32・ルイズ・アクロイド
新は今、自分が現実の中にいるのか、それともまだ夢の淵を彷徨っているのか、分からなくなっていた。心臓が不規則に跳ね、冷や汗が首筋を滑り落ちる。目の前に立つ彼女――何度も夢の中で出会ったあの女王が、現実の肉体を持ってそこにいるのだ。
混乱するのは当然だった。しかし、彼をさらに苛立たせていたのは、そんな状況でなお頭を占める些細な悩みだった。テーブルの上に置かれた紅茶。来客用に用意したものだが、こだわりなど皆無の安物で、薄汚れたティーカップに注がれたその色は、まるで薄めた泥水のようだ。これでいいのか? 新は頬を抓りながら、紅茶を睨みつけた。視線が熱を帯び、カップの縁に反射する薄暗い光が揺れる。
「あの、新さん。お気になさらず」
フランカの柔らかな声が、張り詰めた空気を一瞬で解いた。新はハッとして顔を上げ、紅茶を手に取る。ごまかすように、以前診た患者――学生の親からの礼として贈られた――高そうなカステラを添えて、彼女の前に運んだ。カステラの甘い香りが鼻腔をくすぐり、少しだけ緊張を和らげる。
「すみません、こんなものしか用意できなくて」
夢の中の彼女は冷徹で、威圧的なまでの厳しさがあった。だが今、目の前に立つフランカは違う。物腰は柔らかく、瞳には穏やかな光が宿っている。新の肩から力が抜け、胸の鼓動がわずかに落ち着いた。それでも、彼女をじっと見つめる視線は離せない。どこか懐かしい、けれど掴みきれない感覚が、彼の心をざわつかせていた。
フランカはそんな新の視線に気まずさを感じたのか、微かに唇を歪めて微笑み、話題を振った。
「壁に貼られている絵は、自分で描かれたのですか?」
「え? あぁ、そうです。夢に出てくる風景でして……でも、なんか懐かしいんですよね。遠い昔に見ていたような気がして」
新は一瞬、彼女のことを口にしようかと迷った。だが、"気味悪がられたらどうしよう"という思いが頭をよぎり、言葉を飲み込む。代わりに、他の絵を手に取り、そっと差し出した。
フランカはメモ用紙を一枚一枚、静かにめくっていく。彼女の指が紙を滑る音が、部屋に響く。やがて、その動きが止まった。眉が寄り、視線が鋭く新へと向いた。
「この風景はオストラン帝国という場所ですね。しかもその国の城から見える場所……城内の者しか知らない景色です」
言葉はそこで途切れたが、彼女の瞳が語りきれなかった何かを訴えていた。新は唇を震わせ、どこか寂しげに呟いた。
「記憶がないんですよね」
「オストラン」という響きが脳裏をかすめる。思い出せそうで思い出せない、靄のかかった感覚。大切なものを失ったような虚しさが胸を締め付けた。フランカは一瞬困惑したように目を細めた。彼女をここへ導いたエレナの意図が掴めず、適当なところで立ち去ろうと思ったその時だった。次の絵をめくった瞬間、彼女の眉が跳ねる。
「この杖の絵……」
「あぁ、それは僕が夢の中でよく使っていた杖です」
杖は持ち主に合わせて作られるため、同じものは二本と存在しない。フランカはそれを知っていた。一番近くで共に時を過ごした彼女だからこそ、確信に満ちた声で顔を上げた。
「ルイズ? 貴方、ルイズだったの?」
「ルイズ」。その懐かしい響きが、新の耳に突き刺さった瞬間だった。頭の中で何かが崩れ落ちる音がした。せき止められていた記憶の壁が一気に決壊し、溢れ出た過去が彼を飲み込んだ。細胞の一つ一つが、血肉が、魂が、すべてを思い出した。新は思わず立ち上がり、椅子が床を擦る鋭い音が部屋に響く。
「そうか……僕の前世は、ルイズ。ルイズ・アクロイドか。そして貴女はエルシリア・オストラン様」
「思い出せましたか?」
フランカの声は静かだったが、新の心は喜びに浸るどころではなかった。イレナのことが頭をよぎったからだ。
「エルシリア様、今ドメは何処に?」
「あの人なら今は別行動で、阿佐ヶ谷市にいます」
新は一瞬考え込んだ後、目を上げて言った。
「王女様にはお会いしましたか? もし会っていないのなら、今すぐ会ってください」
そして、ドメのすべてを話し始めた。ドメがイレナ・ザラであり、反転生派に手を貸していること。自分を転生させたこと。そしてルイズとドメの関係を。言葉を紡ぐたび、新の声は震え、胸の奥で燃える怒りと悲しみが混じり合った。
フランカは耳を傾けながら、知らなかった事実の連鎖に息を呑んだ。ニュークリアスの言葉が真実だったことに、言葉を失った。
「エルシリア様、私はイレナのコピーです。イレナ自身が再び惑星ハールスに降りるまでの記憶を持っています。一度立て直すためにも、信頼できる人たちだけをこの部屋に集めていただけませんか?」
普通なら信じられない話だ。だが、フランカの脳裏には、初めて会ったあの時の、ルイズの言葉が鮮明に残っていた。だからこそ、彼女は静かに頷いた。
「私の真の敵が誰か。それを知れる時が来てよかったです」
立ち上がりながら、フランカは呟いた。
「あの子が私を信じてくれるかわかりませんが、できる限りのことはします」
