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少女と少女は鏡面世界をさまよう  作者: 江戸前餡子
第三章•少女の解放
31/44

29・現実という悪魔

「いつから寝ていたんだろう。その前に何があったのか、なぜこんな状況になっているのか……そして、この頭に突然溢れてくる情報は一体何なんだ……?」


 少女はズキズキと脈打つ頭痛に耐えきれず、両手でこめかみを押さえながら呻いた。目の前で渦巻く処理しきれない状況に、どこから言葉を紡げばいいのか分からず混乱する。


 風がそっと髪を揺らし、遠くで鳥のさえずりが聞こえる中、彼女の心は嵐のように乱れていた。やがて、思考をまとめるのを諦め、力なく首を振った。


「おはよう」


 突然、目の前に立つバルトロが柔らかな笑顔でそう言った。その声は、いつもの流れるようなエルフ語ではなく、どこか懐かしく響く日本語だった。少女は一瞬耳を疑い、目を瞬かせる。自分がその違和感に気づいたことに驚き、「まだ夢でも見ているのか?」と小さく呟きながら頬をつねってみた。すると、鋭い痛みがピリッと走り、彼女は思わず顔をしかめる。「どういう事です?」と、周囲を見回した。


 薄暗い部屋の中、段ボールの壁が微かに揺れ、外から漏れ聞こえる風の音が妙にリアルに感じられた。目の前では、バルトロとアヌトリュースが楽しげに笑い合っている。


「みんなで日本語のお勉強をしていたんだよ!」


 アヌトリュースが明るく言うと、バルトロが頷きながら続ける。


「そうそう、君に誘われてね」

「え?」


 少女の声は小さく掠れた。頭の中で何かが引っかかる。アヌトリュースが差し出した日本語の本を手に取ると、その表紙に見覚えがあるような、ないような……


 曖昧な記憶がチラつき、彼女の眉が寄る。確かに見たことがある気がする。でも、それがいつ、どこでなのか思い出せない。自分が自分でないような奇妙な感覚が胸を締め付け、彼女は違和感を無理やり飲み込むように「あぁ……そうだった」と曖昧に誤魔化した。


「私はいつまで寝てましたか?」


 少女はそっと尋ねた。声には不安が滲み、指先が無意識にスカートの裾を握り潰している。


「いつまで?」


 バルトロとアヌトリュースは顔を見合わせ、くすくすと笑う。


「だいたい数時間かな。」

「数時間……ダンボールの家で」


 少女は首を傾げ、目を細めた。


 あれ? なぜこの茶色い物質が"ダンボール"だと分かるんだろう? 


 頭の中でその単語が自然に浮かんだことに、自分でも驚きが隠せない。後ろを振り返ると、そこにはリコリスが気持ちよさそうに寝息を立てて横たわっていた。その穏やかな寝顔に、少女の心は少しだけ落ち着きを取り戻す。


 吐息がふっと漏れ、肩の力が抜けた。


「バルトロさんは今何してるんですか?」


 少女は視線を戻し、バルトロに尋ねた。


「僕は飯田組っていう組織で、カラクリの制作を手伝っているんだよ。今日は休みだけどね」


 バルトロはどこか誇らしげに胸を張る。


「カラクリ?」


 少女の声に好奇心が混じる。


「そう、カラクリは僕らの世界で言うゴーレムの事だよ」


 バルトロは目を輝かせて説明した。


「なら、あの実験資料を使ってるんですか?」

「いや、世に云われてたバルトロの書は、クローンや人造人間を創るための錬金術で、人形はまた別だよ。まあ、書で使えそうな技術は少し応用してるけどね」


 バルトロは軽く肩をすくめて笑った。


 その言葉に、少女の顔が曇る。瞳の奥に暗い影が差し、唇が小さく震えた。


(結局、どこへ行っても争いが消えることはないのか……)


