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少女と少女は鏡面世界をさまよう  作者: 江戸前餡子
第三章•少女の解放
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26・陰陽師の国

「改めて良く日本に戻って来たな、これが新菜の望んでいたライセンスだ……が――」


 みどりの声が途中で低く途切れると同時に、彼女の皺だらけの顔が引き締まる。鋭い眼光が一瞬、新菜の胸を刺す。新菜は反射的に口を開きかけるが、「分かってます」と遮るように呟き、震える指先でライセンスカードを掴む。プラスチックの冷たい感触が掌に染みる中、それを財布に滑り込ませる。望みが叶った瞬間だ。心の奥底で喜びが泡立つが、表面には出さない。財布をポケットにしまい込むと、無意識にその膨らみをそっと撫でる。口角がわずかに上がり、かすかな温もりが新菜の頬を緩ませた。


 翠はそんな新菜を一瞥し、鼻から小さく息を吐く。「分かってるのか?」と呆れたような声が、薄暗い部屋に重く響く。湯飲みの縁から立ち上る湯気が、彼女の顔をぼんやりと霞ませる。


「ランクはどうですか?」


 新菜が静かに尋ねると、翠は目を細め、テーブルの上に広げられた封筒を指先で軽く叩く。「それは陰陽師アカデミーで更新しなきゃ分からない。しかし、あいつらからこんな手紙が届いてた」と言いながら封筒を差し出す。その動きに合わせ、彼女の唇が歪み、不気味な笑みが浮かぶ。「立派な軍の犬だな」声に潜む皮肉が、新菜の耳に冷たく突き刺さる。


 新菜は封筒を受け取りながら、「やっとランクAまで来た」と呟く。だが、翠は即座に「でも実力はEだけどな」と切り返す。言葉が刃のように鋭く、新菜の胸に突き刺さった。


「分かってますよ、だからまだ大人しく身を隠します」と返す声は小さく、どこか悔しさが混じる。翠は黙って湯飲みに口をつけ、熱い茶が喉を滑り落ちる音が一瞬、部屋を満たす。彼女の視線が天井に泳ぎ、しばらくして思い出したように新菜を見据えた。 


「そういえば"あの女の子"がお前の言っていたヤツか?」


 新菜の背筋がピンと伸びる。


「はい、でもまだ産まれていません。あの、その時までこのお寺に置いてくれませんか?」


 声に微かな懇願が滲む。翠は眉を寄せ、湯飲みをテーブルにカツンと置き、「とは言ってもなぁ、起きた時に見たがありゃ壊れてる。普通の子供とは思えない表情だったし、同じ顔をした陰陽師を幾人も見てきたが、大抵は自殺してる。それか薬とアルコール漬けだ」とその言葉が、新菜の心に重い石を落とした。


「悪い事は言わない」と翠が目を細めると、新菜は「自由にさせた方が良いんですね」と渋々頷くが、その表情は納得しきれていない。翠は肩をすくめ、「陰陽師不足だから育てる暇もない。特にここは普通の寺じゃないしな」と投げやりに返し、最後の言葉が、彼女を完全に諦めさせる。


「あの子供はきっと普通の暮らしをしたいだろう、お前が一番分かるはずだ、占いなんて都合で巻き込むな、望むまで待とうじゃあないか」


 木製の床が軋む音が、二人の間に沈黙を刻む。


 新菜はラジオから漏れるかすかなノイズに耳を傾けながら、茶碗に映る自分の顔を見つめる。水面が揺れ、歪んだ目元が不安を映し出す。日本に戻った安堵が胸を温める一方で、これからゼロと名乗る少女をどうするか、バルトロやスライムのアヌトリュースをどうするか――新たな悩みが心の底で渦を巻き始める。茶の苦い香りが鼻腔を満たし、彼女を現実へと引き戻す。


「そういえば悟志(さとし)がカラクリに力を入れ始めた。あの子供、向こうの世界の人間なんだろ?なんかできるのか?」


 翠の声が唐突に響く。新菜は首を振る。


「と、言われましても……」


 言葉が途切れる。ゼロのことは、ハヌ島でリコリスから聞いた武勇伝しか知らない。戦場での荒々しい話ばかりで、彼女自身半信半疑だ。だが、バルトロのことはよく知っていた。


