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少女と少女は鏡面世界をさまよう  作者: 江戸前餡子
第三章•少女の解放

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35・人神武装主義

「元気そうね、え〜と」


 新菜の声が柔らかく響き、ベンチでのんびりと空を眺めていたリリィは、「リリィ、リリィ・オストランです」 と新菜の方に視線を移す。


 リリィは少し照れくさそうに、けれど誇らしげに口にした。あの決闘の後、フランカから贈られた名前——それは彼女にとって新しい人生の証だった。


 今日は、リリィがフランカをバルトロに会わせるために、新菜の住む浄土音宗寺へと来たのだった。


「良い名前ね」


 新菜は隣に腰を下ろし、穏やかな笑みを浮かべた。彼女の視線がリリィを捉え、その瞳に映る少女の姿に、日本に来たばかりの頃のやつれた面影を重ね合わせる。あの時とは別人のように生き生きとしたリリィを見て、新菜の胸に安堵の波が静かに広がった。


「新菜さんは今日はお休みですか?」

「いいや、待機中なだけ。この頃変な事件が起きて大変なのよ」


 新菜の口調には疲れが滲み、彼女はオーバーに嫌な顔をして見せた。それにリリィは「それはそれは……」と苦笑する。


「エルシリアさん曰く、異世界人の仕業らしいわよ」


 その言葉に、リリィの眉がピクリと動いた。彼女の瞳が一瞬鋭くなり、心臓がトクンと小さく跳ねる。だが、すぐに表情を和らげ、「異世界人というと私の世界の者ですか、怖いですね」とわざと軽く流した。声に微かな震えを隠し、話題を深く掘り下げないよう慎重に言葉を選んだ。


 新菜はその様子を見逃さなかったが、それ以上踏み込まず、「まあ、リリィも気を付けなさいよ」そう彼女の肩をポンと叩く。


「今の暮らしがしたければ、陰陽師からもね」


 新菜の声に警告の色が混じる。 しばらく沈黙が二人を包む中、ふと思い出したようにリリィは「そういえば、伊吹晃って先生に会いました。新菜さんは知ってますか?」と聞いた。


「知ってるも何も、そいつからも面倒な頼み事をされてるんだから」


 嫌そうな顔に、リリィが「モテモテですね」とクスクス笑う。澄んだ笑い声が寺の静寂に溶け、新菜も「お陰様でね」と苦笑した。二人の間に一瞬、軽やかな空気が流れる。


「リリィは今何をしてるの?」


 新菜の声が穏やかに響き、リリィの答えを待つ。彼女は足をパタパタと揺らしつつうーんと考えてからゆっくりと口を開いた。


「なにもしない日常を楽しんでいます」


 リリィの言葉に、新菜は「ふーん」と短く返し、横目でフランカが家から出てくる姿を捉えた。新菜は立ち上がりながら「ほんと元気そうで良かったわ」そう呟いた。


「あの、新菜さん!」

「ん?」

「ありがとうございます」


 たった一言だったが、リリィの瞳は感謝と決意に満ちていた。その輝きに、新菜は「ばーか、アンタの為にやった訳じゃないわよ」と素っ気なく言ったが、背を向けた瞬間に口元が緩む。


 陰陽師が世界を守るのが普通になった現在、感謝される事がなく、"ありがとう"と言われたことが嬉しくてたまらなかった。


 歩き出そうとした新菜だったが、ある事を思い出して再び振り返り、リリィをジッと見つめた。彼女の足音が砂利に沈み、ザリッと小さく鳴る。


「どうしたのですか?」


 リリィの声に戸惑いが混じる。


「翡翠色の器に影を注がれた?」


 唐突な問いに、リリィの目がパチクリと瞬き、頭の中で言葉を反芻(はんすう)する。風がそっと彼女の髪を揺らし、遠くの木々がサワサワと囁き合う音が聞こえた。考えても理解できず、「難しいクイズですね」と苦笑いを浮かべる。だが、新菜はその答えに満足したように頷き、「いずれ分かるわ。分かったら私に言ってちょうだい」と踵を返した。彼女の足音が遠ざかり、寺に再び静寂が訪れた。


「答えはなんだったんでしょうか」


 リリィが呟くと、後ろからフランカの明るい声が飛び込んできた。


「リリィ、お待たせ。新菜さんと何話してたの?」

「今何してるのとか、他愛のない話だよ。お母さんこそバルトロさんとは仲良くなれた?」


 フランカが自信満々にグッドサインを掲げると、リリィは「良かったね」とニコリと笑い、そっと彼女の手を握った。フランカの手が一瞬震え、慣れない感触に戸惑いながらも、嬉しそうに口角を上げ、握り返す手に少し力を込めた。その温もりに、二人の間に静かな幸せが広がる。


