38・閉幕
「やっぱり慣れないな、別れるってのは」
夕暮れのオレンジがカーテンの隙間から漏れる瑠奈の部屋を、電柱の上からリリィは眺めていた。時間は無情にも過ぎ、迷い続けた結果、夜の帳が下る。冷たい夜風が頬を撫でて、街灯の淡い光がアスファルトに揺れ、遠くで犬の遠吠えが響く。リリィの心は、会いたいという衝動と、別れを決意した覚悟の間で揺れ動いていた。
「そろそろ行くか」
電柱の上で立ち上がるリリィの足元が、軋む音を立てた。肩越しに振り返ると、瑠奈の部屋の窓から漏れる温かな光が、胸を締め付ける。もう一度だけ、彼女の笑顔をこの目に焼き付けたい――その思いが、頭から離れない。だが、ふいに下から声が響いた。
「そこにいるのはリリィちゃん?」
一香の声だった。明るく、しかしどこか探るような響き。リリィの心臓が跳ね、瑠奈を呼び出そうとする衝動を抑えきれず、握り潰した拳が震えた。背を向けて逃げようとした瞬間、「帰っちゃうの? もしかして怒ってる?」と一香の声で顔を出した瑠奈の悲しげなその声色に、リリィの足は止まり、堪えきれず電柱から飛び降りた。地面に着地する鈍い音が、夜の静寂を裂いた。
一香はリリィの顔を見て、すべてを悟ったように静かに頷き、部屋から出て行った。彼女の足音が遠ざかる中、リリィは瑠奈と二人きりになった。ベッドに腰掛ける二人。沈黙が重く、息苦しい。瑠奈の部屋は、彼女の匂い――柔らかい花のようなルームフレグランスと、かすかに甘いお菓子の香り――で満ちていた。リリィは何か言わねばと焦りながら、視線を彷徨わせ、ようやく口を開いた。
「それは新しい人形?」
瑠奈の顔がパッと明るくなる。「そう! かわいいでしょ!」と、抱えていた縫いぐるみをリリィの膝に乗せた。ふわっとした感触と、瑠奈の笑顔が、リリィの心を温かく、しかし同時に鋭く刺した。「そうだね」と呟きながら、縫いぐるみの柔らかな頭を撫でる指先が震えた。後悔が胸を締め付ける。会わなければよかった。もう少し、もう少しだけそばにいたい――その思いが、涙腺を熱くした。
「大切な人の為に戦おうとするのは……良い事だ。でも私を見てみろ」
リリィは縫いぐるみに顔を埋め、溢れる涙を隠した。ボロボロと流れ落ちる雫が、縫いぐるみの布に染み込む。突然の涙に、瑠奈は目を丸くし、慌てふためく。「リリィ、どうしたの!?」と声を震わせるが、リリィの心は後悔の波に飲まれていた。
「もっと一緒にいたかった」
言葉が、喉から絞り出される。もう大丈夫だと自分を騙していた。覚悟したつもりだった。でも、瑠奈の温もりを前にして、偽りの鎧は脆くも崩れた。「一緒に遊びたかった。いっぱい、やりたい事、食べたい物、沢山あったんだ――」
「どういう事?」
瑠奈の困惑した声が、部屋に響く。リリィは説明しようとした――肉体はそのままに、魂だけが入れ替わること、リコリスとの契約を。でも、言葉は詰まり、代わりに瑠奈を強く抱きしめた。彼女の細い肩、温かい体温、微かに揺れる髪の感触が、リリィの心をさらに締め付けた。
「けれど、約束は絶対果たすから! だから、私のお願いも聞いて」
瑠奈が「ふえ? 何?」と目を瞬かせる中、リリィは声を震わせながら続けた。「戦うな、力を持つな、恨むな、笑顔で優しい子のままでいてね。笑顔は人の心を動かす柔らかい武器、それを覚えていてね――」
言葉が呪いのように響く。リリィは自分のわがままを、リコリスへの裏切りを、死への恐怖を嫌悪した。リコリスだって、きっと子供らしい時間を過ごしたかったはずなのに。自分だけがこんな思いに囚われるなんて、許せなかった。
「何処か行っちゃうの?」
瑠奈の小さな声が、胸に突き刺さる。その瞬間、夜空を駆ける閃光が弾け、窓から差し込んだ光がリリィを照らした。ガラスがキラリと反射し、部屋に一瞬の輝きをもたらす。
