20・転生
静寂が二人を包み込む中、突如として強風が唸りを上げ、彼らの間を切り裂いた。ゴウッと耳を劈く風の音が響き、砂塵が悪戯に舞い上がる。足元から巻き上がった砂は、徐々に視界を曇らせ、薄いベールのように二人を覆い隠していく。砂粒が頬を掠めるチリチリとした感触と、風が耳元で低く唸る音が、緊迫感を一層煽った。
まだ、どちらも動かない。
リコリスは内心で小さく笑っていた。バーサーカーが警戒心を露わにしたその瞬間、彼女はすでに相手の底を見切っていたのだ。
鋭い眼差し、わずかに震える指先——バーサーカーの緊張は隠しきれず、リコリスにとってそれは遊びの延長でしかなかった。しかし、その傲慢が、自分を裏切る瞬間が、すぐそこまで迫っているとは、まだ気づいていない。
一方、バーサーカーは、全身を硬直させていた。拳をニュークリアスの顔に近づけた刹那に感じた異様な感覚——それは今まで戦ってきた魔族や人族とはまるで異なる、得体の知れないものだった。背筋を這う冷たい汗が、彼女の恐怖を物語る。
自分の知らない人ならざる未知の力が、あの人物の中に潜んでいる。そう確信した瞬間、その恐れが呪いのように足を絡め、動きを封じた。大剣を握る手にじわりと汗が滲み、筋張った腕を伝ってポトリと地面に落ちる――
「ッツ!?」
その刹那だった。分厚い砂煙の壁が割れるように裂け、ニュークリアスが飛び出してきた。彼女の速度は「早い」という言葉を超えていた。音さえ置き去りにする動き——バーサーカーの視界に映るのは、残像すら残さぬ影だけだ。
その一瞬、オストラン王との死闘が脳裏を掠める。懐かしさではない。ただ、あの時の死の恐怖が全身を駆け巡り、細胞の一つ一つが震え上がった。
ニュークリアスの逆手に握られたナイフが、冷たく光を放ち、バーサーカーの腹部を目掛けて迫る。反射的に半身を捻ってかわすが、背後で異変が起きた。いつ唱えたのか——後頭部に魔法陣が浮かび上がり、赤黒い光が不気味に脈打つ。
「オストランオウヨリモ、ツヨイ!」
魔法陣から突き出た巨大な鋼の槍が、轟音と共にバーサーカーの首を狙う。首を捻り、髪が風を切る音と共に間一髪で回避するも、その一瞬に意識を奪われていた。
「貰った」
ニュークリアスの声が低く響く。彼女は舞うように身体を回転させ、もう一方の手のナイフをバーサーカーの腹に突き立てた。鋭い金属音が響き——しかし、次の瞬間、「パキン」と甲高い音が場を支配する。ナイフの刃が無残に折れ、破片が地面に散らばった。
「まあ、そんな上手くいかないか」
ニュークリアスは一瞬目を丸くするも、すぐに口元を歪めてニヤリと笑った。楽しさが彼女の瞳に宿る。一方、バーサーカーは動揺を押し殺し、脳内で状況を分析していた。大剣を握る手に力がこもり、汗が再び滴り落ちる。
ニュークリアスは折れたナイフを捨て、両手で増強剤の入った注射器を取り出し、彼女は躊躇なくそれを首に突き刺す。
「まず2本」
薬剤が体内に流れ込むと、全身に力が漲る感覚が広がる。筋肉が膨張し、血管が浮き上がる。だがその代償として、心臓に五寸釘を打ち込まれたような激痛が走った。
ゴクン、と喉が鳴り、口端からツーと細い血が垂れる。想像以上の負荷に、3本目を使う恐怖が彼女の胸をよぎる。
バーサーカーはその様子を冷ややかに見つめていた。血を滴らせたニュークリアスを見て、直感が働いた。あの異様な力は薬に頼ったものだ。耐えれば勝機が来る。 大剣を握る手にさらに力がこもり、彼の唇が薄く開き、黄ばんだ歯が覗く。微かな自信が心に灯った。
「耐久戦に持ち込めば勝てると思っているな?」
ニュークリアスが余裕の笑みを浮かべる。だが、バーサーカーの鋭い嗅覚は、彼女のフェロモンの微かな変化を捉えていた。感情が香りに表れる——ニュークリアスの自信に隠された一抹の焦りを感じ取り、バーサーカーの闘志が再び燃え上がる。
その一方で、ニュークリアスは内心で葛藤していた。バーサーカーを自分の駒にしたいという欲望が頭を支配する。魔法は通用しない。呪術で気絶させるのもテレスの条件に反する。欲が彼女の動きを鈍らせていた。