 何もしない、でも、いろいろとあった二人には意味があったのだ——その思いが、リリィの胸にそっと響いた。


「バルトロさんって意外と気さくで良い方なのね、気難しい頑固者なんじゃないかとずっと思っていたわ」

「だよね、オストラン帝国の研究員を見ていたから、私もそう思ってた。あっそうだ!翡翠色の器に影を注がれた?って意味、お母さん分かる?」


 リリィの声が弾み、フランカに期待を込めた視線を向ける。


「う~ん、なにかしら……」


 フランカは目を細め、遠くの空を見つめながら考える。彼女の眉間に微かな皺が寄り、風が髪をそっと揺らす。しばらく沈黙が続き、リリィは「神様でもわからないか」と少し残念そうに呟いた。


「新菜さんが言ってたの?」

「そーだよ、でも分からなくて」


 肩をすくめるリリィに「お母さんも分からないわ。(あらた)なら分かるかもね」とフランカの手がリリィの頭を優しく撫でる、その温もりにリリィの心が少し軽くなる。だが、ふとアシュリーの記憶が脳裏を過り、彼女の笑顔に影が落ちた。自分の心がまだあの時から止まっていることを感じ、頑張って前を向こうとするフランカに申し訳なさが募る。


 そんな時、「あの空に浮かんでるのなんだろうね」というフランカの声がリリィを現実に引き戻した。彼女の指が空を指し、その方向をなぞると、リリィの瞳が細まる。


「ほんとだ、なんだろう」


 嫌な予感が胸を締め付け、彼女の呼吸が一瞬浅くなった。


 浮遊物は透明で空に溶け込んでるつもりなのだろうが、遠くの空の一部が小さく歪んでいる。普段なら気づかないほどの僅かな揺らぎだが、そこを通過する鳥の翼が一瞬ねじれ、異様な存在を浮き彫りにしていた。風が急に冷たく感じられ、木々のざわめきが不穏に響き渡る。


「飛行船にしては翼っぽいものがない。陰陽師のような陽力(ようりょく)を感じるけれど、(いん)の力のほうが強くて魑魅に近いね」


 リリィの声に緊張が滲み、フランカが「おぉ、リリィはそこまで分かるのねぇ、凄いわ」と感心する。その純粋な賞賛に、リリィは「ふふ~ん、でしょ」と胸を張り、得意げに笑った。だが、その笑顔の裏で、心臓がドクドクと早鐘を打っていた。


 二人が空を見上げていると、後ろから「あれが見えるかい」と老いた柔らかな声が響いた。枯れ葉が風に舞うカサカサという音とともに、その声が近づく。リリィが振り返り、「貴女は」と驚きの表情を浮かべた。


「新菜を日本まで送ってくれてありがとね、お嬢さん」


 猫背気味の老婆が、シワシワの顔をフニャと緩ませて笑う。


「いえいえ、私こそ助けてくださりありがとうございます」


 リリィが慌てて頭を下げると、老婆は「飯田翠(いいじまみどり)だよ」と名乗った。彼女の声は穏やかだが、どこか深い知恵を湛えているようだった。


「私はリリィ・オストラン、こっちはお母さんのエルシリア・オストランです」


 フランカが丁寧に頭を下げると、翠は「ウチに来た時は心配したけれど、そうか、お母さんと再会できたんだねぇ」としみじみ頷いた。彼女の目が細まり、遠くを見るような表情になる。


「あの、翠さんはあの飛行物体が何かわかりますか?」

「あれは陰陽師の真の顔だよ」


 翠の口端が釣り上がり、不気味な笑みを浮かべた。その表情に、空を漂う物体の異様さが一層際立つ。リリィの喉がゴクリと鳴り、息を呑む音が小さく響いた。


「お嬢さん、その抱えているものを解決するのは簡単だ。でもその決断は人生を大きく変える。悪を選べば平穏と愛が。正義を選べば破壊と孤独が手に入る」


 翠の瞳がリリィを真っ直ぐ貫き、まるで彼女の心の奥底まで見透かしているかのようだった。フランカはその言葉に、ナターシャが死んだ夜のリコリスの声を思い出し、眉間に深い皺が刻まれる。彼女の手がポケットに何かが入った感覚を捉え、無意識にそこに触れる。だが、翠の視線に気づき、目が合うと、翠が静かにウインクをした。


