31・金色のドラゴンと自称名探偵、深夜にて
月光が雲間から漏れ、冷たく青白い光を大地に投げかける中、ファフニールの金色の鱗がキラッ、キラッと鋭い輝きを放つ。その巨大な全身が風を切り裂くたび、低く唸るような空気の振動がイレナの耳に響き、全身を震わせた。箒の柄を握る指先に汗が滲み、彼女は歯を食いしばりながら必死に速度を合わせるが、ファフニールの尾が一閃するたびに距離が縮まらない。箒が軋み、木の悲鳴のような音を立てると、イレナの胸に焦りが広がった。
「もう限界だ!」と箒が悲鳴を上げるように震える中、彼女は唇を歪めて呟く。「もっと頑張りなさいよ」その声は風に掻き消されそうになりながらも、どこか自分自身を叱咤するような響きを帯びていた。
「拳一つ分に収まる距離まで近づくのが限界か……このままじゃ撃つしかないわね」
イレナの瞳が鋭く細まり、心の中で葛藤が渦巻く。
本当はやりたくない。この黒炎の魔法がどれほどの破壊を招くか、彼女自身が一番よく知っていたからだ。でも、他に選択肢はない。覚悟を決めた瞬間、太ももで箒をギュッと挟み込み、筋肉が引き締まる感覚が全身に走る。上半身を起こすと、袖から滑り出す杖をしっかりと握り、冷たい木の感触が掌に染みた。
風が唸りを上げ、全身を叩きつける。髪が乱暴に顔に張り付き、視界が狭まる中、エレナは飛ばされないように歯を食いしばりながら、喉の奥から声を絞り出した。
「エスプロ・フィアンマ!」
杖の先端が一瞬震え、次の瞬間、禍々しい黒炎の槍が轟音とともに迸る。空気が焼けるような焦げ臭さが鼻をつき、黒い炎は唸りながらファフニールの魔法陣の盾を突き破った。
バキンッ!という鋭い破砕音が響き、魔法陣の破片がキラキラと月光に反射しながら散乱する。黒炎は勢いを失わず、ファフニールの片翼に突き刺さり、金色の鱗が一瞬にして黒く染まった。巨大な竜が咆哮を上げ、その全身が黒炎に飲み込まれると、重々しい地響きとともに地面へと墜落していく。
「あらあら、悪いことしちゃったわ〜」
イレナの声は軽やかだが、その瞳の奥には一抹の罪悪感が揺れていた。箒を傾け、ゆっくりと地上へ降り立つと、そこは住宅地の只中だった。瓦礫が散乱し、焦げた木の匂いが鼻を刺す。黒炎に苛まれるファフニールが地面や家々に全身を叩きつけ、ゴゴゴッという鈍い衝撃音が響き渡る。逃げ惑う人々の叫び声が空を切り裂き、イレナの耳に突き刺さった。彼女の胸に冷たいものが広がるが、それを押し殺して杖を構える。
次の魔法を放とうとした瞬間、視界の端に逃げ遅れた男の姿が映った。煤にまみれた顔、鳥の巣のようにボサボサの髪、細すぎて折れそうな身体。なぜか分からない衝動に突き動かされ、イレナは箒を急旋回させ、男の腕を掴んで引き上げた。男の手が冷たく震え、彼女の腕にしがみつく力が意外に強いことに驚きながら、箒を急上昇させる。
男は初めて空を飛ぶのだろう、ガタガタと奥歯を鳴らしながらエレナにすがりつき、掠れた声で叫んだ。
「君は陰陽師かい?」
その言葉にイレナはクスッと笑い、風に髪をなびかせながら答える。
「この作品の清楚担当の魔女さんよ」
「魔女?」
男の声が裏返り、エレナはさらに笑みを深めた。
「それよりしっかり掴まってなさい!」
下方では、ファフニールが黒炎を振り払い、鱗が不気味な黒光を放ちながら立ち上がる。エスプロ・フィアンマの粘り気のある炎がまとわりついているはずなのに、まるで効いていないかのように鋭い眼光をこちらへ向けてきた。エレナの背筋に冷たいものが走る。人々が逃げ惑う姿を横目で見ながら、彼女は箒を急加速させ、ファフニールごと山の方へテレポートした。
視界が歪み、次の瞬間には鬱蒼とした緑の海が広がる山中に立っていた。木々がざわめき、湿った土と葉の匂いが鼻腔を満たす。ファフニールは突然の転移に混乱したのか、巨体で木々を薙ぎ払い、ガサガサと枝が折れる音が響き渡った。しかし、イレナの方を一瞥すると、その瞳に冷静さが戻り、ジッと警戒するように睨みつけてくる。
「ここなら思う存分大暴れできるわね〜」
イレナの声は軽いが、心の中では緊張が渦巻いていた。男が呆然と呟く。
「どうなってんだ……こりゃ」
