27・アカデミー
暖かな朝日が差し込む部屋の中、新菜は小さな木製の机を囲んで、バルトロとアヌトリュースに日本語を教えていた。彼女の手元では、墨の香りが漂う筆が紙の上を滑り、「あ」という丸みを帯びた文字が描かれる。窓の外からは、かすかに鳥のさえずりが聞こえ、静かな朝の空気を柔らかく揺らしていた。
「これが"あ"ね」と新菜が穏やかに言うと、バルトロが目を細めて頷き、アヌトリュースが首をかしげながら呟いた。「なるほど、あ、か……日本の文字って丸っこくて可愛いね」。その無垢な声に、新菜はクスッと笑みをこぼす。だが、その笑顔の裏には、朝早くに鳴った電話の記憶がチラつき、心のどこかに小さな波紋を広げていた。
「なんで組のヤツから電話あったんだろ……」
新菜が独り言のように呟くと、アヌトリュースが目を丸くして聞き返す。「ねぇ、くみってなんなのぉ?」。その無邪気な質問に答えようとした瞬間だった。外から、ガラガラと喉を震わせるような野太い声が飛び込んできた。
「おーい!新菜!チビを送ってきたけど、話があるから降りてこい!」
その声は、まるで古い木戸を蹴り開けるような乱暴さで静寂を切り裂いた。新菜は眉をひそめ、「やれやれ」と肩をすくめて「あぁいうガラの悪い人のことよ」と苦笑いを浮かべて、アヌトリュースに説明した。
彼女の声には呆れと慣れが混じり合っていたが、同時にどこか温かみが感じられた。
玄関のドアをギィッと開けると、そこには小太郎が立っていた。陽に焼けた顔に鋭い目つき、乱れた髪を無造作にかき上げながら、彼は舌打ちを一つ。
「相変わらず陰陽師を嫌うんだな、この寺は」
その言葉に鼻を鳴らすように吐き捨てると、彼の後ろに隠れていた少女――彼が「チビ」と呼ぶ少女――の頭をゴツい手でポンと叩いた。
「新菜お姉ちゃんにごめんなさいって言いな」
さっきまでの荒々しい語気が嘘のように柔らかくなり、まるで父親のような優しさが滲む。
小太郎の手が少女の髪を乱雑に撫でると、頭皮に感じるその熱と力に、少女は思わず肩をすくめた。新菜はそんな様子を見て、口元に小さな笑みを浮かべる。
「やっぱり小太郎兄さんって子供の扱いが上手いよね」
その言葉に、小太郎は目を細めて彼女を見返す。
「なぁに呑気なこと言ってんだよ――」
だが、少女が近くにいることに気づいたのか、彼の言葉が途中で止まる。視線がチラチラと彼女の方へ泳ぎ、口が何かを伝えようとパクパク動くが、結局言葉にならない。その不器用な仕草に、新菜は小さくため息をついた。
「少しこのお兄さんと話があるから、2階に行ってなさい」
彼女は穏やかに、だが有無を言わさぬ口調で少女に告げた。彼女は小さく頷き階段をトントンと上る音が遠ざかると、小太郎の表情が一変して、新菜に鋭い視線をぶつけた。
「で?あの子をどこで見つけた?」
その声は低く、まるで刃のように鋭い。新菜は一瞬目を逸らし、キュッと服を握ってから口を開く。
「ほ、ホームステイよ」
その言葉があまりにも唐突で、小太郎の眉がピクリと跳ねた。嘘だと気づいた。小太郎の胸の奥で、何かがザワザワと動き始める。
「なら今すぐ母国に返せ。あの子、酷く精神が不安定だ。いつ暴れ出してもおかしくないし、力だって新菜以上だ。翠の婆ちゃん以上と言ってもいいぐらい」
小太郎の声が低く響き、重い空気が玄関に沈殿する。新菜は唇を噛み、目を細めた。
「母国に返すなんて無理よ」
その言葉に、小太郎の表情が硬くなる。
「まさか、施設か病院にでも送るつもりか?」
声に怒りが滲み、新菜の心臓がドクンと跳ねた。彼女は首を振る。少女を知っているからこそ、一緒にいたいという気持ちが胸を締め付ける。
「ホームステイって嘘だろ?あの子に使ってた言語、聞いたことねぇよ。大方異世界からの拾い物なんじゃねぇか?周りには言わねぇから、な?長い付き合いだろ。本当のことを言ってくれ。俺にとってお前は妹同然だから、力になりたいんだよ」
小太郎が両肩に手を置き、額を下げて懇願する。その真剣な眼差しに、新菜の心が揺れた。幼い頃から世話になった彼への信頼が、彼女の口を動かす。