「お嬢さん、手助けをするのもいい。でもお母さんを悲しませるなよ」

「何故それを知っているのですか?」

リリィの声が震え、風が一瞬強く吹き抜ける。

「私は風詠み師だからさ。あの方の世界ではこう言ったっけ——」


—— 星詠み師 ——


 翠はリリィの返事を待たず背を向け、歩き始めた。彼女の足音が砂利を踏むザクザクという音が遠ざかり、フランカの耳に《今夜待っている》という言葉が確かに響いた。風が冷たく頬を撫で、夜の訪れを予感させた。



 鳥たちも寝静まり、夜の静寂が浄土音宗寺(じょうどおんそうじ)を包み込む。鳥居をくぐるフランカの足音が、砂利を踏むザクッ、ザクッという音を響かせ、闇に溶け込む。


「しっかりと寝かしつけたかい?」


 翠の声がベンチから柔らかく響き、彼女がゆっくり立ち上がる。ギシッと木が軋む音が夜の静けさを切り裂いた。


「来なさい」


 その言葉に、フランカの足が一瞬止まる。


「見せたい物とは何ですか?」


 彼女の声に躊躇が滲み、風が木々を揺らすサワサワという音が不安を煽る。


「良いから」


 翠が手招きし、フランカを家へと導いた。リビングのテーブルに向かい合って座ると、どこからともなく湯気を立てる湯呑がふわふわと浮かんでくる。湯気と共に微かな茶の香りが漂い、フランカの鼻をくすぐった。


魑魅(すだま)……何故?」


 フランカの目が見開かれ、声が震える。姿は見えないが、魔力の濃密な臭いが鼻をつき、心臓がドクンと跳ねた。翠はゆっくりと口を開き、静かに語り始めた。


「魑魅は悪い生き物じゃないよ、人間と魑魅は共存できるはずなんだ、魑魅がどこから生まれるか分かるかい?」

「分かりません、翠さん、貴女は誰なのですか?ただの住職とは考えられないですね」


 自然に言葉が零れ落ちる。魑魅は人を見つけたらすぐに襲うが、ここに居るのは違い、凄くおとなしい、翠の特別な力がそうしているのか。フランカの目が細くなる。


 翠は一拍置き、鋭い目つきに変わった。さっきまでの柔和な表情が消え、血の香りさえ漂わせるような気配が彼女を包む。


人神武装主義(じんじんぶそうしゅぎ)、飯田組の二次団体の親分をしている飯田翠、以後宜しく」


 軽く頭を下げた彼女の声に、冷たい風が吹き抜けるような緊張感が宿っていた。


 「飯田」という名に、フランカの脳裏に綾の顔が閃く。彼女の心臓がトクンと鳴り、言葉を呑み込んだ。だが、翠はそれを見透かしたように続けた。


「飯田義明は私の息子だ。あの子は私達とは別の道を選んだ」


 お茶をすすりながら、「義明は、陰陽師を救えるのは陰陽師だけだと思ってるんだよ」と懐かしむように目を細め、湯呑の中で揺れる水面を見つめた。


「人神武装主義とは何なのでしょうか」


 フランカの声に好奇と不安が混じる。


「陰陽力がない極普通の人でも、それと同等の力が出せる道具を使い、魑魅と戦う組織の事さ」

「魑魅と戦うのに、何故敵対しているのですか?」

「それがさっき言った質問に繋がるんだよ。分かるかい?何故魑魅が生まれるか」


 フランカの頭が空白になる。彼女がこの惑星を創った時、魑魅の設定を確かに決めたはずなのに、その記憶が霧のように消えていた。静かに首を振ると、翠が「怨念」と言い放つ。


「魑魅は、人々から発せられる強いマイナスエネルギーから産まれる。これだけなら、陰陽師は良い事をしているように思えるが、日本に居る魑魅の8割が陰陽師が作っていると言っても過言ではない」