 心の中でそう呟き、彼女は無意識に拳を握りしめる。爪が掌に食い込み、微かな痛みが現実感を呼び戻した。


「人々が必死に生きている以上、争いは必ず生まれる。争いのない場所は、もう天国しかないだろうね」


 バルトロの声は穏やかだったが、その言葉は少女の胸に重く響いた。


「この世界は何と戦っているの?」


 彼女は目を伏せ、低く尋ねた。


魑魅(すだま)とかいう怨霊みたいだよ。写真で見せてもらったけど、あれは魔物みたいな原型をとどめた綺麗なものじゃない。ヘドロに近いね」


 バルトロの口調に軽い嫌悪が混じる。


「そう……なんですね」


 その言葉を聞いて、少女の脳裏にフラッシュバックが走る。初めてリコリスと出会った時の記憶だ。


 薄暗い路地裏、助けを求める女性の叫び声、そして目の前に現れたあの化け物――ドロドロと蠢く黒い影、異臭を放ちながら這い寄る姿。あれがきっと「魑魅」という怨霊なのだろう。彼女の指先が冷たくなり、心臓が早鐘を打つ。


 だが、同時に別の感情が芽生えた。人同士が争っているわけではないと知り、彼女は小さく息をつく。胸をそっと撫で下ろし、緊張が解けるのを感じた。その横顔に、バルトロは優しく微笑みかける。


 「外に出てみない?」と、大きな手で彼女の頭をポンと撫でた。


「何するんですか?」


 少女は少し驚いて顔を上げる。


「なーに、歩きながら決めよう」


 バルトロはいたずらっぽく目を細め、ポケットからコッソリと可愛らしい花柄の財布を取り出す。


「ここだけの話、お金あるからね」


 そう言ってウインクした。


 それを見ていたアヌトリュースが慌てて声を上げる。「あわわ!それ新菜さんのだよぉ! 怒られるよ、返しに行こうよぉ!」と、バルトロにまとわりつきながら説得する。その必死な様子に、バルトロは悪戯っぽく笑い声を立てた。


 その光景を眺めながら、少女の脳裏に懐かしい記憶が蘇る。アシュリー、バルボラ、クレア、クラーラと囲んだ食卓。笑い声が響き合い、温かいスープの香りが漂うあの時間。思わずクスリと笑みがこぼれ、胸の奥がじんわりと温かくなった。あの頃に戻ったような、そんな感覚が彼女を包み込む。


「笑った!」


 バルトロとアヌトリュースが同時に声を揃え、目を輝かせた。


「外に出ましょう、バルトロさん」


 少女は小さく頷き、立ち上がった。風が頬を撫で、外の光が彼女の瞳に映り込む。少しだけ、心が軽くなった気がした。



 三人がのんびりと散歩を始めた頃、新菜は学校の廊下を気だるそうに歩いていた。月曜日の重苦しい空気が肩にのしかかり、背筋が自然と曲がる。大きなあくびが一つ漏れ、彼女は眠そうな目を擦った。制服の裾が少し乱れ、足音がタイルに鈍く響く。


「なんで綾までいるのよ」


 新菜は隣を歩く綾にぼやいた。声には苛立ちが滲んでいる。


「あら、わたくしも呼ばれたんですの。不満なら伊吹先生に言ってくださいまし」


 綾は優雅に髪をかき上げ、涼しい顔で返す。


「っつたく……あの先生、苦手なのよ。目つきも悪いし」


 新菜は顔をしかめ、眉を寄せた。


「ふふふ、今の貴女も十分に目つき悪くてよ」


 綾は口元に手を当てて小さく笑う。


「そりゃどーも」


 新菜は投げやりに返し、肩をすくめた。


 二人は伊吹の部屋の前まで来ると、一度立ち止まり、制服の襟を整える。新菜が軽くノックすると、ドアがギィッと軋む音を立ててゆっくり開いた。


 目の下にくっきりとクマを刻んだ伊吹が現れ、「あぁ、もう朝なのか」とボサボサの髪をかきむしりながら二人を招き入れる。


 部屋の中はカオスだった。床にはプリントや本が積み重なり、まるでビル群のようにそびえ立つ。足の踏み場もないほどの散らかり具合に、新菜と綾は思わず顔を見合わせる。


 伊吹は「ほれ、早くドア閉めてこっちに来い」とぶっきらぼうに言い、客席用のソファの上に散らばった紙束を乱暴に払いのけて二人を座らせた。冷蔵庫から取り出した緑茶のペットボトルをドンとテーブルに置き、彼は話を始めた。


