36・新入生
無遠慮に激しく叩かれるドアの音に急かされ、リリィは小走りで向かう。
「はいはーい」
しかしドアを開けるが、そこには誰も居らず、ただ風が吹き抜けて玄関の木の葉を舞い上げているだけで、リリィが首を小さく傾げる。その時、「一香だよ」と一香の顔が目の前に現れる。何かで全身を覆っているのか、空気に溶け込むように透明になっていま。こういう魔具はハールスにもあったから、一瞬ギョッとするも、リリィはそれ以上の反応もなく、それより彼女の面持ちに悪い予感が過る。
「一香さん何をされているんです――」
一香の横に動く黒い瞳が、予感は確信になり。急いで家に上がらせた。
「誰かに追われていたんですか?」
「そう、だからこの透明風呂敷で身を潜めて逃げて来たの、それよりも瑠奈を助けて」
リリィの目が、背負われた瑠奈に釘付けになる。少女の顔は青白く、服は血でべっとりと黒ずんでいる。「何があったんですか?」 声は落ち着いているつもりだったが、眉間に刻まれた深い皺と、胃の底に広がる冷たい感覚が、彼女の動揺を隠せなかった。
「この子が札を持って入ってはいけない空域に入っちゃったのよ」
リリィはタオルを手に、瑠奈の傷口にそっと押し当てる。血の匂いが鼻をつき、鉄の生臭さが喉に絡みつく。魔法を紡ぎながら傷を癒す手は機械的だが、彼女の全身から放たれる魔力はまるで嵐の前触れのようだった。怒りと殺意が混じり合い、空気がビリビリと震える。一香の言葉が次第に途切れ、彼女の目には恐怖が浮かんでいた。
「札を持って侵入?」 リリィの声は氷のように冷たく、舌打ちが小さく響く。「何でそんな馬鹿なことをしたの?」
一香はハッとしたようにポケットを探り、封筒を取り出した。
「これ、瑠奈が持ってた写真。多摩川探偵事務所って書いてあるけど…」
「多摩川探偵事務所?」
封筒を受け取り、開ける。指先に触れる紙の感触が、なぜか異様に冷たく感じられた。中から出てきた写真の束を手に取った瞬間、脳裏に知らない記憶がチラつき、リリィの胸に嫌悪感が広がる。まるで自分の身体が、知らない間に勝手に動いていたような感覚。ゾッとする思いに、彼女は一瞬手を止めた。
「そこはレプリカチャイルドの研究所なんだ、Aランク以上の陰陽師が入れる施設、別名"ノアの方舟"とも呼ばれてて。ほら、汽船の写真を瑠奈が持ってたじゃん?写真その一部の写真なんだ」
「これって……」
次の写真をめくった瞬間に息が止まった。
円柱型のカプセルに子供が緑の液の中に入っていたのだ。背中や後頭部や口や肛門に太いチューブが突き刺さっている。昔の自分を見ているようで、吐き気が喉元まで這い上がり口を押さえた。
「これが陰陽師の真実、翠さんが言っていたのはそういう事だったのか」
写真に視線を戻した瞬間、彼女の目がある一点に引き寄せられる。カプセルのガラスに映り込んだ影。写真を撮った人物の姿が、そこにあった。
「何で私が」
リリィの呟きに、一香の眉がピクリと動く。
「やっぱり、リリィちゃんだったんだな」
「いや、でも私は何も知らないんです。写真を見た時、変な感覚がして……でもこんなの撮った記憶がない」
一香が静かに言う。「もしかして、二重人格じゃない? 何か心当たりは?」
その言葉に、リリィの脳裏に蘭夢捻の記憶が蘇る。ハッと息を呑み、点と点が線で繋がる。蘭夢捻――能力者が服用すると、使用者から能力を分裂させ、その代わり快楽を与える幻覚剤。服用したあの時、リコリスが突然現れた。そして、神の力が使えなくなった。あの覚えのない記憶は、神の力を持つリコリスだったのだ。
リリィはゆっくりと振り返る。背後の窓辺に、風に揺れるカーテンの影が揺らめく。そこに、彼女がいた。
「よっ!久しぶり」
リコリスだ。リリィには彼女の姿が見えていた。
リコリスは相変わらず呑気な様子だった。リリィの目が見開かれ、心臓がドクンと跳ねる。一香が訝しげに尋ねる。
「何が見えてるの?」
言おうか言うまいか迷っていると、リコリスは、「今は無視して良いよ、後でゆっくり話そう」と人差し指を唇につけてウインクをし、窓からの風に乗って姿を消した。
「いえ、なんでも……一香さん、お写真ありがとうございます。私が帰ってくるまではこの家にいてください、この家は能力者のオーラを隠す結界があるので安全ですから」
