33・女王と王女
少女が瑠奈の家のソファに腰を預け、隣で瑠奈とアニメをぼんやりと眺めていた。リコリスがいなくなってからというもの、瑠奈の家に居候させてもらっていた少女にとって、こうした意味のない静かな時間は少しばかりの安らぎだった。
「新菜から、新さんが用があるからアカデミーまで来てほしいってさ」
突然の一香の言葉に、少女は首をかしげる。用とは何かと尋ねても、一香も「電話してきた新菜も分からないのか教えてくれなかったのよ~」なんてその理由を知らないらしい。ただ、どこか曖昧な空気が漂う中、少女は胸に小さな不安を抱えながらも立ち上がった。瑠奈が「気をつけてね」と小さく呟く声が背中に届き、彼女は軽く頷いて玄関を後にした。
アカデミーの門前に立つと、風が乾いた砂埃を巻き上げ、少女の足元を軽く叩いた。
「来てみましたが、誰もいませんね。今日は木曜日だから生徒がいるはずなのに……」
独り言を呟く声は、静寂に吸い込まれるように消えた。校舎の窓からは人の気配すら感じられず、ただ風の音だけが耳に残る。任務に出ているのか、それとも一香たちのように自宅で勉強をする生徒が多いのか。答えのない問いが頭を巡り、少女は門の柱にもたれて空を見上げた。
「電話があればなぁ」
その瞬間だった。足元からゾクリと這い上がるような感覚が全身を貫き、彼女は反射的に壁から身を離して後ろへ跳んだ。
コンクリートの床が小さな爆発音とともに表面が砕け、破片が地面にパラパラと落ちる。衝撃は小さく、傷ついたのは地面だけだったが、少女の心臓は一気に高鳴った。
「どこから?」
視線を鋭く走らせると、遠く校舎の窓辺に人影が揺れる。男だろうか。距離が遠すぎて顔は見えないが、その視線が自分を捉えていることは確かだった。驚きと警戒が混じり合い、少女の眉がわずかに寄る。
「何故?」
そう思う暇さえ与えられず、人影はスッと消えた。
――背後だ。
風を切る気配を感じ、少女は体を翻し、まるで舞うように動いた。背後を取ろうとした相手の背後に回り込み、冷たく鋭い声で問いかける。
「何の用ですか?」
男が振り返ると、白髪交じりのボサボサの髪が風に揺れ、目の下の濃いクマが不気味に浮かんでいた。猫背の姿勢がさら少女の警戒心を煽る。
男は薄く笑いながら口を開いた。
「できるだけ陽の力を抑えたつもりだったんだけどな」
その笑みがどこか歪んでいて、少女の背筋に冷たいものが走る。
「すみませんでした。私はこの学校で務めている伊吹晃と申します。お名前を伺ってもよろしいですか?」
丁寧な言葉とは裏腹に、その声には奇妙な抑揚があり、少女の警戒心を解くどころかさらに強めた。
「貴方に名乗る名前などありません」
少女の声は氷のように冷たく、距離を置く意思を明確に示していた。
伊吹は一瞬眉をピクリと動かし、「あなたが陰陽師になったら、きっとすぐにSランクになるんでしょうね」と再び笑う。その笑顔はどこか不器用で、下手くそな作り物めいて見えた。
「陰陽師、伊吹と言いましたね。これをご存じですか?」
少女はポケットから瑠奈にもらった汽船の絵を取り出し、伊吹の前に差し出す。彼はその写真に顔を近づけ、目を細めた。
「これは陰陽師の――」
言いかけたところで、ふと口を閉じ、何かを隠すように言葉を変えた。
「残念ながらお話しできません」
「なら私も陰陽師になればいいと?」
少女の声には挑戦的な響きが混じる。
「陰陽師ってだけじゃダメです――」
伊吹はそう言いながら名刺を差し出し、「気になるのなら、今度私とお話をしましょう。貴女には是非陰陽師になってほしい」と言葉を添えた。その言葉に妙な重みを感じ、少女は無言で名刺を受け取る。伊吹は踵を返し、校舎へと戻っていく。その背中を見送りながら、少女の耳に新たな足音が届いた。
「あ、新さん」
振り返ると、新が駆け足で近づいてくる。新は少女の手にある名刺に目を留め、「晃が外に出るなんて珍しいな」と驚いた様子で校舎を見やった。
「あの、伊吹さんって誰なんですか?」
少女の問いに、新は歩きながら答えてくれる。
「この区内の治安管理と、魑魅の研究をやっているんだよ」
「そんな人が何故……」