「聞きたいことがあってね。この頃、子供が高ランクの魑魅を倒してるんだ」

「はあ」


 新菜の返事は気のないものだった。ペットボトルの表面に水滴が浮かび、冷気が微かに手に伝わる。


「それも一人で。いつも仮面をつけて戦ってるから、素顔を見た者はいない」


 伊吹の声が低く響き、部屋に重い空気が漂う。


「レプリカチャイルズでは?」


 綾が冷静に尋ねた。


「いや、あの計画はまだ完成品を一体も出してない。きっと陰陽師じゃない人間だ」


 伊吹は首を振る。


 陰陽師ではない子供が、高ランクの魑魅を一人で倒す。その言葉だけで、新菜と綾の頭に一人の人物像が浮かんだ。だが、新菜の胸には疑問が渦巻く。


 本当にそうなのか? 


 普段は人の目もまともに見られないほど大人しい子が、ラムネを使っただけでそんな大胆な行動を取れるものなのか。そもそも、ラムネの使用者は戦えなくなるはずだ。それなら、この仮面の子供はラムネを使っていない別の存在――潜在的に強いだけの陰陽師ではないのか?


 新菜は顎に手をやり、考え込む。眉間に深い皺が刻まれ、唇が固く結ばれた。隣で綾は「あいにく私達はその子を知りませんわ」と肩をすくめてみせるが、その瞳には一瞬の迷いがあった。新菜を横目で見て、何かを察した彼女は敢えて嘘をついたのだ。


「そうか。まぁ、これは任務じゃないが、仮面の子供を見つけたら尾行してほしい」


 伊吹は淡々と続ける。


「何故ですか?」


 新菜の声に鋭さが混じる。


「陰陽師不足だからに決まってんだろ。SランクやAランクの魑魅を一人で倒すほどの実力者は、もうこの時代には片手で数えられるほどだ。陰陽師アカデミーに入学させたいのさ。校長もそう考えてる」


 伊吹はテーブルに数枚の写真を広げた。暗闇の中で仮面をつけた小さな影が映っている。新菜の視線が写真の左下に注がれる。年月日と時刻が記されていた。


「決まって夜にその子供は行動してる。写真の時刻を見てみろ。他のも同じだ」


 伊吹は目を細め、新菜の顔をじっと見つめた。


(完全に私が何か知ってると思い込んでるな)


 新菜は内心で舌打ちしつつ、その視線を正面から受け止める。


「何故私に?」


 睨み返した。


「新菜は異世界帰りだろ? 実はこの子、札を使わずに倒すんだ。」

「だから異世界帰りの私なら、何者か分かる、と?」


 新菜の声に皮肉が滲む。


「理解が早い学生は嫌いじゃないよ。どうだ? ただでやれとは言わない。報酬はランクポイント4000で」


 伊吹はニヤリと笑った。


 ランクポイント――陰陽師のランクを上げるための貴重なポイントだ。魑魅の討伐依頼以外で手に入ることは稀で、4000ポイントはSランク一体分の価値に匹敵する。新菜の瞳が一瞬揺らぎ、警戒心がさらに強まった。この任務がどれほど重要視されているのか、そしてどれほど危険を孕んでいるのかが手に取るように分かった。


 少女の望みは普通の生活だった。あの子を普通の世界に残すために別れたのだ。なのに、自分の手でその子を再び異常な世界に引き戻す可能性があるなんて――絶対に避けたかった。あの子は帰れる保証もないのに自分を日本へ送ってくれた。その恩を裏切るようなことはしたくない。新菜の拳が膝の上で固く握られ、爪が掌に食い込む。