「リリィちゃんは何処に行くんだ?」
「行かなければいけない場所へ向かいます」
リリィの声は冷静で静かだった。が、白く握られた拳が心情を語り、一香には彼女が何をしでかすか心配で仕方なく、低く忠告する。
「リリィちゃん、頭が良いのは分かってる。でも、怒りに任せた行動は後悔しか生まないよ」
リリィは肩越しに一香を見やり、薄く微笑んだ。その微笑みが一香心配で、胸の前で手を握る
「私は今まで以上に冷静です。瑠奈の傷は塞ぎました。時期に起きますので」
それだけ言い残し、リビングを後にする。ドアを閉める音が、静かな家に重く響いた。
「行くんだな」
家を出るとリコリスが待っていた、どうやら思考が読めるらしい。リリィは「お母さんには悪いけど、もう寝てられない」そう隣に立った。
「長い夢だったな」
「待たせたね、リコリス」
「本当にな、心配してたよ、ワタシもイレナも」
リリィは肺いっぱいに空気を吸い、吐くと空を見上げる。覚悟を決めた瞳にリコリスは一歩後ろに下がった。
「好きにすれば良い、ワタシはいつまでもすぐ側に居る」
「きっと私はお母さんを天へ送る時に死ぬ、その時にこの身体を頼むよ」
「言われなくてもそうするさ」
「じゃあ行ってくる、私を殺す準備をする為に」
しっかりとした足取りで歩き出すリリィにリコリスは「最後の旅を楽しめ」そう微笑んだ
◯
時刻は同時刻、リリィが家を出たその一方で、フランカと綾と新菜は入江市付近の海に居た。暗くそこの見えない退屈な海面に綾はため息を一つする。
「朝からずーと、プカプカプカプカ」
「一香も血相変えて居なくなっちゃうし、本当にこの海域が半壊事件と関係あるのかしらね」
ダイバースーツを着た新菜と綾とフランカは入江市付近の海域で陰陽師を大量に殺したというニュースが入り。一週間後の落ち着いた今、調査の任務を受けたのだった。
その人物は杖を持っていたという事で、異世界人ではと新菜は推測し、再びフランカに来てもらったが、当の本人はそれどころでなく、船酔いで顔を青くしていた。
「この世界の船ってこんなに揺れるのね……ウップ」
「箒の方が揺れないですか?私はあっちの方が良く酔いましたよ」
「箒は魔力で揺れを抑えることが出来るので……」
「あーあ、一旦陸に上がりましょうか」
弱々しく頷くフランカに、優しく背中をさする綾は、船を陸へ走らせた。と、その瞬間だった微かに魔力を感じ「止めて」とフランカは声を絞り出す。
「この海の底にから魔力を感じます」
「なら潜りますか」
制服の上着を脱いで、酸素タンクが入った重いバックパックを背負うとインカムを耳にはめて三人は海面に身を投げる。緑色に濁る海は下へ潜るにつれて暗くなっていき、フルフェイス型ヘルメットについているライトの光を頼りに進んでいった。
「流石に一週間後となると、プロの陰陽師達がほとんど綺麗に持って行ってるわね、沈没船の欠片1つ無い」
「こっちです、この先」
先の見えない冷たい暗闇の中、進むごとに魔力は強くなり、やがて照らす中に一本の杖が現れる。新菜と綾は一瞬ただの枝だと思い視線を外そうとしたが、枝にしては、彫り込まれた独特な模様にまさかと足を止めた。
「フランカさん、これって杖じゃないですか?」
「杖って魔法の杖?」
「そうよ、異世界で使われていたの。まさかあの事件と一週間前の事件はこの杖の持ち主は関係あるかも……どうでしょうフランカさん」
フランカもそう思っていた。が、その杖の持ち主は敵に回したくなかったのだった。
魔法の杖とは、その人の魔力に合わせて制作されるが故に、量産は出来ないのだ。オストラン帝国は、杖の柄で誰か記録もされていたから、フランカは背筋が凍りつき、真っ直ぐ刺さり鎮座するその姿に違和感を感じた。まさか、何かの罠なんじゃないか。
「綾さんと新菜さんは海面へ上がっていてください、水中じゃ札も使えないでしょうし」
「まさか何かあるんですの?」
「あるかもしれません、あの杖の持ち主を知っているので……あの人ならやりかねない。と」
その表情からは言葉以上に語られていて、二人は「出来るだけ護衛します!」と言い残し上がって行った。
「光も届かないのに出来るのかしらね」
下に何か仕込まれていないか、杖の周りを慎重掘ってゆく。と――
「やっぱりあった」
