41・偽命と黎明
「おやおや、眠り姫はやっと起きましたか?」
ソファに沈み込んでテレビのニュースを眺めていたパパが、くすっと笑いながら立ち上がった。重たい瞼を擦り、いつまで寝ていたのだろうと、壁にかけてある時計に目をやるなり、言葉よりも眉が瞬時に反応した。
「昼の12時近くまで寝るなんて、一香の悪い癖が移ったのかなぁ〜?」
パパの大きな手が私の頭を優しく撫でる。その温もりに、幸福感が胸に広がり、思わず「えへへ〜」と笑みがこぼれた。まだ夢の余韻に浸っているような、柔らかな心地だ。
「ママと一香お姉ちゃんは?」
キッチンに立つパパは、シリアルの箱をガサゴソと取り出しながら答える。
「ん〜? 二人とも陰陽師の仕事だよ。なんか大事な話し合いがあるんだってさ」
牛乳を注いで私の前にボウルを置いた。「パパはお姫様が目覚めるのを待っていました」添えられたその芝居がかった口調に、私は「ごくろうである」と、王様のような口調で返す。
パパが私の向かいに腰を下ろすと、目玉焼きとサラダが盛られた皿を渡してくれた。私はスプーンを手にシリアルをかき混ぜるが、パパの視線がジッと私を捉えていることに気づく。その目は確かに優しかった。けれど、どこか見えない壁が私たちの間に立ちはだかっているような、冷たい気配を感じた。まるで彼が私を警戒しているような――そんなオーラが漂う。
会話の無いテレビの音だけが流れるの空間に耐えきれず、話題を振ってみる。
「何か良いことでもあったの?」
パパの口元がわずかに緩む。
「朝の散歩中に、可愛い猫さんを見つけてね〜」
「良いなぁ、私も猫さん見たかった!」
嘘だ。けれど、彼の垂れた目は、まるで恵比寿の福々しい笑顔のようで、何を考えているのか掴めない。 私はテレビに目をやり、「あの料理、美味しそうだね」「また家族旅行行きたいね」「一香お姉ちゃん、あのアトラクション苦手だったよね」と次々に話題を振り、やっと朝ごはんを食べ終えようと、目玉焼きの一欠片を箸で摘んだ時だった――
「それ食べ終わったら、久しぶりにパパと稽古しないかい?」
パパの声が、リビングに低く響く。
狙いが分からない。ただ、どこかいつもと違う、鋭い響きがあった。私は箸を止める。稽古は嫌いじゃない。むしろ、木刀を握る感触はどこか心地よい。でも、この提案には何か裏がある気がした。
それでも、頷いた。
「うん、いいよ」
「よし! 決まりだな。パパ、張り切っちゃうぞ〜!」
パパはガッツポーズで立ち上がり、軽快な足取りでキッチンを後にする。
何気ない親子の日常。そう思いたかった。けれど、心のどこかで、心地の悪い不安が蠢いていた。
道場に足を踏み入れると、空気が一変した。日常的に嗅いでいた木の床に塗られたのワックスの匂いが今日は不思議と緊張を煽った。
「来たね。さあ始めよう」
パパが渡してきたのは、私がいつも使っている子供用の木刀ではなく、大人用の真剣だった。冷たく重い刃が、私の手の中でずしりと存在感を放つ。
「真剣? 私、持っちゃいけないんじゃないの?」
声がわずかに震える。パパの袴姿は、いつもの柔らかな父親の姿ではなく、陰陽師としての厳格な空気を纏っていた。彼の目から笑顔が消え、鋭い視線が私を貫く。「こうなるなんて……」それだけを呟き、構える。
「さあ、構えなさい」
刀の重さに息を呑む。なのに、なぜか恐怖は湧かない。
死ぬかもしれないというのに、心は奇妙なほど静かだった。
あの少女に会ったせいか。記憶が戻ったせいか。これまで組み手で感じたことのなかった相手の殺気や感情が、今は手に取るように分かる。
パパの心は。動揺していた。殺すことに。実の娘ではないとしても、共に過ごした時間――一緒に寝て、風呂に入り、笑い合った日々が、彼の心を縛っている。
私は鞘から刀を抜かず、腰に構えたまま一歩も動かない。
パパの手は、柄を握る指がわずかに震えていた。重苦しい沈黙が道場を満たす。畳の軋む音すら聞こえない。
私の視線はパパの瞳に固定され、隙を見せない。彼もまた、動かない――突然、ガシャン! と、真横の床が砕け、木の破片が舞い上がる。
陰の力だ。陽の力である札の攻撃とは異なり、物を破壊するこの力は、魑魅の力そのもの。陰陽師が戦闘で使うには弱すぎる力。それだけで、この勝負の結末が見え、私は心の中でホッと息を吐く。