「でも、もし尾行したとして、それからどうするんですか?」


 彼女は冷静を装って尋ねた。


「一回陰陽師アカデミーに来ることを伝えてくれ。きっとそれで理解してくれるだろう。なんたって、わざわざアカデミーの学生を救ってから魑魅を倒すのだから」

「救ってから!?」


 新菜の声が裏返り、驚きが顔に溢れる。なぜそんな目立つ行動を取るのか、理解が追いつかない。


「そう、何かしら意味があるんだろう」


 伊吹は平然と答えた。


(そんな単純な話ならいいけど……)


 新菜の頭には別の可能性が浮かぶ。もしこの仮面の子供があの少女だったとしたら。飯田組とも繋がっているかもしれないし、組の企みが絡んでいる可能性だってある。彼女の胸が締め付けられるように疼いた。


「そうですか」


 新菜は感情を押し殺し、短く返した。


 伊吹は手のひらサイズのデジタルカメラを二人に差し出し、最後にこう忠告した。


「敵かもしれないから油断するな。少しでも攻撃するそぶりや発言があったら逃げろ。Sランクの魑魅を一瞬で殺すほどの実力者だ、勝てないぞ」


 その言葉に力強い眼差しが添えられ、新菜と綾を見つめた。



 話が終わり、部屋を出た二人は廊下で顔を見合わせる。


「わざわざ学校支給の携帯じゃなくてカメラを渡すなんて、絶対普通じゃないですわ」


 綾がめんどくさそうに口を尖らせた。


「貴女、夜は苦手ですものね〜」


 新菜は綾の口調を真似て茶化し、軽く笑う。


「だまらっしゃい!でもどうしますの?写真の日付を見るに、毎晩活動してましてよ?」


 綾が眉を寄せる。


「分かってるわよ。幸い学生は相当なことがない限り22時以降の活動を禁じられてるから、それで隠すしかない」


 新菜は肩をすくめた。


「ですわね」


 綾はふと見せた新菜の思い詰めた顔を見て、そっと背中を叩く。


「私達は自由を、普通を憧れていた者だからこそ、今は気張らなきゃいけなくてよ!誰かの自由は誰かの不自由によって生まれる産物なのだから」


 そして最後に「陰陽師なのだから」と付け加え、もう一度背中を叩いた。


「分かってるわよ」


 新菜は力強く綾の背中を叩き返し、決意を込めた目を向ける。二人とも、この先に待つ過酷な現実を予感しながら、それでも前に進む覚悟を固めていた。



「日本のパンは美味しいですね。オストラン帝国のパンとは全然違います」


 少女は手に持ったふわふわのメロンパンをかじりながら目を輝かせた。甘い香りが鼻をくすぐり、口の中で溶けるような食感に頬が緩む。


「戦争があるのかないのかで、ここまで食べ物も変わるんだねえ。僕、幸せだな~」


 アヌトリュースは大きなおにぎりを頬張りながら満足そうに目を細める。米粒が口元にくっつき、バルトロが笑いながらそれを指差した。


「こりゃ元の世界に帰れなくなっちゃうな」


 バルトロもパンをちぎって口に放り込み、幸せそうに頷く。


 新菜たちが気合を入れている一方で、三人は公園のベンチに腰掛け、パンやおにぎりを次々と頬張っていた。風が木々を揺らし、葉擦れの音が心地よく響く。空は澄み渡り、遠くで子供たちの笑い声が聞こえてくる。少女の手元には袋いっぱいの食べ物が広がり、視線はそこから離れることなく、一心不乱に味わっていた。


 ハールスで食文化が最も進んでいたのは日本人がいた人族だったが、過酷な環境と乏しい調味料のために、他の種族と比べて飛び抜けていたわけではなかった。オストラン帝国軍に至っては、素材を焼くか生で食べるかのシンプルな食文化しかなく、加工するという発想自体が希薄だった。だからこそ、この国の料理――ふわっとしたパンやほのかに塩味の効いたおにぎり――は、初めて口にした瞬間、言葉にできないほどの衝撃と喜びを与えた。