「そう言えばバルトロっていう一緒に居たおじいさんがクローンの研究をしていたみたいとか――」と口にした瞬間、頭の中で雷鳴が轟き、新菜の目が大きく見開かれる。


「そうか、お父さんのカラクリが上手くいけば、ゼロを巻き込まずに済む」


 アイデアが閃いた瞬間の興奮が声に滲む。翠は「まあ悟志はお前の事を可愛がってるし、お前のお願いだったら最悪何もしなくても住まわせてくれるだろうよ」と肩を軽く動かすが、すぐに表情が曇る。


「それよりも異世界人の放つあの感じは魑魅(すだま)に似ているから、襲われないかだけ心配した方が良い」


 新菜の眉が寄る。


「肌の色も独特ですし……何かいい方法ありますか?」


 翠は一瞬考え、「ジョークグッズで見た目を変えるのがあったな。薬を飲まない限り普通の人なら元に戻らないみたい」と答える。新菜の声が小さくなる。「でもそれって人によっては肌が腫れ上がったり、死ぬ可能性もあるんですよね」翠は「と言っても0に等しい」と面倒くさそうに手を振る。その仕草に、新菜はこれ以上聞いても無駄だと悟り、話題を変える。


「二人と一匹は何処に居ますか?」

「二階に居るよ。それとアカデミーには報告しておけ、今日中に」


 翠がテーブルに置かれた手紙を指差す。新菜はそれをポケットに押し込み、一礼すると階段へ向かう。足音が木の床を軋ませ、日本の土から漂う妖力が身体を揺らす。船酔いのような感覚が胃を締め付け、異世界の感覚がまだ抜けきらない。だが、二階に上がると、バルトロ、ゼロ、アヌトリュースも同じように青ざめた顔で放心している。ゾンビのような面持ちに、新菜は苦笑いを浮かべ、「まああなた達もそうよね」と呟き、街案内を諦めた。


「新菜さん、何処に行くんですか?」


 バルトロの掠れた声が背中に響き、新菜は振り返った。


「あぁバルトロさん、私は小用を片付けて来ます。明日の朝移動するので、今日はここでゆっくりしていてください」


 アヌトリュースが不安げに眠るゼロを見守る姿に、「大丈夫よアヌトリュース、この子は疲れているだけだから」と優しく微笑み、部屋を後にする。扉が閉まる音が、静寂に溶け込む。



 寺が寝静まった時、少女は目を覚ました。


 暗闇の中、見知らぬ天井がぼんやりと視界に浮かび、一瞬、心臓が跳ね上がる。だが、見慣れない文字の本を見た瞬間、リコリスの記憶が脳裏をよぎり、日本に辿り着いた現実が胸に染み込む。


 でも感動も喜びもない。ただ、冷たい恐怖が肺を満たす。耳の奥で、叫び声が木霊する。人々の怒号、苦悶に歪む顔――布団に潜り込むが、音は消えない。それどころか、心臓の鼓動に合わせて増幅する。


「逃げなきゃ。また殺される。また利用される」


 布団を跳ね除け、窓枠に手を掛ける。冷たい木の感触が指先に刺さり、外の夜風が頬を切り裂く。足が震えながらも、窓を乗り越え、地面に飛び降りる。土の匂いが鼻を突き、裸足に冷たい石が食い込む。痛いけれど、それよりも恐怖心が勝り走り出す。


 遠くへ。もっと遠くへ。息が上がり、肺が焼けるように熱い。だが、頭の中の叫びは消えない。走っても、走っても、消えない。


 路地裏に辿り着き、膝が崩れる。


「ゔえぇ……」


 胃がひっくり返り、地面に吐瀉物が飛び散る。水たまりに映る自分の顔――真っ青で、情けない目がこちらを見返す。


「何故生きているの?」


 声にならない声が喉で震える。


 何のために? 水面が揺れ、歪んだ顔がさらに惨めに見える。


「ラプラスの書を……」


 その言葉が脳裏を掠める。でも、それを手に入れたら楽になれるのか? また誰かに利用されるのではないか? 片手が顔を覆い、冷や汗が指の間を滴る。アシュリーの自殺した姿がフラッシュバックし、胸が締め付けられる。「いっそ楽に――」


 その時、鋭い風が耳元を切り裂く。黒い影が視界を横切り、直後、男達のガラの悪い怒号が路地に響き渡る。ドスドスと重い足音が地を震わせ、影を追って遠ざかる。一瞬の出来事に息を呑むが、目の前に銀色のアタッシュケースが転がっているのに気づく。金属が月光を反射し、冷たく輝く。