ファフニールが空気を震わせる咆哮を上げ、口の中で白い光がチカチカと点滅し始めた。鱗が青く発光し、膨大な魔力が周囲の空気とぶつかり合う。バキバキッ!と木々が次々に破裂し、粉々になった木片が雨のように降り注ぐ。イレナは急いで箒を上昇させようとするが、バリアが歪み、箒が真っ二つに折れる鋭い音が耳を劈いた。
「も~大暴れしすぎよ!」
落下する男の手を掴み、イレナは自らの魔力で空を飛びながら叫ぶ。
展開された魔法が放たれ、轟音とともに迫ってくるが、彼女はそれを巧みに避けた。しかし、次の瞬間、ファフニールの顔が目の前に迫り、イレナの心臓が跳ね上がる。誘導されていたのだ。
「おいおいおい!こりゃマズいんじゃねえのか?」
男の声が震え、イレナは苦笑いを浮かべる。
「マズったかもね〜」
黒紫の稲妻を纏った白い光線が放たれ、イレナの髪が逆立つほどの圧力が襲いかかる。箒がない今、急上昇はできず、逃げることは不可能だった。男が目を瞑り、終わりを覚悟した瞬間、イレナの瞳が鋭く光る。
「なーんちゃって、ラ•ツェアシュテール」
杖が反動に耐えきれず、バキッと砕け散り、漆黒の球体が現れる。その異様な存在感に空気が重くなり、光線が全て吸い込まれていく。
ファフニールは危険を察知したのか、魔法で鋼の壁を何重にも展開したが、イレナは冷たく笑った。
「そんなことしても無駄よ、お馬鹿さん」
人差し指を軽く動かすと、球体がファフニールへと重々しく落下し、鋼の壁を呆気なく貫通。山が半分消し飛び、轟音と土煙が空を覆う。そこにファフニールの姿はなく、イレナは男にクスリと笑いかける。
「結構加減したのよ?」
男は言葉を失い、不自然に抉れた山を見つめ、顔が青ざめた。
「さて、お家まで送っていってあげるわ」
「え?あぁ……ありがとう」
男の声は掠れ、イレナはふふっと笑う。
「今ので怖くなっちゃった?」
イレナは、数百年ぶりに「人助けとはするものだ」と胸の内でつぶやいた。埃っぽい部屋の空気が鼻腔をくすぐり、彼女の長い黒髪が微かに揺れる。助けた男は、薄暗い部屋の片隅で机にもたれ、どこか胡散臭い笑みを浮かべていた。彼女が差し出した一枚の写真を手に取った瞬間、彼の目がキラリと光り、唇が得意げに歪んだ。
「驚くことにさ、それ俺が撮ったんだよ」
彼の声は低く、かすかに自慢げな響きを帯びていた。指先で写真を撫でながら、彼は続けた。
「あまりにも綺麗に撮れたから気に入ってたんだ。まさかアンタが持ってるなんてな」
その言葉に、イレナの眉がわずかに上がり、彼女の鋭い視線が男を射抜く。彼女は写真を握り潰さんばかりに力を込め、静かに、しかし鋭く切り返した。
「私、この場所を探してるの。どこにあるか分かる?」
探偵の口元が一瞬引きつり、部屋に漂う沈黙が重みを増す。外から聞こえるかすかな風の音が、窓枠を微かに震わせていた。彼は肩をすくめ、どこか芝居がかった仕草で首を振る。
「残念ながら、もう無いよ。その木は切られたんだ」
彼はそう言うと、懐から何枚もの写真を取り出し、埃っぽい机の上に無造作に広げた。どの角度から見ても、その木は確かに美しかった。陽光に照らされた緑の葉が透き通り、風にそよぐ様子が切り取られている。だが、最後に彼が差し出した一枚――「これが現在の状況だ」と呟いた写真には、見覚えのある学校の建物が映っていた。コンクリートの無機質な壁に囲まれ、かつての木の面影はどこにもない。イレナの瞳がその写真に釘付けになり、心臓が一瞬早く鼓動を打つ。
「この学校、どこにあるの?」
彼女の声は低く、抑えた緊張感が滲み出ていた。指先が写真の縁を強く押さえ、紙が微かに軋む音が響く。探偵は目を細め、口元に薄い笑みを浮かべたまま、首をかしげた。
「ん〜? 俺も忘れたよ」
嘘だ。イレナの目が鋭く光り、彼のニヤけた表情を捉えた。その笑みは、金を渡さない限り口を割る気がないことを雄弁に語っていた。彼女の胸の内で怒りが渦巻き始め、静かに息を吐く音が部屋に響く。彼女は一歩近づき、探偵を見下ろすように立った。
「恩人に金を要求するのね」
その声は笑顔を伴っていたが、低く抑えられたトーンに怒りが滲み、まるで刃物のように鋭く空気を切り裂いた。男の背筋が一瞬ピンと伸び、彼の喉が小さく鳴る。