その言葉を残し、彼女は部屋を出て行った。新はその背中をじっと見つめ、祈るように目を閉じた。瞼の裏に、微かな希望の光が揺らめいた。
◯
一方、少女は海を眺めながら、ぼんやりと立ち尽くしていた。頭から離れないのは一枚の写真。波の音が寄せては返すたび、心の奥に引っかかる何かが疼く。
「せっかく普通の生活に戻れたんだから……か」
一香の声が耳の奥で反響する。だが、彼女の心はそれを素直に受け入れられなかった。普通の生活――その平穏さに、どこか退屈さを感じていたのだ。魑魅と戦ったあの日から、彼女には分かっていた。この日常は、実は非日常なのだと。
膝を抱える両腕に顔を埋め、少女は小さく唸った。砂浜の冷たい感触が足裏に染み、海風が髪を乱暴に揺らす。その時、背後から懐かしい声が響いた。波音に混じり、背中に突き刺さるような鋭さがあった。
「相変わらずナノ、オブジェクト01。いや、今はリコリスの身体だから、オブジェクト0‘か」
「ニュークリアスですか」
少女は振り返らずに呟いた。隣に腰を下ろしたニュークリアスは、無言で海を見つめる。潮の匂いが鼻を突き、遠くで海鳥が甲高い声を上げていた。彼女はぽつりと尋ねた。
「ラプラスには会えたノ?」
「いいえ、会えてません。あえて会ってない、といったほうが正しいでしょうね、きっと」
ニュークリアスは「だと思ったよ」とカラカラと笑い、仰向けに寝転がった。
自由奔放なその姿に、少女も何となく真似をして砂の上に身を投げる。久しぶりに見上げる青空はどこまでも澄んでいて、風が頬を撫でた。海鳥の声、海のざわめき、風の囁きに身を委ねるうち、少女の心が少しだけ軽くなった。
「この世界は静かでいいノ」
「そうですね。もうあの時には戻りたくない」
「けど、身体は戦いを求めているんじゃないか?」
その言葉に、少女の手が写真を握り潰すように力んだ。指先に食い込む紙の感触が、胸の奥の恐怖を呼び起こす。
「私は、怖いんです。利用されるのも、戦うのも、傷つけるのも」
「0‘は人間の汚さをその目で見てきたはず。なぜ怖がるノ?」
「この世界は違う。皆――」
だが、言葉はそこで途切れた。レプリカチャイルドの記憶が脳裏を過り、喉が詰まる。この世界の真実を知らないからこそ、そんな甘い言葉を口にできたのだ。ニュークリアスはそれを見透かしたように、少女の頬を軽く突いた。指先の冷たさが、彼女を現実に引き戻す。
「なら騙されてみな。どうせ私が言ったところで聞かないんだから良い事を教えてあげるノ」
「なんですか?」
「お前の母親がこの世界に居る。一回会ってみたら良いノ」
「ねえ、私のお母さんって、本当にエルシリア女王様なの?」
「そうだよナノ」
「じゃあ、なんで嘘ついたの?」
「そりゃ、あの時はまだお前の中にニュークリアスが居たからナノ。エルシリア・オストラン、あのオブジェクトの中身は神だ。フランカ・レーベル神っていう創造神なら、ニュークリアスみたいな破壊神は敵視するのは必然じゃない?」
少女の心に、微かな安堵が広がった。ずっと独りだった自分に、理由があった。親という存在が、帰れる場所があった。その事実に、彼女は救われたような気がした。ニュークリアスは少女の手にある写真に目をやり、こう続けた。
「その汽船を知りたければ、陰陽師アカデミーに行くのが一番の近道なの」
「ねえ、ニュークリアスは何処に居るの?」
「私はもうこの身体がボロボロでもちそうにないから、プログラム言語に戻ってこの浜辺に居る事にするノ」
「それって――」
少女が言いかけた瞬間、ニュークリアスが突然唇を重ねてきた。柔らかく、暖かい感触に、少女は目を丸くする。
「んなっ?! いきなり何するんですか!」
「うん、これがキスというものか。なかなか悪くないノ」
後ろに手を組んで、彼女は目を細めて笑った。
「ニュークリアスはもともと非生命体。生とか死の概念はないから」
そう言い残し、駆け出す。強風が吹き荒れ、少女が目を瞑った次の瞬間、砂浜には足跡だけが残り、彼女の姿は消えていた。
「私の人生を狂わせて勝手に消えて、ほんと嫌な人」
戦うことへの恐怖は消えないだろう。だが――
「騙されてみろ……ですか」
ニュークリアスの言葉に、少女の心が少しだけ軽くなった。唇に触れた指先が温かく、口角がわずかに上がる。彼女はニュークリアスとは反対の道を歩き始めた。その足取りは、ほんの少し、軽やかだった。
◯
「ナターシャ!無事で良かったわ!」
炭を零したような一色の夜空の下、フランカは新との会話を終え、ナターシャと待ち合わせていた。街灯の薄暗い光が地面に伸び、冷たい風が首筋を刺す。ナターシャは予想していたとはいえ、動揺を隠せなかった。周囲を見渡すその瞳は、不安と警戒に揺れている。
「大丈夫、イレナは着いてきてない」
「なら良いけど――」
ホッと息をついた瞬間だった。電信柱の陰から、けたたましい目覚まし時計のベルが鳴り響く。
ジリジリジリジリ!