「……変わった箱」


 黒い風が落としたのか? 嫌な予感が背筋を這うが、ケースから漂う苺の甘い香りが鼻をくすぐる。腹の底で空腹が唸り、震える手がケースに伸びる。鍵は掛かっておらず、カチリと軽い音で蓋が開く。中には白い粉と、触れば壊れそうな小石のような固形物。匂いの主はそれだ。生唾が喉を鳴らし、不安が溶けるような感覚に包まれる。


「薬なのかなぁ……」


 透明な小袋から一粒を摘み、口に放り込む。


 瞬間、耳の叫びが消える。身体が軽くなり、路地裏の薄暗い風景がきらめく星空のように輝き出す。口端が自然に上がり、笑いが込み上げる。


「なんて凄い薬なんだろう」


 生きている実感が全身を駆け巡り、何でもできる気がする。隣に目をやると、今にも死にそうな顔をした少女が立っている。


「おい! 何しけたツラしてんだよ! おら、お前も行くぞ!」


 彼女の手を掴み、空へ飛び上がる。風が髪を乱し、恐怖が一瞬よぎるが、今は違う。星の海を泳ぐような心地よさが全身を包み、腹の底から笑いが溢れ出す。


「おい! あんな所に人が居るぞ、なーにやってんだろうな!」


 遠くで誰かが叫ぶが、そんなことはどうでもいい。



「ック……」


 あやの喉から漏れる呻きが、冷たいコンクリートの路地に響く。心臓が早鐘を打ち、目の前の状況が悪夢のように現実感を失う。こんなパワースポットもない地区に、高ランクの魑魅(すだま)が現れるなんてありえない。足に力を入れようとするが、突然膝がガクンと折れ、地面に崩れ落ちる。ゴロリと転がる石の音が耳に刺さる。急いで腰のホルダーに手を伸ばし、札を掴もうとするが、視界がグラリと揺れ、口から血がツーと滴る。


「毒か」


 毒が全身を蝕む速さは、紙が燃えるように容赦ない。身体がコンクリートのように重くなり、息が詰まる。口から溢れる血が地面に黒く広がり、魑魅が白い歯を剥き出しにして嗤った。


 するとその瞬間、風が唸りを上げ、白銀の髪と緑の瞳を持つ少女が舞い降りる。月光に照らされた姿が、現実離れして美しい。綾は一瞬幻覚かと疑うが、少女がニヤニヤと話しかける仕草に現実だと確信する。


 何語か分からない。明らかに日本人ではない外見に困惑するが、敵意はないと直感する。


「たす……けて」


 蚊の鳴くような声が喉から絞り出される。少女は首をかしげるが、意図を察したのか、背後の魑魅に視線を移す。そして、指を鳴らす。と、パチンという軽い音と共に、魑魅が火を噴くように消え去る。一瞬の出来事に、綾の意識が漆黒に落ちていった。



 次に目を開けた時、見慣れた天井が視界に広がっていた。


「身体の調子はどうだ? 綾」


 低い声が耳に届き、上半身を起こすと、ベッド脇に座る義明(よしあき)が本を読んでいる姿が目に入る。厳しい表情に背筋が凍る。


「お父様、すみません。大宮一族の私としたことが……」


 掛け布団をギュッと握るが、義明は本から目を離さず、「あれは予想外の出来事だ。しょうがない」と意外な優しさで返し、綾の胸に驚きが広がり、言葉が詰まる。


「それよりだ、ドローンで見ていたがあの女の子は誰なんだ?」


 義明の声が鋭さを帯びる。綾は首を振る。


「分からないんです。外国の方と思うのですが、それにしては聞いた事の無い言語で……」

「そうか」


 陰陽師アカデミーで全言語を学んだ綾にとって、知らない言葉が存在すること自体が衝撃だった。


「聞き取れた言葉はあったのか?」

「そういえば、りこりすおすとらん?とかって自分の顔を指さして言ってましたわ。それに、手には飯田組のアタッシュケースがありました。でもあの組に外人は……」

「居ないな、オストランか。実は同じ名前を名乗る外人をウチの物好きメイドが拾って来ていた。動けるのなら会ってみると良い、いま日本語を教えてるはずだしな」

「分かりましたわ、教えてくださりありがとうございます」


 義明が立ち上がり、「リコリスさんはまた現れるだろう。仲良くなっときなさい、飯田組と繋がっていないとも言い切れないからな」と言い残して部屋を出る。


 綾は疲労感に苛まれながらも、窓から差し込む日差しに顔をしかめ、ため息をつきつつベッドから起き上がる。


「オストランか、もしかしたら親だったりしてね」


 この出会いが、学園生活を、日本を、ゆっくりと、だが確実に壊し始めるなんて、今の綾には知る由もなかった――

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