「駄目だ」
パパの声が、掠れたように響く。彼は後ろに崩れるように座り込み、深いため息をついた。両手で顔を覆い、肩が小さく震える。真剣を娘に持たせた後悔と、覚悟の無さが、彼を苛んでいる。「良かった」私は静かに刀を置き、呟く。
「瑠奈――いや、斉藤 和美、少しここで待ってなさい。」
パパはスッと立ち上がり、道場を後にする。戻ってきた彼の手には、別の刀が握られていた。客間に飾られていた、あの刀。一香お姉ちゃんが一度だけ教えてくれた、特別な刀。
「妖刀五月雨」
「そう、五月雨。よく知ってるね。妖刀は魑魅が使っていた特別な刀で、陰の力を極めることでその力を発揮する。2003年までのレプリカチャイルドは、普通の子供に魑魅の核を埋め込んで造られた。だから――」
「覚醒した和美にも扱えるだろう」パパは刀を私の前に置く。漆塗りの鞘に触れると、まるで生き物のように脈打つような力が掌に流れ込む。刀身が艶やかに光り、まるで持ち主の帰還を喜ぶかのようだ。だけれど、その光景にパパの目は、深い悲しみに濡れていた。
「昔、一香が瑠奈を入江海浜公園で拾った時、陰陽師の矢吹会長に言われたんだ。『記憶が戻ったら始末しろ、それまでは好きにしていい』って。谷家はそれ以来、谷瑠奈として育ててきた。一緒にいる時間が長すぎた。僕にはもう、娘同然だ。殺せるはずがない」
パパは眼鏡を外し、袖でボロボロとこぼれる涙を拭う。声を絞り出す。
「逃げなさい」
その瞳の強い意志に、私はただ頷くことしかできなかった。妖刀を手に、立ち上がる。
「パパ、一緒に過ごせた時間は忘れない」
記憶が戻れば幸せになれると思っていた。なのに、なぜこんなにも胸が締め付けられるのか。
後悔と、生きることへの嫌悪が、背を向けた瞬間に涙となってこぼれ落ちた。
「何でこうなっちゃったんだろう……」
頰を伝う一筋の涙が、床にポトリと落ちる。
「レプリカチャイルドと、それに関わった人達は決して幸せになれない」
「そうだね」
肩越しに振り返り、最後にもう一度パパの顔を見る。彼もまた、私を目に焼き付けるように見つめていた。
「逃げなさい、なんて言っていたけど、遠回しに追い出されたんだろうな」
いつもの公園のブランコに腰掛け、背負った妖刀の重さに、背中が丸くなった。玩具ではない、本物の刀の存在感。素人目にもそれが分かるのだろう。通り過ぎる人々が二度見していた。
これからどうしよう。少女からもらった宝石を空にかざし、ため息をつく。
「いっそのこと、楽になって良いかもなぁ」
その時、遠くから不愛想な声が飛んできた。
「瑠奈、何してんだよ!」
「あ、健太君。どうしてここに?」
彼は少し頬を赤らめ、そっぽを向く。
「どうしてって、母さんのお使いの途中でたまたま通りかかっただけだ。一週間前から突然姿を見せなくなったから心配して毎日通ってたとか、そんなんじゃねえからな!」
全部言っちゃってるじゃん。心の中でクスッと笑う。健太君は、私が谷瑠奈という名前を貰った時からの友人だ。付き合いが長いから、魑魅の力など借りずとも、彼の気持ちは手に取るように分かる。嬉しさが胸に広がり、沈んでいた口角が少し上がった。
「そうだったね。ありがと」
健太君は隣のブランコにドサッと腰を下ろし、ギィと軋む音が響く。
「何か悩み事があるなら話してくれよな」
彼の視線が、背中の妖刀にチラリと向く。谷家が陰陽師の一族だと知っている彼は、何かを察したのか、それには触れず他愛ない話を始めた。
「そうだ、これやるよ」
「わ~! 私の好きなお菓子!」
小さなグミの箱を差し出され、笑顔が弾ける。健太君はそっぽを向き、「言っとくけど、近所のおばさんから貰ったんだからな」とぶっきらぼうに言う。
「健太君、素直じゃないなぁ」
「うっせえ」
このグミはただの好物じゃない。初めて健太君と会った時、彼がポケットから取り出して分けてくれた、あの味。
「初めて会った時を思い出すね!」
「黙って食えよ」
一人で食べる気になれず、彼を振り向かせるため、「あ!」と大きな声を上げる。
「どうし――」
振り向いた瞬間、グミを一粒彼の口に放り込む。案の定、健太君は顔を真っ赤にして下を向く。
「美味しいね!」