だが、彼はすぐに気を取り直し、机の端を指で叩きながら軽い調子で返した。
「恩人にお金は要求しないよ。ただ、手伝って欲しいだけさ。ある客からの依頼でね。どうだい? さっきの力を見て確信したんだ。キミが居たら解決できるって」
イレナは顎に手をやり、ゆっくりと視線を上げた。
部屋の天井は剥がれた塗装がむき出しで、何もない空間が彼女の思考を映し出すかのようだった。彼女の唇が微かに動き、呟きが漏れる。
「まぁ、当分は進展ないか……」
その声は静かで、どこか諦めと好奇心が交錯していた。外の風が再び窓を叩き、ガラスがカタカタと震える音が響く。
探偵が身を乗り出し、期待に満ちた声で尋ねた。
「OKってことかい?」
イレナは一瞬黙り、探偵の顔をじっと見つめた。彼女の瞳に宿る冷ややかな光が、彼のニヤけた表情を切り裂くようだった。だが、やがて彼女の口元に微かな笑みが浮かび、軽い溜息と共に言葉が零れた。
「まあ良いわよ。探偵ごっこなんて面白そうだし」
「ごっこじゃねーよ!」
男が即座にツッコミを入れ、後頭部をガリガリと掻く。その仕草にどこか子供っぽさが垣間見え、イレナの緊張が一瞬緩んだ。彼はポケットから名刺を一枚取り出し、彼女に差し出す。名刺には擦れた文字でこう書かれていた。
「僕は多摩川寒蘭、この社内を見ての通り、探偵さ」
部屋の中は薄暗く、埃と古びた紙の匂いが漂い、二人の間に奇妙な緊張感と共鳴が交錯していた。窓の外では、風が遠くの木々を揺らし、かすかなざわめきがイレナの耳に届く。彼女はその名刺を手に取り、指先で軽く弾きながら、探偵の顔を見上げた。そこには、これから始まる何かへの予感が、静かに、しかし確実に宿っていた。
◯
ファフニール討伐から一夜が過ぎ、朝焼けが空を淡く染める中、半壊した山の残骸が静寂に包まれていた。
風が吹き抜けるたび、焦げた木々がカサカサと乾いた音を立て、灰色の粉塵が舞い上がる。綾は足元の黒ずんだ土を踏みしめ、その冷たい感触に眉を寄せた。鼻腔を刺す焦げ臭さと、どこか遠くで聞こえる鳥の鳴き声が、彼女の心に奇妙な落ち着きと不安を同時に植え付ける。
フランカが隣で息を整えながら、慎重に言葉を選ぶように口を開いた。
「綾さん、ここ一帯は恐らく魑魅を消すために、私のような異世界人がやったんだと思います」
その声は小さく震え、ハールスでの記憶が彼女の瞳にちらつく。フランカの指先が無意識にスカートの裾を握り潰し、白い関節が浮かび上がる。彼女の脳裏には、かつての戦場で響き合った剣戟の音と血の匂いが蘇り、胸が締め付けられた。
綾は目を細め、フランカの言葉を咀嚼するように頷いた。
「来てくださって良かったですわ、そうだと思ったんですの」
彼女の声は穏やかだが、その背筋には微かな緊張が走っていた。
陰陽術では決して生み出せないこの規模の破壊。昨夜、妹が巻き込まれた大量の魑魅事件との関連性が頭をよぎり、一香の心に冷たい影が落ちる。
少し離れた場所で、焦げた大木に手を這わせていた。指先に付いた炭が黒く染まり、彼女はそれをじっと見つめる。火の粉がまだ宙を舞う景色に鼻を鳴らし、「違うな」と小さく呟いた。
その声には確信と苛立ちが混じり、少女の魔力を感じ取った記憶が脳裏を掠める。
「街の監視カメラで何か映ってないか調べてみよう」
一香の提案に、綾が柔らかく微笑む。
「そうしますか。でも、一香は楽したいだけじゃないの?すぐ寝るじゃない」
「んな!?わけないだろ!」
一香がムキになって反論すると、頬が赤く染まり、後ろ髪を乱暴に掻いた。綾のからかうような視線に耐えきれず、彼女はさらに声を張る。「エルシリアさんみたいな優しい方なら良いけど、こんな力の持ったヤツが敵だったら早く捕まえなきゃって思っただけだ!」
「ふふふ、言い訳の凄いこと。今回はしっかり働いてもらいましてよ」
「だーかーらー!」
三人の軽いやりとりが響き合い、山の静寂を一時的に破る。その様子を少し離れて見つめていたフランカの瞳が、懐かしさに細まった。神界での日々が脳裏に浮かび、仲間と共に笑い合った記憶が胸を温かくする。しかし、次の瞬間、その温もりが鋭い罪悪感に突き刺され、彼女の息が一瞬止まった。この子たちを自分たちの争いに巻き込むかもしれない――その恐れが、フランカの心を冷たく締め上げる。