杖が突き刺さったアタッシュケースが姿を現した。
ケースの表面に描かれた模様にフランカは眉を動かした。
「人神武装主義の飯田組、なるほど、杖が鍵がわりになっていて抜くとこのケースが開く構造なのね。でもこのケースの中身は魑魅かしら……妖力が感じられるわ」
とりあえず海面に上がり、それを見せる事にした。
「面白い構造ね、しかもケースの中には絶対魑魅がいますわ。飯田組……ねえ」
何か知っているんだろ?と言いたげな視線に、新菜は「私はこんなのがあるなんて知らないわよ!」と慌てた様子で言う。
「あらあら、慌てちゃって。疑ってなんかないでしてよ?」
「うっさいなぁ……でもこの頃、武者の魑魅が何体も出現する報告があがってるから、もしこの中にいるのが武者だとしたら、飯田組は悪い意味で凄い発明をしたと言っても過言ではないわ」
「陰陽術が使えない一般人が、Aランクの魑魅を飼い慣らすか。それとも量産と言った方がいいのか……どちらにしても陰陽師が危険ですわね」
「早くアカデミーに戻って報告しましょう」
綾と新菜が頷くその時だった。真上からカラスの鳴き声がするやいなや、船の船頭に着地する。
「イブキアキラガヨンデル、アカデミーニモドレ」
「なら、今日はここまでですね、私はこれで」
そう箒を出した時だった。カラスの「イセカイジン、オマエモドウコウ」と言い放つ。綾と新菜は何故か聞いても「イブキアキラガスベテハナス」の一点縛りで埒が明かず三人は陰陽師アカデミーへ。
「よし、フランカさんも一緒だな」
「私達は良いけれど、何故フランカさんも?」
「後で分かる」
綾と新菜の視線にフランカも肩をすくめ、とりあえず伊吹に勧められるがままにソファーに腰を下ろした。
あいも変わらず汚い伊吹の部屋に、初めて来たフランカは床に広がる書類や本の山に言葉を失い、ソファーに座るのを少し躊躇した。
「今朝一香が任務中に居なくなったんじゃないか?」
「確かに突然……そういえば首からかけたネックレスが光ってたわ、それを見て悪い予感がするって……今回の話と何か話が関係あるの?」
新菜の言葉に「ですわね、どうかされまして?」と綾は首を傾げる。
二人の言葉を聞いた伊吹は、無言で二人の目をジッと見た。まるで何かを疑うような、瞳の奥に潜む真実を探る視線に、綾も新菜も一香に関連した事。しかも、悪い報告だと言う事を確信して息を呑む。
「何も知らないようだな、先生は安心したぞ。なら次だ、新菜、陰陽師の航空規則を言ってみろ」
「え?あーと……一つ、アカデミー生、ランクC以下の陰陽師は、地面から最低100メートル最高300メートルまでの高度で飛ぶべし。
二つ、ランクBの陰陽師は、地面から最低100メートル、最高550メートルまでの高度で飛ぶべし、ただしやむを得ない場合、または申請で1000メートルまで飛んでも宜しい。ただし速度は出来るだけ落とす事
三つ、ランクAからSは、最低50メートルから最高12000メートルまでの高度で飛ぶべし
四つ、東町市から八田市の高度500メートル以上の空域ではランクA以下の陰陽師は札を身に付けてはいけない。例外は認めない
五つ、民間旅客機、軍用機を優先して飛行するべし――」
伊吹はもう良いと言葉を遮り写真を何枚かテーブルの上に広げる。
「四つ目のルールを一香は破った」
その一言は、綾と新菜に衝撃を与えるのは充分な程だった。言葉が出ず、二人はそんなはずはと写真を見るが、確かに見慣れた横顔がそこにはあり、ただただ顔を見合わせた。
「この写真が撮られる前に、子供のような背格好の人影が奇襲をかけて来たと連絡があって、一香はそれを庇う為に飛んできたんだろう」
フランカは一枚一枚写真を見ていたが、ある写真でガタッと立ち上がる。が、伊吹の一言で座るのだった。
「フランカさん、貴女には半壊事件の件やレプリカチャイルドの研究でバルトロさんを推薦してくれたりと、いろいろ助けてもらっているから、この件とは関係ないと思いたい」
「私は何も知りませんよ、娘が心配で立つのは当然の事ですよね?」
フランカの怒りの混じる視線に、「その写真以降陽力は消えて、フランカさんの家に、いるかどうか分からないので安心してください」と平然と話す伊吹、部屋の空気は張り詰めて、綾も新菜もこれ以上最悪な展開に発展しないか心配する。
