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少女と少女は鏡面世界をさまよう  作者: 江戸前餡子
第三章•少女の解放
32/44

30・不穏が写る汽船

 夜が深まり、静寂があたりを包む中、川の流れる音が耳にやけに大きく響き渡る。雨が石を叩き、絶え間なく「ザアア……」と低く唸るその音が、リコリスの心をざわつかせる。彼女は確かに感じ取った――あの異様な感覚を。背筋を這う冷たい予感に突き動かされ、リコリスは隣で眠る少女を容赦なく叩き起こした。


「起きろ!」


 その声は鋭く、闇に切り裂く刃のようだった。


「近くにエルシリアに似た力を持った奴が近づいてきてる!」


 少女が眠そうな目を擦るのも待てず、リコリスは彼女の細い腕を掴み、無理やり背中に担ぎ上げる。段ボールの家――薄汚れた壁に囲まれたその簡素な隠れ家から、足音を殺してそっと抜け出すと、草むらに身を潜めた。湿った土の匂いが鼻をつき、夜露に濡れた草が足首に冷たく絡みつく。リコリスは目を細め、周囲を鋭く見回す。


「殺気は感じない……何のつもりだ?」


 声は低く、緊張と疑惑が混じり合っていた。


 少女が背中から小さく呟く。


「川の向こうにいますね」

「あぁ、まだこっちに気づいてない。遠くまで逃げるぞ」


 リコリスは唇を噛み、内心の苛立ちを押し殺す。「この家、気に入ってたんだけどな……」とブツブツ呟きながら、闇に紛れて足を進めた。


 深夜の空は重く、星さえ見えない。陸には魑魅が蠢き、遠くで「キィ……キィ……」と不気味な鳴き声が響き合い、彼女たちの行く手を嘲笑うようだった。


 しばらく進んだところで、リコリスは立ち止まり、額に浮かんだ汗を拭う。


「やべぇ……迷ったかも」


 戦闘を避けるため細い路地や茂みを縫うように移動していたせいで、二人は今どこにいるのかも分からなくなった。


 かすかな月明かりに照らされた看板が目に入るが、掠れた文字はヒントにならない。リコリスは息を潜め、足音を立てないよう慎重に進む。すると、暗がりの先に二輪の子供用自転車が放置されているのが目に入った。ピンク色の車体が、薄暗い光の中で妙に鮮やかに浮かび上がる。


「ラッキー! 自転車だ、後ろに乗れ!」


 リコリスの声に弾むような喜びが滲む。


 少女は眉をひそめ、不安げにその鉄の塊を見つめる。


「二人乗れるんですか? 折れない?」

「バーカ、そんなわけないだろ! ピンク色で可愛いし、最高じゃん!」


 リコリスは上機嫌に笑い、少女の反論を待たずにサドルに跨る。少女は仕方なく腰に手を回し、後ろにぎこちなく座った。リコリスがペダルを力強く踏み込むと、「ギィッ!」と錆びたチェーンが軋み、自転車がグンッと前進する。冷たい夜風が二人の顔を容赦なく叩き、少女の眠気を一瞬で吹き飛ばした。


「何で乗れるんですか?」


 少女の声は風に混じり、不思議そうに響く。


「天才だからだよ。これなら魔力を使わなくて済むし、バレないだろ――」


 リコリスは後ろをチラリと見やる。闇の中、魑魅の蠢く影がじわじわと近づいてくる。その中でも一際異質な気配を放つ存在に気づき、彼女は口端を僅かに吊り上げた。


「あの化け物、周りのザコとは格が違うな」


 どこか楽しげなその口調に、少女は背筋が寒くなるのを感じた。


「どうしましょう?」

「逃げ切るのも無理っぽいし、とりあえずアシュリーもどきの力から離れるまではこのまま移動だ。お仕置きはその後でいい」


 だが、そんな楽観的な計画が上手くいくはずもなく――十字路を曲がろうとしたその瞬間、「ドスン!」と重い音と共に、魑魅が放った泥のような球が後輪を直撃した。


 自転車は衝撃で横に弾かれ、「ガシャン!」と地面に叩きつけられる。二人は振り落とされ、宙を舞う。リコリスは咄嗟に身体を捻り、家の塀に足を突いて強打を防ぐ。少女も同じく敏捷に着地し、膝を軽く震わせながら立ち上がった。