「どうしたんですか?エルシリアさん」
一香が近づき、心配そうに首を傾げる。
フランカはハッと我に返り、微笑を浮かべて誤魔化した。
「いいえ、なんでも。あまりにも楽しそうだったので。こんな――」
言葉が途切れ、彼女の喉が詰まる。続くはずのない平和な時間が、いつか終わりを迎えることを知っているからだ。神界の争いがこの子たちに及ぶ未来を想像し、フランカの指先が微かに震えた。
「こんな時代が私にもあったなと思いましてね」
その微笑に、一香が「エルシリアさんは私の味方ですよね~」と無邪気に抱き着く。新菜が反射的に一香を剥がし、軽く頭を叩くと、「コラ!何してるのよ」なんて叱る声が響いた。フランカは小さく笑い、「お気になさらず、私は構いませんよ」と優しく返す。新菜と同じハールス出身であることを知る彼女は、いつか彼女と深く話したいと思いながらも、そのタイミングを計りかねていた。
「じゃあ戻りますか。アカデミーに新先生が居るので――」
綾が提案した瞬間、フランカの胸が小さく跳ねる。この任務に参加した本当の理由――アカデミーで働く精神科医、武田新に会うためだった。イレナから渡された写真を綾に見せた時、「手放しで学校に入ると色々と厄介ですから、任務に参加するという名目で入りましょう」と提案された経緯が頭をよぎる。
権力ある父に頼むこともできたが、この国の陰陽師の仕事を見たいという好奇心が、フランカの心を動かしていた。
「すみません綾さん、飯田さんに案内してもらっても良いですか?」
フランカの言葉に、綾が少し驚いたようにパチクリと瞬き、「えぇ、もちろん」と答える。
実は綾に新の場所まで連れて行ってもらうつもりだったが、新菜と話したい気持ちが勝り、彼女に切り替えたのだ。新菜は突然の指名に目を丸くし、女王と二人で歩くという事実に緊張で体がガチガチに固まった。
校舎へと続く長い廊下を歩きながら、フランカは新菜の横に並ぶ。足音がカツカツと石の床に響き合い、窓から差し込む陽光が二人の影を長く伸ばす。
「すみませんね、飯田さん」
フランカの声は柔らかだが、どこか遠慮がちだった。
新菜は慌てて首を振る。
「あっ、いや、全然良いですよ。私もぉ……その、お話したかったので。あと、新菜でも構いません」
その言葉に、フランカの唇に小さな笑みが浮かぶ。
「そんなオストラン女王に――」
新菜が言いかけた瞬間、彼女の表情に影が落ちた。
「私は女王を語る資格なんてありません。ただのエルシリア・オストランです」
フランカが自分の頭に触れる仕草に、新菜の胸が締め付けられる。帝国の最後を知る彼女には、王冠の有無が問題ではないことが痛いほど伝わっていた。自分と重なる部分を感じ、奥歯を噛みしめる。かつて自分が担うはずだった役割を力不足で果たせず、今も身を隠している現状が、新菜の心に重くのしかかる。
「そんな事ないですよ!」
新菜の声が思わず大きくなり、興奮が抑えきれなかった。
「何処かで、そう何処かで!貴女を待っている人は居ます。皆の心の中にはしっかり国旗がまだ掲げられているはずです!」
我に返った新菜が「すみません」と俯くと、フランカは彼女の肩にそっと手を置いた。
「ありがとうございます新菜さん」
その優しい声に、新菜の目が潤む。フランカは廊下の窓に視線を移し、遠くの空を見つめた。
「そうですね。何処かで私を待っている人が居ますよね」
重くなった空気が二人を包み、それ以上言葉は続かなかった。やがて新の部屋の前に辿り着き、二人は苦笑いを交わす。部屋の中からガタッと物音が聞こえ、新菜が小さくドアを指差した。
「そろそろ行った方が良いかもしれませんね」
フランカも頷き、「ですね、そうします」とドアを叩こうとするが、ふと振り返る。
「あの、新菜さん。何時くらいに帰りますか?」
新菜の表情がパッと明るくなり、「17時には帰れると思います!門の前で待ち合わせをしましょう」と答えた。ようやく別れ、フランカはドアを叩き、新の部屋へと足を踏み入れるのだった。