「バルトロさん、あれはなんていう遊びですか?」


 少女は遠くで子供たちがはしゃぐ声に目を奪われ、バルトロの袖をそっと引っ張った。指差す先では、色とりどりの服を着た子供たちがボールを追いかけて走り回っている。


「ん? あぁ、あれはボール遊びだよ。蹴ってるからサッカーをしてるんだね」


 バルトロは優しく説明する。


「さっかー?」


 少女の声に純粋な好奇心が滲む。


「ボールを蹴って、相手の守ってるゴールって場所に入れた方が勝ちってルールだよ」


 バルトロは笑顔で補足した。


 少女がじっと見つめていると、子供たちの一人が彼女に気づき、「こっちに来てあそぼー!」と元気よく手を振って駆け寄ってきた。ボールを持った少年の笑顔が太陽のように眩しく、少女の胸に小さな波が立った。


 孤独だった少女にとって、これは夢にまで見た光景だった。見ず知らずの自分に笑顔で話しかけてくる子供たちに、彼女は一瞬警戒心を抱き、どう答えたらいいのか分からず固まる。


 足が地面に根を張ったように動かず、心臓がドクドクと鳴った。だが、その時、背中に温かい感触が広がる。バルトロの大きな手がそっと彼女を押したのだ。


「行っておいで。あの世界とは違うから」


 彼の声は穏やかで、安心感に満ちていた。


「そう、ですね……そうですよね! ありがとうございます、行ってきます!」


 少女は持っていたあんぱんを急いで口に押し込み、弾けるように駆け出した。その背中に、バルトロは「良かったね」と呟き、目を細める。


「住む場所が人を変える。本当にこの世界はあの子にとって楽園なのかもね」


 バルトロの声に感慨が滲む。


「だねえ。これが普通ってものなのかぁ、僕もあの世界には帰りたくないかも」


 アヌトリュースは頷きながら、空を見上げた。


 少女は息を弾ませ、ボールを追いかける。初めて知ったのだ。走ることがこんなにも楽しいなんて。風が髪を乱し、地面を蹴るたびに土の感触が足裏に伝わる。笑い声が耳に響き、心が軽くなった。


「足早いんだね!」


 一人の男の子が驚いたように叫ぶ。


「ほんと! 男の子より早いの凄い! 何かスポーツしてたの?」


 別の子が目を丸くして尋ねた。


「すぽーつ?」


 少女は首を傾げ、初めて聞く言葉に戸惑う。


 いつも人の言葉の裏を読んで生きてきた彼女にとって、子供たちの裏表のない素直な言葉は新鮮で、安心できた。照れ臭そうに笑うと、頬が熱くなるのを感じた。


「ねえ! なんていう名前なの?」


 一人の女の子が無邪気に尋ねる。


「なまえ……」


 少女の笑顔が一瞬凍りついた。


「貴女の名前はなんて言うんですか?」


 その女の子がニコッと笑う。


「私は谷 瑠奈(たに るな)


 彼女は自分の名前を誇らしげに告げた。


 名前。アシュリーにその意味を教えてもらったことがあった。自由になった自分にそんなものが必要なのかと考える一方で、リコリスには名前があるのに、自分にはない。その事実に、少女は自分が普通ではないことを突きつけられたような気がした。


 胸が締め付けられ、視界が一瞬揺れる。


「俺は健太(けんた)!よろし――」


 その瞬間、少女の背筋に冷たい悪寒が走った。


「みんな逃げて!」


 彼女は反射的に男の子を突き飛ばし、叫んだ。


 地面に倒れた少年の驚いた顔も見ず、悪寒の原因に目を向ける――


―― そこには魑魅がいた ――


 四本足で這うドロドロとした化け物。黒いヘドロのような体が蠢き、地面を這うたびにズルズルと不気味な音を立てる。異臭が鼻をつき、少女の胃が締め上がった。彼女は反射的に手の平を向け、力を呼び起こそうとする。だが、いつもなら掌に沸き上がる熱い感覚がない。焦りが胸を締め付け、額に冷や汗が滲む。