再び訪れた静寂。二人の睨み合いが続く中、闘技場の観客たちは息を呑んで見守った。砂塵が薄れ、荒々しい息遣いと遠くの群衆のざわめきだけが聞こえる。バーサーカーの勝利が常識だったコロシアムの空気が、今、ニュークリアスへと傾きつつあった。賭け金が流れを変え、緊張が場を支配する。
その様子を遠くから見ていたイルマは、呆れたように呟いた。
「馬鹿だな」
彼女はニュークリアスを知っていた。本気を出さない限り、この戦いは泥試合に終わり、最後はバーサーカーが勝つ——その結末が見えていたのだ。
「残り増強剤は3本。闘技場の武器はオリハルコン製、折れるはずがないのに……あいつの肉体、昔より硬くなったのか?」
イルマは苛立ちを隠せず、膝を指先で叩きながら戦いを見守った。
「貴方、凄い魔物だったんだってね」
睨み合う中、ニュークリアスが口を開く。時間稼ぎの言葉だったが、それが意外な展開を招くとは、彼女自身予想していなかった。
「オマエ、ナニ、カンガエテル」
「何の話やら」
「オマエ、ツヨイ、ナノニ、ホンキ、ダシテナイ」
鋭い指摘に、ニュークリアスは頬を指で掻き、「どうやって生け捕りにするか考えていたんだよ」と笑う。バーサーカーは大剣を地面に突き刺し、胸に刻まれた魔法陣を露わにした。
「オレ、ココカラ、デレナイ」
その魔法陣を見たニュークリアスは、初めてその意味を理解し、「なるほど、無駄に考えすぎちゃったみたいだね」と苦笑いを浮かべた。
「ニスカヴァーラ、ニ、イケ」
南の空を指さすバーサーカー。ニュークリアスの脳裏に疑問が浮かぶ。なぜエルフが造った魔物が黒灰の魔女の城にいるのか? その答えを求めるように、バーサーカーは首から外したクルミの殻のネックレスを差し出した。
「コレ、ミセレバ、ワカル。ナマエ、ヨーグ」
役目を終えたかのように地面に座り込むバーサーカー。ニュークリアスは何かを感じ取り、手の平を向ける。
「今楽にしてあげるよ、屈強な戦士。神はきっと貴方をヴァルハラに送ってくれる」
バーサーカーは答えず、ただ安堵の表情を浮かべる。それが全ての返事だった。ニュークリアスは静かに呟く。
「生まれ変わったらまた会おう、次は仲間として」
手をギュッと握った。 バチン——爆ぜるような音と共に、バーサーカーの肉体が飛び散った。一瞬にして見分けがつかぬほどの肉片となり、観客席から悲鳴と困惑の声が上がる。ニュークリアスは無表情のまま立ち尽くし、その冷酷さが場の空気を凍りつかせた。
闘技場の砂塵がゆっくりと地面に落ち着き、飛び散った肉片が静かに赤黒い染みを広げる中、観客席は一瞬の混乱を経て、重苦しい沈黙に包まれた。
風が止み、遠くで鳴る金属の軋む音と、観衆の抑えた息遣いだけが響き合う。ニュークリアスは握った手をゆっくりと下ろし、血と砂に塗れた地面を一瞥する。彼女の瞳には何も映っていないかのようだったが、心の奥底では微かな疼きが広がっていた。
「終わりか……」
小さく呟いた声は、乾いた風に掻き消される。彼女の足元に転がるバーサーカーの大剣が、オリハルコンの鈍い光を放ちながら、無言の終幕を告げていた。
観客席のざわめきが徐々に大きくなり、驚愕と興奮が入り混じった声が波のように広がる。だが、ニュークリアスはその喧騒を無視し、ゆっくりと踵を返す。彼女の背中からは、勝利の誇りではなく、どこか虚ろな空気が漂っていた。
ニュークリアスは闘技場の出口へと歩を進める。足音が砂を踏み潰すたび、ザク、ザクと低く響き、彼女の背後に小さな砂煙が舞う。頭の中ではバーサーカーの最後の言葉が反響していた。
―― ニスカヴァーラ、ニ、イケ ――
南の空を指さしたあの仕草と、クルミの殻のネックレス。ヨーグという名前。出口の暗い通路に差し掛かる頃には、好奇心が疼き始めていた。
「日本に向かう前に行くか、仲間になってくれればいいが」
場面が変わり、テレスの城へと移る。陽の光が反射する白い石畳の廊下が果てしなく続き、空気は温かく、花の香りが鼻の頭を柔らかく撫でる。