「時間か……」
「ねえ、何処に行くの?」
「ほんと、何処に行くんだろうね。私は。けど人を殺しすぎたから、きっと天国にはいけないだろう」
リリィは寂しげに笑う、瑠奈は言葉を失い、ただ彼女の儚い横顔を見つめた。リリィはベッドから立ち上がり、窓際に立つ。カーテンが風に揺れ、夜の冷気が肌を刺す。「短い間だったけれど、普通の女の子でいれてよかった。ありがとう瑠奈――」
―― 別の私に会っても仲良くしてね ――
その言葉を残し、瑠奈の返事を待たず、リリィは窓から飛び出した。強風が下から突き上げ、彼女の髪を激しく揺らし、微かに残る彼女の匂い――清潔なシャンプーと、ほのかな汗の香り――が瑠奈の鼻をくすぐった。瑠奈は窓から顔を出し、掴み損ねたその手をじっと見つめた。
◯
リリィを乗せた新は、箒の上で彼女のすすり泣きを背中で感じながら、静かに月を見上げた。夜空は雲一つなく、月光が海面に銀の道を描いていた。風が箒の柄を揺らし、二人を包む静寂を破るのは、リリィの微かな嗚咽だけだった。
自宅の前に着くと、リリィはようやく口を開いた。
「やっぱりルイズだね、箒の運転が上手い」
降りる彼女に、新は悲しげな目で言った。「リコリスはああ言ってたけれど、本当に良いのかい? 君はリリィだ、やっと和解できたお母さんと別れて良いの? しかもあそこに行ったらもう会えないのに」
リリィは一瞬目を伏せ、インターホンを鳴らした。
「いずれまた会える、渡した物をちゃんと使えば」
ドアが激しく開くや否や、フランカが飛び出してきた。
「リリィ! 良かった、帰ってきたのね!」
彼女の目は赤く、涙で濡れていた。リリィを抱きしめる腕に力がこもり、彼女の温もりがリリィの胸を締め付けた。抱きしめ返したい衝動を抑え、リリィは冷たく言った。
「お母さん。話があります」
フランカは新を見て「嘘よ」と呟き、抱く腕にさらに力を込めた。「お母さん!」「分かってるわよ!」二人の叫びが夜空にこだまする。やがて沈黙が三人を包み、フランカはリリィの肩に顔を埋め、娘の香りを胸に刻んだ。リリィもゆっくりと腕を回し、母の頭に自分の頭をこすりつけた。忘れないように。母親がいたことを。
フランカは家に戻り、リュックを背負って出てきた。いつもならヒールを履く彼女が、この時だけはランニングシューズだった。
手を差し伸べて「さあ、案内して」と微笑む彼女に「困ってなんか……ないよ」とその手をぎゅっと握り歩き出す。
向かう場所は、天界に繋がる扉だった。まだこの世界が試作品だった時に設けられて神が消し忘れていたのをリコリスは覚えていて、この世界に来た時、実際に足を運んでいたのをリリィは断片的に記憶に残っていた。向かっている時、フランカはハールスであった出来事を語った。リリィもその時自分が何をしていたのか話しては、懐かしむ様に目を細めて、笑う。
笑顔が溢れる二つの顔を見る度に、新は言葉が少なくなり、残酷すぎる現実に目に涙を浮かべた。この先待っているのは苦痛なのだ、今笑い合ってるのは、親子でいられる今を胸に刻む為だ。
1秒も話が途切れることはなかった。時よりフランカは、リリィの頭を撫でた。その度に撫でられた彼女は、もっと撫でろと言わんばかりに手のひらに頭を押しつけた。
入江海浜公園に着くと、潮の香りが三人を包んだ。波の音が穏やかに響き、遠くで海鳥が鳴く。リリィは袖裏から魔法の杖を引き抜き、視線を鋭くした。そこにはヤナガがいた。
虹色に発光する輪の横に座り、余裕の笑みを浮かべる。「俺の事は気にすんな」と一歩下がる彼に、リリィはフランカに視線を向けて端的に言った。
「天界に戻ったら新さんについて行って。リコリスが新さんにいろいろ伝えてるからスムーズに事が進むはず」
「分かったわ――」