「まさか、私をここに居させるためにわざと呼んだとか?」
「落ち着いて下さいって、フランカさんに聞きたいことは娘さんの事です」
「リリィの事……ですか?」
「はい、リリィさん深夜に何処か行ったりしていませんか?」
「いえ……寝る時はいつも一緒なので、外にでたらすぐ分かります」
「なら一ヶ月前は?」
リリィと暮らしたのはつい最近の事で、今日で二週間目だったから。別れていた時のことは当然分からず、小さく横に首を張った。
「貴女の娘さんは飯田組に出入りしていたんですよね、深夜の行動が見られなくなったのは、ここ最近の二週間のみ、それまではずっと行き来したり、そうそう、つい最近大量殺人事件が起きた海域にも姿を現していました。この事が分かったのは昨日――」
伊吹は目を細めて「娘さんは何者なんですか?」と言い放つ。
綾と新菜が慌てて口を開こうとした――その刹那、四人の動きが止まる。恐怖。死神の鎌に首筋をかけられているようだった。空気が突然ズッシリと重くなり、感じた事の無い陰力は、魑魅でもここまでのものは出せず、四人はすぐに予想が付いた。それが誰かを。
「怒ってる……今すぐフランカさんを解放させて」
だが、伊吹もプロで何十年も陰陽師をやっていた身、死の感覚は慣れていた。距離と速度から、歩いている事をすぐさま予測する。更にその隣に、凄まじいオーラのせいで隠れていたが、一人居るのに気づいた。
「新を人質にするつもりか?」
張り詰める空気、沈黙に支配された部屋は、パソコンのファンの音と四人の息遣いがやけに大きく聞こえた。
「来る、皆伏せろ」
ドアの叩かれる音と同時に、伊吹は札を抜く。が、すぐに燃える。
「安心してください、戦う気は無いので」
ドア越しから聞こえる静かな声、氷のように冷たいその声が更に恐怖心を煽った。
「貴女はリリィさんで間違いないですね?」
「はい、リリィ•オストランです」
「何故新も一緒なんですか?」
「知り合いなんですよ、校内に入る為に呼んだんです。そんな事よりお母さんを解放してもらって良いですか?」
綾と新菜は声を出さず、「部屋から出して!」と必死に口を動かすが、伊吹は無視をして「一つ聞きたい」と話を続けた。
「リリィさんは敵ですか?それとも――」
言葉を遮るように、陰陽師アカデミーの封筒がドアの下から滑って入ってくる、伊吹の足元に滑って来た。
中から紙を出すと、校長の印が押された書類が一枚、伊吹は思った、自分が思っている以上にリリィという少女は強敵なのだと。普通、一般市民が陰陽師アカデミーの、しかも校長直々、入学許可書を貰えるはずがないのだ。しかも本物の印付きで。
「学生ですか……」
「そう、私は学生です」
書類を取り出す時に落ちた学生カードを見て綾は思わず声が出た。
「Sランク!?」
「分かったのならお母さんを返してもらって良いですか?」
リリィは戦力として欲しかった。故に、流れが変わった今、伊吹は手放しで喜ぶ事ができなかった。複雑だった。
フランカを解放しドアが開くと、「あ、そうそう」とリリィは閉まろうとするドアを手で止めて写真をヒュッと投げる。
「入っちゃいけない空域に入った少女ですけど、名前は谷瑠奈といって、女性に何か言われた結果でした。恐らく昔の友人や親に会えると言われたのでしょう」
写真には、確かに女性と瑠奈の姿があった。が、伊吹は目を細めた。それもそのはず、そこには監視カメラが無いから、違和感があったのだ。瑠奈を使って何か企んでいるのではないか。
「一香さんもそんな妹の瑠奈を守る為に向かっていったので、これ以上詮索しないで下さいね」
「でもこれだけじゃ分かりませんよ――」
その瞬間、ドアが音もなく砂に変わる。
「お願いします」
伊吹の全細胞がこれ以上言葉を発したら危険だと警鐘を鳴らした。
「もしあの二人に手を出すのなら、死体袋を山のように用意するんだな、紙切れでこの私が倒せると思うなよ」
リリィから発しられる魔力の圧に、額から汗が噴き出る。脅しじゃない、深海のように光の届かない瞳がそう語っていた。
「わっ、分かりました」
リリィは「ならヨシ!」とスイッチが切り替わったように直ぐに笑顔に変わり声も穏やかになる。
「では、校長を交えてお話があるようなので、また明日お会いしましょう、伊吹先生」