テレスが玉座に腰を下ろし、片手で顎を支えながら水晶球を見つめている。その表面には、闘技場での戦いが映し出されており、ニュークリアスの勝利の瞬間が繰り返し流れていた。彼の堅い表情はいつも通りだが、左腕の欠けた袖がわずかに揺れるたび、過去の記憶が疼くようだった。
「よくやったな、ニュークリアス」
テレスの声は低く、威厳に満ちていた。水晶球から目を離さず、彼は立ち上がる。足音が石畳にコツ、コツと響き、部屋に重々しい雰囲気を加えた。ニュークリアスが玉座の間に入ってくるなり、テレスは一瞥をくれる。
「そりゃどうも」
ニュークリアスがわざとらしい軽い口調で返すと、テレスの眉がピクリと動く。彼の上から目線が癪に障ったのだろうが、ニュークリアスは意に介さず、腰に手を当ててニヤリと笑った。
「顔はオストランに似てるが、魔法はまるでアイツだな」
テレスが呟く。ニュークリアスが首を傾げると、彼は左腕の欠けた部分を指で撫でながら続けた。
「星詠み師のルイズ・アクロイド、あいつにこの腕を消されたよ」
その言葉に、テレスの目が一瞬鋭く光る。
「始まりであり終わりの魔法、そう言っていたな。あいつが最強だと豪語するから、魔法を封じる呪術をかけて、バーサーカーと戦わせたのさ」
初めてテレスの口元に薄い笑みが浮かんだ。薄気味悪いその表情に、ニュークリアスは思わず「大人げねぇ〜」と声を漏らす。だが、内心では驚きが広がっていた。ルイズが魔法を使わないのは呪術のせいだったのか……。
「でも、なぜルイズがここに来たんだ?」
ニュークリアスが問うと、側に控えていたイルマが耳元で囁いた。
「反乱軍とエルフ族を繋ぐためだよ」
その言葉に、ニュークリアスは「なるほど〜」と頷き、納得したように目を細める。
テレスは手元に置かれた宝石が散りばめられた小箱を手に取る。彫刻が施されたその表面が、魔石の光に照らされてキラキラと輝く。彼は立ち上がり、ゆっくりと箱を開けた。中には、黒い石が嵌め込まれた指輪が静かに眠っている。
「ニュークリアス、ルイズに言われた時は期待していなかったが……安心したぞ。お前は私の家族同然だ。いつでも頼れ」
テレスの言葉に、拍手が玉座の間に響き渡る。ニュークリアスは躊躇なく指輪を摘み上げ、人差し指にはめる。瞬間、全身に力が湧き上がるような感覚が広がり、彼女の口角が自然と上がった。
「これからどうする?」
テレスの問いに、ニュークリアスは迷わず答える。
「ダータ島に行って、転置魂具を回収する」
その声には、確固たる決意が宿っていた。
〇
薄暗い地下室へと変わる。緑色の火の玉が宙を漂い、ぼんやりとした光で周囲を照らす。天井には赤や青の魔石が星のように散りばめられ、壁は黒い大理石に覆われている。かつての岩肌が剥き出しの空間は、今や異様な美しさを湛えていた。柱には青白い筋が流れ、不気味な生命感を放っている。
ドメがその中央に立ち、ふふんと笑う。
「とっておきよ」
彼女の声が地下室に反響し、ルイズがゆっくりと目を覚ます。
「あら、やっと起きたのねぇ」
ドメの軽い口調に、ルイズは眉をひそめる。
「身体をそのまま使ったからバクだと判断されて、修復プログラムが作動したのよね〜」
その言葉に、リコリスは苛立ちを隠せず、「また何かにされるのか……」と呟く。
ドメは背を向け、「第一王女が日本に行く時、守る人物が必要でしょ? ルイズの記憶が備わってるか確かめるためよ」と続ける。だが、その冷たい態度に、ルイズは拳を握り締める。
「もう昔の私じゃない!」
手の平を前に出し、ギュッと握る。だが、ドメは微動だにせず、魔法が掻き消される感覚がルイズを襲う。
「テレスめ、魔法を封じやがって……いや、待て。これはこの世界の魔法じゃない!」
「本当にお前は誰なんだ! 何処から来た!」
叫ぶルイズに、ドメが振り返る。だがその瞬間、鋭い光がルイズを包み込み、彼女をその場から消し去った。
「あーあ、行っちゃったか。まあ、日本では頼んだわよ、オジサンとしてね」
ドメの声が地下室に響き、緑の火の玉が静かに揺らめいた。
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