新の説明を聞きながらも、少女の心は疑問でざわめいていた。なぜそんな人物が自分に興味を示すのか。名刺をスカートのポケットにしまい、ため息が漏れる。
「そういえば、今日は何の用ですか?」
「部屋に入ればわかるよ」
新の言葉に導かれ、校舎の中へと足を踏み入れる。ドアの前に立つと、新がドアノブに手をかけた瞬間、少女の視線がある一点で凍りついた。
「なぜオストラン様が……」
その言葉を口にした瞬間、新の動きが止まる。そして、少女の中で何かが繋がった。
「記憶を取り戻したんですか? ルイズさん、いや、ドメさん」
新はこちらを見ず、どこか嬉しそうな声で答えた。
「そうだよ、リコリス、本当はエルシリア様が直接お会いするはずだったんだけれど、昨晩何かがあったみたいで」
その声に温かさが滲む一方で、少女の胸は複雑な感情で締め付けられた。新はもうドメではない。自分もまたリコリスではない。彼にどう声をかけていいのか、わからなかった。
「気にしないでいいよ。きっとドメさんは再会を喜んでる。転生後とはいえ、約束は果たされたのだから」
新の言葉に、少女は小さく頷く。
「それなら、良いんですけど……」
ドアを見つめたまま動けない少女に、新が背中を軽く押す。
「エルシリア様は怒っていません。元気な顔を見たら喜びます」
「それなら……良いんですけど」
ドアが軋む音とともに開くと、そこには不安に満ちた表情のオストラン女王が椅子に座っていた。少女の目が驚きに見開かれる。かつて胸を張り、背筋を伸ばして力強く歩いていた女王の姿はどこにもなく、今はただ自信を失った影がそこにあった。別人のように変わり果てたその姿に、少女の胸が締め付けられる。
オストランは少女を見た瞬間、昨晩のリコリスがフラッシュバックして身体が凍り付いていた。別人だと知っていてもやはり瓜二つのその顔のせいで身構えてしまうのだ。
「大きく……なりましたね」
無理やり作った笑顔が、逆に少女の心を抉る。
「すみませんでした、オストラン女王様。私がおそばにいたら、こんなことにならなかったのに」
少女は片膝をつき、頭を下げた。地面に触れる拳が震える。オストランは唇を噛み、己の無力さと愚かさに苛まれた。
「貴女のせいではありません。私があの時――」
――産んだあの時から、しっかり貴女を育てていれば――
その言葉が空気を切り裂き、少女の拳がキュッと締まる。オストランが事情を抱えていたことは理解していた。頭ではわかっていた。でも、心は燃えるような怒りに支配されていた。
お前が、人として育ててくれていれば、私は人に怯えずに生きてこれたのに。
お前が、娘として育ててくれていれば、私は人の言葉を疑わずに生きてこれたのに。
お前が、杖を握らさなければ、私は人と手を握れたのに。
ニュークリアスというプログラムが混入したせいで、そうするしかなかったことも理解していた。理解したつもりだった。でも、幼い心は許せなかった。
お前が、お前が、お前が、お前が!
口を開けば、きっと酷い言葉が溢れてしまう。
「リコリスちゃん?」
新の声に呼ばれ、少女は言葉の代わりに涙を流した。こみ上げる怒りを鎮めない限り、オストランを許すことなどできない。これからもずっと。
そう思った少女は、静かに口を開く。
「どうでしょうか、オストラン様。私と組手をしませんか?」
「何故?」
オストランの声に驚きが滲む。
「本当に私の母なのか確かめるためです。私が勝ったらこれからもゼロと呼んでください。私も女王様とお呼びします。でも、オストラン女王様が勝ったのなら、私に名前をつけてください。私もお母さんとお呼びしましょう」
予想外の提案に、オストランは喜びと不安が入り混じった表情を浮かべる。母と認められるチャンスと、娘に杖を向ける葛藤に戸惑いながらも、彼女は立ち上がった。
「分かりました。それで認めてもらえるのなら」
神と人間が戦えば、勝敗は明白だ。新が止めようとした瞬間、少女の横顔に宿る強い意志を見て、彼は口を閉じた。
「無駄にニュークリアスに身体を預けていたって訳じゃなかったってことか」
少女の顔には、今まで見たことのないほどの自信が輝いていた。風が髪を揺らし、緊迫した空気が二人の間を包み込む。地面に落ちる影が微かに震え、遠くで鳥の鳴き声が響き渡る。戦いの幕が、今、静かに上がろうとしていた。