「絶対に言わないでよ」
そう釘を刺し、彼女は少女の全てを語り始めた。
語られた話はあまりにも想像を超えていた。小太郎は驚愕に目を見開き、オールバックの髪を無造作に撫でながら、「ファンタジー映画かよ」と呟く。その声には呆れと困惑が混じり、新菜はそれを予想していたかのように黙って見つめた。
「まあなんだ、特別な理由があるから施設とかに入れたくないんだろ?」
「そういうこと」
「なら俺の知り合いに精神科で働いてるヤツがいる、そいつに頼むってのはどうだ?」
「信用できるなら……」
小太郎は頷き、「あの肌の色と耳の形を変えれば、ホームステイって嘘も通用するだろうし」と提案した。
新菜は耳の形に頭を悩ませていたが、彼の言葉に希望を見出す。
「耳の形はいくら考えても思いつかなくて」
その呟きに、小太郎は「整形が早いだろうが、薬って方法もある。こっちでも調べてみるさ」と請け負った。自分にメリットがないのに助けてくれる小太郎の姿に、新菜の胸が温かくなる。
「とりあえずあいつに会うときは、ヘッドホンとニット帽で耳を隠しておけよ。今から予約してみるから少し待ってな」
そう言い残し、彼が玄関を出る際、ドアに肩をドンとぶつける姿に、新菜は「まったく」と笑みをこぼした。
ポケットから取り出した携帯でゲームをしながら待つこと一時間。小太郎が舌打ちをしながら戻ってきた。
「今からあの子を連れてアカデミーに向かえ。名前は武田新、精神科の先生だ。新も魔法について語るかなりの変わり者だから、あの子の力になってくれるかもしれない」
「力にねぇ」
新菜の声には不安が滲む。武田新の名は、陰陽師の間でも知れ渡っており、戦いで傷ついた者を専門とする稀有な医者だ。だが、彼女の不安は彼ではなく、少女に向けられていた。
自分と話すのも精一杯な少女が、他の人と目を合わせられるのか。新菜の心に影が差す。
「そんな子が医者に見てもらうなんて」
だが、翠が私を追い出そうとしている以上、悠長に策を練る時間はない。彼女は気乗りしないまま、小太郎から連絡先を受け取り、私の手を引いてアカデミーへと向かった。
「ここ……どこ?」
アカデミーの前に立つと、私は新菜の手をギュッと握り締めた。目の前には、灰色の石壁がそびえ立つ古びた建物。まるで昔自分を閉じ込めていた忌々しい城のような威圧感に、少女は足がすくむ。
「いきたく……ない」
その小さな声が震え、新菜の足を止めた。少女は道端にしゃがみ込み、膝を抱えて動かなくなったのだ。
「これが最強ねぇ」
新菜は苦笑いを浮かべ、そんな彼女を抱き上げる。フニャフニャと抵抗する少女は小さく震えていた。
休日の校舎は静まり返り、足音がコツコツと冷たい石の廊下に響く。新菜は内心で安堵していたが――その安堵は一瞬で砕けた。
「あらあら、可愛らしいお姫様なこと」
階段をカツカツと下りてくる音とともに、綾が現れた。彼女の声は甘く、だがどこか冷たく響く。新菜の顔が一瞬で強張り、「ゲッ」と声が漏れた。
「何ですの?ゲッて」
綾が目を細めると、新菜は慌てて誤魔化す。
「いや、何でもないけど、飯田さんこそどうしたの?休日でしょ?」
綾の視線が少女に注がれる。その真剣な眼差しに、少女は新菜の背後に隠れ、彼女の服をギュッと掴んだ。
「誰ですの?」
綾が顔を近づけてくる。少女は肌の色を変え、耳をニット帽とヘッドホンで隠していたが、その不自然さが逆に目立つ。新菜は焦りを隠しながら答えた。
「私の家にホームステイしてきた女の子だよ。通ってる学校が知りたいみたいで~ほら、あれよ!」
新菜は絶望的に嘘が下手すぎた。故に、綾は「ホームステイねぇ……」と呟き、廊下が誰もいないことを確認してから、新菜に耳打ちした。
「異能を使えるんでしょ」
その言葉に、新菜の心臓がドクンと跳ねた。
「わたくし、昨晩助けてもらったんですの」
綾が少女を見つめる。その瞳に、見つめられた彼女は小さく震え、眉を寄せた。
「異世界帰りの、ましては人神武装主義の組娘が異能持ちの小さな子供と一緒。誰でも怪しみますわ」