「まだ近くにいます……」


 少女の声はかすかに震え、息が荒い。


「しょうがないだろ。自転車でもまともに逃げられないんだ、走ってなんか到底――」


 箒を使うなんて論外だ。リコリスは頭をフル回転させ、冷静に状況をシミュレーションしようとする。だが、時間はそんな余裕を与えてくれない。「ザワ……ザワ……」と周囲から響く不気味な音と共に、魑魅が次々と湧き出てくる。あっという間に二人は囲まれていた。


「どどどどどどうしよう……!」


 少女の声が裏返り、恐怖が溢れ出す。


「そう慌てるなよ」


 リコリスの声は低く落ち着いているが、その瞳には緊迫感が宿る。


 私の力はエルシリアに近い。使えば一瞬で探知されるかもしれない。戦うなら魔法しかない――。


「魔法は使えるか?」

「使えますけど……」

「生き残って瑠奈(るな)と会う未来に行きたくないか?」


 二人が目を合わせた瞬間、ほんの一秒の静寂が流れる。そして、一匹の魑魅が「ギャアッ!」と咆哮を上げて飛びかかってきた。少女は叫ぶ。


「行くって選択肢以外ないじゃないですか!」


 人差し指を伸ばし、風を纏った鋭い一撃が「ヒュン!」と空気を切り裂き、魑魅を吹き飛ばす。


「もっとデカいの出せよ! 何躊躇してんだ!」


 リコリスの叱咤が飛ぶ。


「民家があるんです! みんなを巻き込みたくない!」

「それなら大丈夫だ」

「何で?」

「魑魅が出た一帯は、陰陽師が異能力のない人間を追い出す結界を張ってるからだよ」


 少女は一瞬言葉を失い、リコリスを見つめる。


「ねえ、夜にリコリスってよくいないけど、何してるの?」


 彼女は一瞬黙り、「良いからやっちまえ。後で嫌でも分かる」と舌打ちを返す。


 少女はリコリスの言葉に戸惑い、心のどこかで不安が膨らむ。だが、今は戦いに集中するしかない。風を操り、次々と襲い来る魑魅を薙ぎ払う。戦いが終わり、逃げ切った後も、立ち止まる余裕はなかった。