「手渡しでくれよ、バカ」
「えへへ~、だってこっち向いてくれないじゃん」
ブランコの鎖がギィギィと小さく鳴り、心地よい沈黙が二人を包む。楽しかった。嬉しかった。ずっとこうしていたかった。でも、ふと、あの少女のことを思い出す。私のために戦った誰かのことを。すると、胸が締め付けられ、気分がまた沈んだ。
「このまま時間が止まればいいのに」
健太君の呟きに、驚いて彼を見る。彼の瞳は、どこか寂しげで、もう私と会えないことを悟っているようだった。
「ホント。このまま時間が止まればいいのに」
遠くに現れた魑魅を、私は鋭く睨みつける。なぜこんな苦しみを味わわなければならないのか。湧き上がる怒りをその存在にぶつけるように、刀を背中から下ろし、ゆっくり立ち上がる。
「大丈夫。すぐ終わらせるから」
いつもなら、その禍々しい姿に脳が凍りつき、その苦悶の声に身体が震えた。なのに、今は違う。心が軽い。死にたいと思っているからか。私の瞳には光は消えて、健太君は私の横顔に青ざめて声が出なくなっている。
「あなたも苦しかったよね。分かるよ」
《タス……タ ケテ》
人ならざる姿の彼女は、涙も表情も失い、微かに残る言葉だけで助けを求める。私は思う。本当の魑魅は、人の心を失った陰陽師だと。
刀を鞘から抜き、肩の上で構える。
「今、楽にしてあげる」
刃が太陽光を冷たく反射する。それが合図だった。魑魅が大地を蹴り、四つの足で突進してくる。距離は一瞬で縮まり、大きく開いた口が私を丸吞みにしようとした――
「お休みなさい」
刹那、私は身を翻し、刃を突き立てる。頭から胴まで、真っ二つに切り裂く。黒い血が飛び散り、服にべっとりと付着するが、魑魅が消滅すると共に血も消えた。
後ろを振り返ると、健太君の姿はなく、ブランコだけが静かに揺れている。その光景に、自分が普通ではないことを突きつけられ、叫びが喉から溢れる。
「私だって普通になりたかったよ! 普通って何なの! 分からないんだよおぉぉぉ!」
―― 早く死にたい ――
その呟きと同時に、少女からもらった宝石がポケットで鋭い光を放ち、視界を白く染め上げる。次の瞬間、立っている場所が変わっていた。まるで生ごみの入った袋に顔を埋めているような感覚に鼻を摘む。
「クサッ」
薄暗い空間。古びたデパートだろうか。非常口の緑色の光が、埃っぽい空気の中でぼんやりと浮かぶ。
近くのフロアマップに目をやると、背後からさらに強烈な臭いが漂ってきた。反射的に振り向くと、ボロ雑巾のような服をまとった、ヒョロっと背の高い老人が立っていた。
「見ない顔だね」
「ど、どうも。飛ばされちゃって、わたしも困ってるんです」
どうしたのか、何かを思い出したように老人は私の細い手首を掴み、「来なさい」と早足で歩き出す。
薄暗い廊下を進むにつれ、臭いの原因が分かった。段ボールを敷いたホームレスたちが、壁に寄りかかり、うずくまっている。
この先で待っている人物が想像できず、不信感に駆られて背負う刀にそっと手を掛けた。
「嬢ちゃん、すごい臭いだろ? このデパートは地下一階から屋上まで、ホームレスが住み着いてるんだ。ハッハッハ!」
笑えない。老人は慣れているのだろうが、私は正直クラクラしていた。やがて、目的のフロアにたどり着き、彼の足取りが遅くなる。「あの子だ。お嬢ちゃんと同じ年かな? 可哀そうに、まだ中学生にもなってないだろうにホームレスさ。来たときは言葉も分からなかった。複雑な家庭の事情だろうな」
地下の闇は深く、ほとんど何も見えない。暗さに目が慣れた時、息を呑んだ。
そこにいたのは、あの夜、ベランダで出会った少女だった。彼女は私の存在に気づいていたかのように、悪戯っぽく微笑む。「やっと暗さに慣れた?」と。
「ここに来たってことは、覚悟、決めたんだね。」
宝石は、戦う覚悟が決まると彼女の元に転移させるものだった。でも、私の覚悟は違う。
「私はこの世で苦しんでいるレプリカチャイルドの被害者たち、そして今も成仏できないリリィちゃんを極楽浄土へ送るだけ。その後は私も死ぬ。戦うのとは違う」
「それでもいい。一緒に長い旅をしよう」
少女が歩み寄り、右手を差し出す。薄暗い光の中で、彼女の瞳がキラリと光った。
「改めて初めまして。私の名前は――」
―― ヨーグ ――