二人は跳ね上がり、視線が一気にそちらへ引き寄せられた。風が一瞬吹き抜け、冷たい空気が肺に流れ込む。そして――
それが最後だった。
「ナターシャ? ナターシャ! しっかりして」
ナターシャが糸の切れた人形のように崩れ落ちる。地面に膝をつく音が鈍く響き、彼女の唇から途切れ途切れの言葉が漏れた。
「居る、ヤナ……ガ」
意識が遠のき、彼女の手が冷たくなる。フランカの頭は真っ白になり、恐怖が全身を飲み込んだ。ベルが空を覆い、心臓が締め付けられる。
「相変わらず戦い慣れてねーな」
ヤナガの声だった。だが、ゆらりと現れたもう一人の人物――目覚まし時計を手に持つ少女――に、フランカの意識はすべて奪われた。
「何故……リコリスが」
小さな女の子が仮面を外す。白い歯が覗く不気味な笑みが、闇の中で異様に浮かび上がる。彼女は握っていたナイフを放り投げた。カランと地面に落ちる金属音。刃にべっとりと付いた真っ赤な血が、街灯の光を冷たく反射する。
「どういうこと? 魔力が全く感じなかった」
「そりゃそうでしょ」
フランカの不思議そうな表情に、リコリスは「ママ本当に忘れた?」そう両手を広げ、一回転してみせる。くるり、とスカートの裾が揺れる。その背後から、もう一つの声が響いた。聞き慣れた、今は聞きたくなかった声。
「いじめちゃ駄目よ、私のお友達を」
「エレナ! これはどういうことなの?」
フランカは動転し、頭が追いつかない。イレナはそんな彼女を楽しむようにクスクスと笑い、こう言った。
「今起きているのは未来の、それでいて高確率で起こりゆる出来事」
すれ違いざまに肩を叩き、「もっと自分の子を大切にするべきだったわね」と囁く。
「新には会った?」
「え?」
「あ~新じゃないか。ルイズ・アクロイドと言うべきだったわね」
ヤナガとリコリスを見やり、「それともドメ・ハーカナ?」と笑いを誘う。
「ふざけないで!」
「ふざけてないぜ。転生派の思想よりかは大真面目だ。なあ、器よ」
「器」と呼ばれたリコリスはゆっくり頷き、「ママも共犯者だから怒るのはおかしいよ」とメモリースティックを投げた。放物線を描く小さな物体が、フランカの足元に転がる。
「器は優しいわね。大ヒントよ。せいぜい天界に行ったら見なさい」
イレナは笑いを堪えきれず声を震わせ、「まあ今転生派が生きているか分からないけれど」と付け加えた。
リコリスは横目でそれを見ながら、「私は親孝行ものだから言うけれど、バルトロさんを早く見つけな」と目覚まし時計を静かに地面に置く。チクタク、チクタクと、針が刻む音が不気味に響く。
「これが鳴った時、その時までエルシリア・オストランの娘を消さずに居られたら、ママ達転生派の勝ち」
リコリスとエレナの言葉に、ヤナガが「まだゲームオーバーじゃないみたいだな」と肩をすくめ、指を鳴らす。カッと鋭い光が迸り、三人の姿が消えた。
フランカはただ呆然と立ち尽くし、足元に倒れたナターシャを抱きかかえた。夜風が冷たく頬を叩き、心の底に虚無が広がった。