「やっと魔力も消えましたね」


 少女の声は疲れ果て、息も絶え絶えだ。


「だな――」


 だが、運命はまだ彼女たちを解放しない。空を切り裂く少女の悲鳴が響き渡る。


「キャアアアッ!」


 少女は夜空を見上げ、聞き覚えのある声に目を丸くする。


「谷さんだ!」


 そう叫ぶや否や、彼女は走り出した。


「おいおいおい! お前、魔力残ってないだろ! この世界は魔力の回復が遅いんだ。もしもの時に備えて残しとけよ!」


リコリスの叫びが背中に突き刺さる。


「今がその時なんです! 私のお友達が、危ないんです!」


 友達――その言葉がリコリスの胸に重く響く。彼女はそれ以上何も言わず、黙って後を追った。


「谷さん!」


 少女が瑠奈の前に立つと、彼女は月明かりに照らされ、口から血反吐を吐き、腹を押さえる手が真っ赤に染まっていた。少女の心臓が凍りつき、冷たく重い恐怖が全身を包む。


 目の前には鎧兜を纏った武者が立ち、刀を構えるその姿が静かに威圧を放つ。「カチャ……」と金属が擦れる音が闇に響き、少女は息を呑んだ。


 今までの魑魅とは違いはっきりと原型がある。それだけで、目の前の魑魅がどれだけ強いのかが容易に分かった。


「回復させます。そしたら逃げてくださいね」

「レタ・リストール!」


 魔法を唱えた瞬間、身体に電流のような痺れが走り、目眩と共に膝がガクンと崩れる。

瑠奈の血は止まり、回復は成功したはずなのに、彼女は動かず、心配そうな目で少女を見つめる。


「逃げろ、瑠奈!」


 少女の声は掠れ、必死に絞り出す。


「で、でも――」

「早く!」


 このままでは二人ともやられると悟った少女は、瑠奈の前に鉄壁を出現させる。


 「ズン!」と地面が震え、魔法の残り回数が僅かであることを彼女は痛感していた。


 武者の刀が頬をかすめ、冷たい刃の感触に少女の心が締め付けられる。だが、彼女は叫ぶ。


「魔族が魔法だけだと思わないでくださいよ!」


 刃を交わし、前蹴りを「ヒュッ!」とかわすと、大地を蹴って武者の懐に飛び込む。その速さにリコリスは目を細め、「なんだ、しっかり強いじゃん」と呟いた。


 武者が後退しようとするが、少女は拳を握り、「ゴスッ!」と鎧を突き破り腹に叩き込む。


「やってやりましたよ」


 息も絶え絶えの声と、誇らしげなドヤ顔を最後に、彼女は意識を失い倒れた。


 最後に見たのは、駆け寄るリコリスの小さな背中だけだった。



 目覚めると、鼻をくすぐる金木犀の優しい香りが漂い、見慣れない天井が視界に広がる。隣に置かれた人形が、今まで出会ってきた人物の中から誰の部屋なのか推測できた。


 少女は掛け布団を握り、心の底から安堵の息を漏らした。瑠奈が生きている――それだけで十分だった。


 ドアが「ガチャリ」と開き、瑠奈が駆け込んできた。上半身を起こしていた少女に飛びつき、胸に顔を押し当てる。何も言わず、ただ強く抱きしめるその姿に、少女はそっと頭を撫でた。


「どうしてあんな所にいたんですか?」


 静かに問うと、瑠奈は震える声で答える。


「ごめんなさい……でも、私も強くなりたかった。だか――」


 言葉が途切れ、彼女は大声で泣き出した。自分が原因で少女が倒れたと思い込んでいたのだ。


 少女には理解できなかった。力が何故そんなに尊いのか。力はただ利用され、地獄のような日々を強いるだけなのに。彼女は苦しみを分かっていたからこそ、大切な友達をそんな場所に行かせたくなかった。


「公園に行きませんか?」

「ふぇ?」

「行きましょう。気分転換っていうやつです」


 昨日初めて会った公園に向かうが、瑠奈の浮かない表情に少女は手を引く。


「あれで遊びましょう! やったことないですけど!」


 ブランコを指差し、彼女は笑顔で誘った。


「これってどうやるんですか? 椅子のようですけどなんか違いますね」

「これはブランコって言うんだよ。こうやってやるの」


 瑠奈が少し元気を取り戻し、少女は微笑む。


「谷さんは物知りなんですね」

「瑠奈でいいよ。敬語もやめて、普通にお話しよ! えっと……」

「ゼロ。名前じゃないけど、そう呼ばれてたの」


 瑠奈はブランコを止め、ジッと少女を見つめる。


「ゼロもレプリカチャイルド?」

「れぷりかちゃいるど?」

「違うかあ」


 彼女がポケットから取り出した一枚の写真は、シワだらけでボロボロだった。そこに映る船を見て、少女は眉をひそめる。嫌な予感が胸を締め付けた。この世界の闇の深淵を、垣間見てしまったような気がしたのだ。


「この船の写真は何ですか?」


 ゼロの声はかすかに震え、写真を指す手が微かに揺れる。瑠奈は目を伏せ、シワだらけの写真をそっと撫でた。


「分からない。お姉ちゃんが私を拾った時、砂浜に倒れてて、これを持ってたって。よく夢に出るの。この船に私がいる夢と、『レプリカチャイルド』って言葉が頭に響くの」

「倒れる前の記憶はないの?」


 瑠奈が首を振ると、ゼロの胸に重いものが沈む。答えられない瑠奈の表情に、何か深い傷が隠れているのが分かった。だが、その時――「瑠奈~!」と明るい声が響き、新菜と同じ陰陽師アカデミーの制服を着た少女が駆けてくる。


 瑠奈は「あ、お姉ちゃん」と呟き、怒られると思ったのか肩をすくめて下を向いた。


「探したぞ! ってあれ? 友達も一緒?」


 ゼロが小さく頭を下げると、その少女――一香はニッと笑う。


「ごめんね、チビが迷惑かけちゃって。助けてくれたんだって? ありがとね」


 褐色の肌と短い髪が、彼女の活発な性格を物語っていた。


 「お友達なので」とゼロも微笑み返す。


「でも凄いな。この子が助けてもらったって聞いた時は陰陽師かと思ったけど、まさか小さい外国人さんだったなんて」

「がいこくじん?」

「日本じゃない国から来た人のこと。名前はなんて言うの?」


 ゼロが答えを迷っていると、瑠奈が一香に耳打ちする。一香は全てを聞き終えると、口元に手を当てて目を細めた。


「そうだったのか……ごめんね」

「良いですよ、慣れてるので」


 ゼロの静かな一言に、一香は優しく笑い、「私は谷一香。何か困ったことがあったら、いつでも家に来い」とゼロの頭を撫でた。その温かい手に、アシュリーの面影を感じたゼロは、思わず口元が緩む。