 大地を蹴り、こちらに突進してくる魑魅。少女は動けなくなった瑠奈を腕に抱え、咄嗟に横に飛び退いた。ドンッと地面が揺れ、背の高い砂煙が舞い上がる。その煙の中に、魑魅の姿が消えた。


「大丈夫ですか、谷さん?」


 少女は息を切らせながら瑠奈に尋ねる。


「だ、だいじょうぶ……」


 瑠奈の声は震え、小さな手が少女の服をぎゅっと握った。


「私から離れないでくださいね」


 少女は格好良く言ってみたが、内心は余裕などなかった。呼吸が乱れ、心臓が喉から飛び出しそうに激しく脈打つ。


 本当は使いたくなかった。あの辛い記憶が蘇るからだ。頭の中でフラッシュバックが炸裂し、叫び声と血の臭いが甦る。だが、バルトロたちに助けを求めるのも無理だ。詠唱の間にやられるのが目に見えている。恐怖が足を震わせ、手先が冷たくなる。少女は己の運命を呪った。


「大事な友達を助けなきゃ。今は、今だけは、お願いだから動いて」


 震える声で自分に言い聞かせ、彼女は人差し指を突き出した。


「あの時とは違う、あの時とは違う、あの時とは違う」


 歯がガチガチと鳴り、必死に魔法陣を脳内で構築する。頭の中で光が点滅し、複雑な紋様が浮かび上がった。


 煙の壁を突き破り、魑魅が再び姿を現す。距離は僅か。振り上げた手が少女に届くほどの近さで、瑠奈は小さな背中に顔を埋め、「もうダメだ」と目を閉じた。


「アシエ・ランプ」


 願いにも似た震えた声が響き、少女の指先から無数の鋭利な鋼の塊が迸った。キィンという金属音と共に、それは風を切り裂き、魑魅に襲い掛かる。黒い体がズタズタに引き裂かれ、ドロリと溶けるように消えた。静寂が公園を包む。


 バルトロとアヌトリュースは、その魔法の速さに息を呑んだ。


「あの、これは……」


 少女は青ざめた顔で後ずさる。見せてしまった。皆があの大人たちみたいに異端児扱いするのではないか。恐怖が心を支配し、足が震えた。「違うの、これは違うの」と小さく呟く。


 だが、その感情は一瞬でかき消された。瑠奈たちの歓声がドッと沸き上がったのだ。


「え?」


 少女は目を丸くする。


「凄い! 魑魅をやっつけちゃうなんてカッコイイね! 陰陽師だったりするの?」


 一人の子が興奮して叫ぶ。


「カッケ―! 札も使わずに戦うなんてどうやってるの!」


 別の子が目を輝かせる。


 戦うことで感謝されたことなどなかった。少女は戸惑いながらも、胸がこそばゆくなり、口元が緩む。


「助けてくれてありがとう。これ、お礼」


 瑠奈が差し出したのは、ピンク色に透き通る丸い何かだった。


「綺麗……ですね」


 少女はそれを見つめ、そっと呟く。


「私の宝物! 本当にありがとね、魔法使いさん」


 瑠奈の笑顔が眩しい。


 「ありがとう」その言葉が胸に響き、目頭が熱くなった。


――あぁ、生きてきて良かった――


 少女は渡された宝物を両手で抱きしめた。


 良かった、良かった。


 心が温かさに包まれる。だが、現実という無慈悲な悪魔は、彼女を残酷な運命へと突き落とすのだった。



「今の魔力……」


 遠くにいたフランカがその力を感じ取り、空を見上げて呟いた。風が彼女の髪を揺らし、遠くの空に暗い雲が広がる。


――ナターシャに連絡しなきゃ――


 彼女の瞳に決意が宿った。

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