綾の言葉に、新菜の苛立ちが募る。
「ここまでしても私を監視しを続けるのね。ならどうしたらいいのかしら」
彼女は挑発するように言い放つが、綾は冷静だった。
「今の私は飯田家として話してるんじゃありませんわ。ただその子の事を知りたいだけ」
言葉に偽りはない、純粋の言葉に新菜は警戒した。彼女は腰のホルスターに手をかけ、逃げ出したくなる衝動を抑えた。
「その子と戦いたい」
綾が冷たく言い放つ。新菜の怒りが爆発した。
「アンタ何!?正気!? 何でこんな弱ってる子と戦うのよ!大体、昨夜助けてくれた子ってのも絶対人違いよ!ふざけるのも大概にしなさいよね!」
声が廊下に響き渡るが、綾は動じない。
「この頃階級の高い魑魅が出てきてるのはご存知?貴女の通ったゲートが深い関わりを持ってるって、陰陽師の中で話になってるの。もし――」
―― その子が関係あるなら、陰陽師たちは狙うわ。私は恩人を助けたいだけ ――
綾の言葉に嘘はない。新菜は迷った末、少女を下ろし、向き合った。
「ごめんね、戦わせたくなかった。でも、この世界で平和に過ごしたかったらアイツと仲良くしといたほうがいい。きっと守ってくれるから」
新菜が少女を抱きしめると、少女は震えながら「いっ、痛くない?」と呟いた。
「大丈夫よ」
綾も微笑み、「軽い組手だと思えば結構ですの」と優しく言った。
〇
決闘場は薄暗く、天井に浮かぶ無数の白いロウソクがチラチラと揺れ、線香の香りが鼻をくすぐる。中央の細長い舞台に、綾と少女が立つ。
新菜は「この部屋ってこうなってたのね~」と呟きながら見渡すが、不安げな少女の目は別の人物に釘付けだった。
「君、長塚小太郎が紹介していたって子かい?」
武田新が満面の笑みで立っていた。
「はあ……ってもしかして武田新さんですか!?」
新菜が驚き、彼は「導きさ」と意味深に答えた。
「それにしてもあの子、相当不安定だ。もしかしたら飯田君を殺すかもな」
その言葉に、新菜は慌てて手を振る。
「逆にあの子が殺されますよ、こんなのフェアじゃない」
だが、新は私を見て口角を上げた。
「それはどうだか」
綾がルールを説明する。「技は軽傷程度で、降参か舞台から落ちたら終了。リタイアは舞台から降りること」
少女がコクコク頷くと、彼女は少女の瞳の奥に変化を感じた。
「やっぱり、おどおどしてるのは演技でして?」
ゴングの代わりに、ロウソクが弾け、紫の炎が燃え上がる。
「じゃあ、行きましてよ!」
綾が札を構え、少女は拳を握る。新菜の叫びが届かぬまま、少女の技が私の横を通り過ぎ、壁を砕いた。
「バカ綾!ルール違反じゃない!」
新菜が怒鳴ると、綾はさらに水の塊で少女を囲むが、少女はすでに外にいた。
猫背でゆっくり歩く少女に、綾は「わたくしの眼に狂いはありませんでしたわ」と笑う。彼女の腹に少女の手が添えられると、綾は冷たい恐怖を感じ、「私の負けですわ」と両手を上げた。ホルスターが重い音を立てて落ち、ベルトが千切れている。新菜は呆然と少女を見つめた。
「洗礼された動き、随分と戦いなれてるんだね」
武田が少女に話しかけ、少女は新菜の袖を掴む。
「誰?」
「武田新だよ。キミのお医者さんになるから宜しく」
「あら、た」
「キミの名前は?」
少女が「リコリス・オストラン」と答えると、新菜は少女の視線が武田を捉えていることに驚き、何かを感じた。
〇
時は少し遡る。私たちと新菜が日本に転移したばかりの頃――
オストラン城の最下階に、重苦しい静寂が広がっていた。石壁に刻まれた古びた紋様が薄暗い光に照らされ、冷たい空気が肌を刺す。そこに、エルフの王テレス・アブラームを倒したばかりのニュークリアスが、バーサーカーの複製体ヨーグを連れて足を踏み入れた。彼女のブーツが石床にカツンと響き、その音が深い闇に吸い込まれる。
「まだ?」
ヨーグの低い声が、退屈と苛立ちを滲ませて部屋に反響した。
「もうちょっと待ってるノ、必要な事ナノ」
その言葉には、どこか楽しげな響きが混じっていた。