 それから三人は公園で遊び始めたが、一香と瑠奈が並ぶ姿を見ると、血の繋がりがないことが一目で分かった。一香が陰陽師だと知り、ゼロは「レプリカチャイルド」について尋ねてみる。だが、一香も「聞いたことないな」と首を振る。


「でも、もし気になるなら陰陽師アカデミーに来なよ。図書館に何か関連する本があるかもしれない」


 その言葉に、ゼロの心がざわついた。長年の勘が働いたのだ。踏み込んではいけない境界線が、そこにあるような気がした。細胞が危険信号を発し、首を振ってその話題を避ける。


「でも、なんで瑠奈はこの写真をずっと持ってるの?」

「お友達が、そこにいた気がしたから」


 瑠奈の答えに、一香の顔に一瞬影が落ちる。だが、ゼロの視線に気づくとすぐ笑顔に戻した。


「友達が、ね」


 一香のその一瞬の表情に、ゼロは何か重要なことを知っていると確信し、目を細めて「そう」と呟く。心の中は複雑だった。瑠奈を助けたい気持ちと、再びあの地獄のような現実に引き戻されたくない恐怖が、胸の中で激しくぶつかり合う。


「もしかして強くなりたいのって、この船を探すため?」


 瑠奈が無言で頷くと、ゼロの心に嫉妬が芽生えた。自分にはないものを持っている瑠奈への羨望が、思わず言葉を零す。


「私より強いよ、瑠奈は」


 その言葉に、自分を否定するような苛立ちを感じ、深呼吸で感情を抑えた。


「人を信じて、優しくできるのは、勇気がいる。その勇気は力よりも偉大なものだよ。私は力に溺れた人間の末路を見てきたから分かる。真の強さが何か。でも、お願いだからやめて。瑠奈がやろうとしてることは、もしかしたら世界を敵にすることになる」


 ありきたりな言葉だが、ゼロの声には経験に裏打ちされた力強さがあった。一香は目を細め、彼女が同じ土俵に立っていた者だと感じ取る。一香には、写真を見つめるゼロの葛藤が痛いほど伝わった。


「君も慎重に考えた方がいいよ。せっかく普通の生活が送れたんだから」


 一香が肩に手を置くと、ゼロはその瞳に全てを見透かされている気がして言葉を失い、ゆっくり頷く。


「キミも強い。でも自分を大切にしな。そういうのは陰陽師アカデミーの私たちに任せてさ!」



 一方、リコリスたちのいる街から少し離れた入江市では、イレナがひとり佇んでいた。


 あの夜の後、ヤナガから受け取った写真を手に、彼女は探偵事務所を片っ端から訪ね歩いていた。だが、真面目とは程遠い性格のイレナは、「まだ時間はある」と自分に言い訳し、休憩時間の方が長くなっていた。


 ベンチに腰を下ろし、背もたれに凭れる。オレンジ色に染まる夕空を見上げ、「もう夕方ねぇ」と呟く。風が髪を揺らし、遠くの木々が「サワサワ」と囁き合う。


 その時だった。視界の端を、翼竜の影が「スッ」と横切る。イレナは思わず立ち上がり、目を凝らす。微かだが確かに感じる魔力が、記憶の奥を引っ張り出した。


「あれって……ハールスにいた時のファフニールじゃない?」


 イルマが「逃げた」と言っていたあの存在が、なぜこんな場所に? 疑問よりも先に、「ここで派手に暴れられたら困る」という危機感が身体を動かした。


「今、天界に異物が紛れ込んだと知られたら、他のバグも消去される!」


 つまり、ファフニールと同じくハールスから来た自分たちも、抹消されるということだ。 ――殺さなきゃ。


 イレナの瞳に冷たい決意が宿る。写真を握り潰すように手に力を込め、彼女は夕闇の中へと走り出した。


 風が「ヒュウッ」と耳元で唸り、遠くでファフニールの咆哮が低く響く。


 ゼロと瑠奈が公園で向き合う一方で、イレナの戦いが別の場所で始まろうとしていた。船の写真が繋ぐ糸は、それぞれの運命を複雑に絡ませていく。夜が更に深まり、静寂の中、川の音だけが不気味に響き続けていた。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

もし宜しければ、

『ブックマーク』と広告下の【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にしていただけますと嬉しいです!

あと、私自身の勉強の為にアドバイスなど頂けるのと幸いです。


皆様の応援が、本作の連載を続ける原動力になります!

どうか応援をよろしくお願いします!

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