フランカは膝をつき目線を合わせる。分かっていたのだ、彼女が伝えたいことはそんなことじゃないことを。白くなる程に強く握られた震える手がそれを語っていた。
「他に伝えたいことがあるんじゃない?」
リリィの顔を両手で優しく包んで視線を合わせる。やがて氷が解けるように握られた手は解けて、ツーと頬に一筋流れた。だが、リリィの瞳にはもう後悔も恐怖もなく、覚悟の光が射していた。
ゆっくりと立ち上がり、別れのあいさつの代わりにフランカは頭を撫でて背を向けた。リリィは彼女の姿が消えるまで瞬きをせず、その目に焼き付けるのだった。風が吹けば倒れちゃいそうな程の自信しかない、けっして大きくはないが、それでも大好きだった母親の姿を。
「ありがとう、ヤナガ。時間をくれて」
杖を握りなおして構えるリリィ。それにニコリと微笑み「俺も人間上がりの神だ。親との別れは後悔しちゃいけねえ」そうゆっくりと立ち上がる。
「こんなに楽しい気持ちで杖を握ったのは初めてだ」
海鳥が遠くの方から鳴き、風が吹いて砂を舞い上がる、その刹那――
「ほお、避けるか」
先に動いたのはヤナガだった。ひらりと避けられ、感心したその気持ちのゆるみの一瞬で、リリィの姿を見失う。
「エスプロ・フィアンマ」
頭上、どう移動したら一瞬でそこまで移動できたのか。ヤナガは神である自分を驚かせた少女に「おもしれーじゃん」と口角を上げて、禍々しく黒い炎に包まれた巨大な槍に手のひらを伸ばす。
「コール、レコード090」
あっけなく槍は消えた。が、リリィにはそんなの想定内、彼女の存在に気づいた瞬間ヤナガは海に飛ばされていた。
「ラ・ツェアシュテール」
畳みかけるように放つ魔法、以前イリスが山を半分消した破壊魔法。海面がカッと白い光に包まれる。と、塔のような水柱が突きあげた――
が。人類では最強でも、所詮は神が創った魔法にすぎなかった。
「人類最強の魔法は小石程度の威力ってところだな」
白い水柱から姿を現すヤナガに「さすが神」とリリィは足を肩幅に広げる。一呼吸すると杖を胸に刺した。額の前で両手でひし形を創り、ゆっくりと唱えた。
「心の蔵が今開かれた、死神、破壊神、悪霊、誰でもいい、欲しければくれてやる。だが契約だ。数分、いや、瞬き程度の時でも良い、私に力を、眼前の敵を葬る力を私に、宿したまへ」
胸からドクドクと滴り落ちる血はその瞬舞い上がり間宙に浮いた、リリィはニッと笑い、隣に立つリコリスに「ありがとう、いろいろと」そう言い残した。
宙に舞った血は、次々と猛火に変わりリリィを呑み込む。とその時、肉体を求めてこの世を彷徨っていた悪霊や、死神が全方向から集まってくる。それは黒い風の様でヤナガは「マジか」と言葉を漏らした。
「その器に触れるな、雑魚どもが」
リコリスが指を鳴らした瞬間、黒い風は一瞬にして消え、「その契約、私が受け入れよう」と猛火の中に闊歩して入って行った。
「でもまぁ、これにて俺の役割も終わりか」
それが彼の最後の言葉だった。見えない鎌で駆られた様に顔は跳ね海面に落ちた。痛みはなく、天地が一回転するその風景さえも、ヤナガは覚えていた。
「いろいろ……か――」
―― まさか全てを知っていてこの魔法を使ったのか?だとしたら肝が座ってるな ――
猛火から姿を現した少女はチリチリと燃える服を手ではたき消して、実に不満そうな顔で手の甲に刻まれた禍々しいオーラを放つ刻印を眺めた。
「でもまぁ、長いプロローグだった。待たせたなBM-124ブリスマルシェ・ニュークリアス、BM-125ゾンスト・シノン」
「ほんとだよ、リコリス・シノン」
「そうそう、私。ようやく私達一つになれるね」
その日、三つのプログラムが一つになり肉体を手に入れた――
「神になると眼が赤くなるのか、緑色が良かったな~」
―― 神、ブリスマルシェ・シノンの誕生だ ――




