。
「って、納得してる場合じゃないな!」
「どうするんだアシュリー! 上空部隊の魔力が感じられなくなったぞ。アタイらもここまでか?」
「馬鹿言うなよバルボラ! 図体がデカい癖に弱音吐きやがって。何か、何か良い手があるはずだ!」
「何かって何だよ! クレア!」
「うるせえ! 何かは何かだ! なあ、アシュリー!」
「なあ」と言われても……エルフ相手なら楽勝だと完全に油断していた。同族が混じっているなんて予想もしていなかった。焦りが頭を支配し、私は杖を下げた。
その時だった。《船から離れて》というゼロの幼い声が、耳の奥で小さく響いた。直後、ゴゴゴッと不気味な音が船底から鳴り響き、根のような触手が木の床を突き破って生えてきた。触手はエルフたちの足首を絡め取り、次々と宙に持ち上げる。私たちは慌てて箒で飛び上がり回避したが、一瞬にして船は触手に覆い尽くされ、まるで幽霊船、いや、魔物そのもののような姿に変貌した。
そんな大技を繰り出したゼロは、海面からふわりと浮かび上がり、甲板に軽やかに着地していた。箒なしで飛べることに驚いたが、彼女の膨大な魔力量に、私たちは言葉を失った。敵に回した時の恐ろしさを考えれば、エルシリア様が彼女を味方につけた選択も頷ける。戦争慣れした魔術師のような落ち着いた佇まいは、子供とはかけ離れていた。
いつもの無表情。しかし、その顔にはどこか寂しげで、悲しげな影が差しているように見えた。霧が彼女の白い髪を揺らし、月光がその姿を儚く照らす。
「とりあえず降りよう。ここの隊長からバルトロの書の在りかを聞き出すぞ」
隊長を見つけ出すのに時間がかかるかと思ったが、意外にも降りた瞬間にエルフの男が自ら現れた。触手に吊るされながらも、気味悪い笑みを浮かべている。
「これが、お前があの方に返す恩の形か?」
「何のことだかさっぱりだ。お前はバルトロの研究報告書の在りかだけ話せばいい」
「妹が悲しむぞ?」
私は杖を突きつけたが、彼の笑みが崩れることはなかった。死を恐れていないような、どこか達観した表情だ。戦争でエルフが黒灰の魔女を押していたのは、強い愛国心から生まれたその精神力だろう。私たちの国では、皆が自分の明日だけを気にして母国なんてどうでもいいと思い、騎士になる者すら少ない。それどころか、エルフ族に加わる裏切り者まで後を絶たなかった。一方、エルフ族はこぞって騎士となり、多勢に無勢とはまさにこの状況だ。魔力も技術も高くても、数が少なければ勝敗は明白。計算ができない馬鹿でも分かる話だ。
「知らないな。私は幼い頃に売られた。妹なんかいない」
エルフの男は「冷たいな、ダリナ・バラーク」と呟き、視線をある階段に移した。
「そこにあるんだな?」
「あぁ、あるとも」
彼がニタリと笑った瞬間、私はゼロに指を鳴らして命じた。「殺せ」。ゼロは天に向かって掌を掲げ、その手を握り潰す。すると、辺りの敵が巨大な怪物に握り潰されたかのように血しぶきを上げ、一瞬で息絶えた。
「終わった」
ふと気づいた。彼女は杖を持たず、詠唱すらしなかった。今まで亜人族や魔族を見てきたが、こんなことは初めてだ。
「ま、どうでもいいか」
私はゼロの頭を撫でてやり、仲間たちと共に下の階へと急いだ。見た目が大きな船だけに階層も多いかと思ったが、まるで私たちを待っていたかのように、階段を降りた先には部屋が一つだけ。そこに、バルトロの研究報告書が無造作に置かれていた。
「人数の割に部屋が一つだけ……この船は囮だな」
「なら、この書は偽物か?」
「さあな。まぁ今回の任務はこれで終わりだ。今頃、他の小隊が本命に向かってくれているさ」
皆がブツブツ文句を言いながらも、私の後に続いて箒に跨った。霧が再び視界を覆い、船の残骸が静かに海に沈んでいく音が背後で響いていた。