部屋の中央には、青白い光を放つ円柱がそびえ立っていた。その表面を、まるで生き物のように脈打つ光の筋が幾本も流れ、無数の映像が映し出されている。血の滴る戦場、崩れ落ちる城壁、逃げ惑う民衆――その断片的な光景が、薄暗い空間に不気味な彩りを添えていた。ニュークリアスは円柱の脇に浮かぶ半透明の画面に目を凝らし、無秩序に並ぶ文字の海を指先でなぞる。彼女の細い眉がピクリと動き、ある一文を見つけた瞬間、唇が緩んだ。
「あったあった」
安堵の息が小さく漏れ、その声が冷たい石の壁に跳ね返る。
「まだ消去されてなくて良かったノ」
彼女の指がEnterキーを叩くと、カチッという乾いた音が響き、部屋の空気が一瞬にして張り詰めた。
その刹那だった。
床に横たえられていたテレスの死体が、ゴクリと喉を鳴らすような微かな音とともに動き出した。死体の上半身がゆっくりと起き上がり、硬直した関節が軋む音が耳に刺さる。閉じていた瞼がカッと開き、虚ろだった瞳に鋭い光が宿った。
ヨーグの顔から退屈そうな表情がスッと消え、彼は目を丸くして何度も瞬きをする。まるで夢でも見ているのかと確かめるように、小さな手で顔を擦った。
「これが新しい身体か……悪くない」
テレスの声は低く、喉の奥から響くような重みがあった。彼は立ち上がり、全身を軽く動かして使い勝手を試す。肩を回すたびに骨がポキポキと鳴り、新しい肉体がまるで古い鎧を脱ぎ捨てたかのようにしなやかに反応する。その動きに、彼の口元が満足げに歪んだ。
「前の身体は上手く動かなかったから、こんなにスムーズに動くと怖いくらいだ」
彼の言葉に、ニュークリアスがニヤリと笑う。
「そりゃ三大魔族の二位に入る程の実力者だった肉体だからな」
彼女の声には誇らしさと遊び心が混じり、まるで自分の手柄を自慢する子供のようだった。テレスは気に入ったのか、ガハハッと豪快に笑い声を上げた。その笑い声が石壁に反響し、部屋全体を震わせる。だが、その笑顔の裏には、抑えきれない欲望がチラリと覗いていた。
「それで?俺様から逃げ出したあの小娘達は何処に居る?」
テレスの声が急に低くなり、鋭い眼光がニュークリアスを射抜く。彼女は慌てることなく、軽く首をかしげて答えた。
「そう慌てるんじゃないノ、私が直ぐ連れてくるノ」
その言葉に、テレスの眉がピクリと跳ねるが、彼女は続ける。
「お前はエルシリアが居なくなった世界を――滅・ぼ・し・つ・つ――この城でのんびりしてなナノ」
「滅ぼす」
その単語がテレスの耳に届いた瞬間、彼の口角がグイッと吊り上がった。まるで獲物を前にした獣のような笑みが広がり、彼は自分の手の平を見つめる。
「それもありだな」
その声には、長い抑圧から解放された喜びと、世界を握り潰すほどの傲慢さが滲んでいた。
「長い時を経て、遂にこの世界は俺様の物になる。ドラマチックで良いじゃねえか」
彼の瞳が爛々と輝き、新しい身体に宿った力が全身を駆け巡るのを感じているようだった。
「でも死んじゃ駄目ナノ」
ニュークリアスの声が、軽い警告のように響くが、テレスはそれを聞いて再び大笑いした。
「ガーハッハッハ!俺様を誰だと思ってる」
その笑い声は、まるで城全体を揺らし、石壁に細かな埃を舞い上げさせるほどだった。
彼の自信と狂気が混ざり合ったその声に、ヨーグさえも一瞬怯んだように見えた。
ニュークリアスは部屋を出る前に、肩越しにテレスを見やった。
「これからゼロの一番の強敵になる、ダークビショップなの」
その言葉に、テレスの目が一瞬細まるが、彼女は意に介さず続ける。
「じゃあの、久々の肉体を楽しむノ」
軽い足音とともに、彼女はヨーグを連れて闇の通路を進み、日本へと向かう。その背中からは、底知れぬ企みが漂っていた。
部屋に残されたテレスは、一人静寂の中に立ち、手の平を握り潰すように力を込めた。石床に滴る水音がポツリと響き、彼の口元に再び歪んだ笑みが浮かぶ。
「さて、どう楽しんでやろうか」
その呟きは、まるでこれから始まる破壊の序曲のように、低く暗く部屋に溶けていった。