 翠が茶封筒をテーブルにトンと置いた。茶封筒の中はきっと良くないことが、それ以上に知ったら一生平穏とは真逆の暮らしが訪れることを、フランカは感じた。


「この子らを見ての通り、魑魅も心があり、悪い子じゃない。フランカさん、貴女にはこの世界の真実を知ったうえで、リリィちゃんを育ててほしい」


 封筒の中には大量の写真が詰まっていた。翠の声が低く響き、フランカの手が震える。


「直ぐに見ない方がいい。覚悟を決めてからにしなさい、ショックが大きいから」

「あの、さっきから気になっていたんですが、何故私の名前を知っているのですか?」

「エレナに聞いたからだよ。彼女もまた飯田組の一員だからね」


 その一言でフランカの頭に全てが繋がり、納得の息が漏れる。だが、すぐに新たな疑問が湧き上がった。


「エレナを知っているのなら、私の目的も知ってるはずですが……何故話してくださるのですか?」


 翠の目が鋭く光り、彼女の声が重みを帯びる。


「私はアンタらがまだ神だという事が信じられないけれど、もしそうなら転生派という達にこの世界をしてほしいんだよ。人は知恵を持ちすぎたが故に、自分を神とでも思い込んで愚かになっていっている。そんな人類を生かす価値があるのか、それを見て判断してほしい」


 フランカの胸が締め付けられる。神が人を創ったのは、人からの信仰心が神界の果物や野菜を育てるためだった。だが、今のチキュウやハールスでは、科学や魔法が進み、神への信仰が薄れていた。彼女はかつて、人類に価値がないと思っていた。だが、この世界で出会った人々、そしてリリィとの生活が、彼女の考えを変えたのだ。


「私は迷っているのです。確かに天界に居た時は、ただのプログラムだから消せばいいと思っていました。でも、異世界やこの世界でいろんな人に会って、それでいいのか迷い始めて、今自分の娘と生活し始めて、人を価値で判断するのが怖くなりました」


 翠がそっとフランカの手を握る。その温もりに、フランカの目が潤んだ。


「人神武装主義は、未来のある子供を殺さない為に作られた組織なんだ。子供を魑魅と戦わせる陰陽師とは違う事だけは知っていてほしい」


 最後に、「私は何も言わんよ。それを見て、フランカさんが自分で決めなさい」と微笑んだ。



 多摩川の目の前で、ある写真が薄暗いランプの光に照らされている。彼の指が写真の縁を震えながらなぞり、ホッと長いため息が漏れた。その息は、欲しい情報が手に入った安堵よりも、死体を見ずに済む解放感が強く、緩んだ顔にあくびがこぼれる。


「多摩川さんだっけ?ごめんな〜コイツ無茶苦茶だろ?早めに見つけて良かったよ、ホント」


 ヤナガの声が小舟の上で響き、木の軋むギシギシという音が水面に反響する。イレナと多摩川は、ヤナガの小さな手漕ぎボートに揺られていた。彼曰くイレナが大暴れするのを止めに来たのだとか。


「でもなんで手漕ぎボートなの?」


 イレナの声に疑問が滲む。


「モーター音で陰陽師にバレる可能性があるからだ。イレナが片っ端から殺してくお陰で、人神武装主義が疑われてるんだ。今でも探してるんだよ、主に海をな」


 その言葉が終わるや否や、スッと鋭い光が空を切り裂き、遠くで弾けるように爆発した。ドーンという低く響く音が水面を震わせ、辺りが一瞬明るく照らされた。イレナの瞳がギラリと光り、「大変なことになったわね」と口では言うものの、その表情は楽しげに歪んでいた。今にも飛び出しそうな彼女の気配に、多摩川の背筋が凍る。


 彼が唖然として言葉を失う中、ヤナガが「あんたも運が無いな」と同情の声を掛けた。


「そういえば、情報はやるけどイレナは勝手に乗り込むなよ?あの方が行くんだから」

「はいはい分かってるわよ。それよりも多摩川さん、依頼人には私が言ってあげるわ。知り合いだし」


 イレナの声が軽やかに響き、多摩川が「知り合い?まだ誰だか言ってないけど」と眉をひそめる。


「私にはわかるのよ、ね?良いでしょ」


 イレナがニヤリと笑うと、多摩川が「けどなぁ……」と渋る。彼女は「これでもダメかしら?」と突然多摩川に化けた。彼女の顔が彼そっくりに変わり、声まで瓜二つになる。多摩川は目を見開き、口がポカーンと開いた。


「俺だ……」


 その反応に、ヤナガが腹を抱えて笑い転げ、舟がグラリと揺れる。


「ね?良いでしょ」


 変幻したイレナの声が多摩川そのもので、彼は「まぁ、アンタがどうしてもっていうなら良いよ」と渋々頷いた。


「お姉さんに任せなさい、必ず伝えるわ——」


—— 谷 一香さんに ——


 水面に映る月が揺れ、遠くの爆発音が再び響き渡る中、イレナの笑顔が不気味に輝いていた。

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