17・試練と試験
「シーラの家系はあの大戦で絶えたと思った……良かった、本当に良かった……」
バルトロ・シーラの声は、静かに震えていた。長い年月を生き抜いたその瞳が、私を見つめる。深い安堵と、どこか懐かしそうな光が混じる。
「僕の名はバルトロ・シーラ。キミにとっては先祖に近い存在になってしまうだろうね」
彼はゆったりと笑い、皺の刻まれた顔が柔らかく緩んだ。「まあ僕の家に上がりなさい。アヌトリュース、アレを持ってきて。」そう言いながら、大きく開いた両手で私をリビングへと導く。足音が木の床に軽く響き、長い廊下を進むたびに、埃っぽい空気が鼻をくすぐった。島に建つ家にしては異様に広く、両脇に連なる無数のドアが、薄暗い影の中で沈黙している。
「空き部屋がほとんどさ。僕とアヌトリュース以外住んでいないから、リビングしか使ってないんだよ」
バルトロの声は軽やかだが、どこか寂しげに尾を引いた。
リビングに足を踏み入れると、予想に反して研究者の痕跡はまるでなかった。分厚い専門書も、散らかった資料も、実験器具もない。ただ、大きな窓際に置かれたロッキングチェアが目に入る。そこには、くしゃっと畳まれたひざ掛けと、開きっぱなしの本、そして少し欠けたマグカップが無造作に置かれていた。木の軋む音とともに椅子が微かに揺れ、窓から差し込む柔らかな光が、部屋に穏やかな暖かさを与えている。
「もっと研究器具とか本があるのかと思っていました」
私の声に、バルトロは肩をすくめて笑った。
「研究なんてもうこの島に来てからはしてないさ。の~んびり過ごしているよ」
その言葉に嘘はなさそうだった。窓の外では、波が静かに砂浜を撫でる音が聞こえ、彼の生活が目に浮かぶようだった。
「ここに置かれている本とかどうしたんですか?」
私はテーブルの上に積まれた数冊の本に目をやった。すると、バルトロは少し目を細めて答える。
「この島に訪れた者達から貰ったのさ。死体から弄ったわけじゃないよ?」
その言葉に、私は思わず息を呑んだ。静かな外見とは裏腹に大胆なことを平然と言う彼に、驚きが胸を突く。手に持っていたマグカップ——今しがた口をつけたばかりのそれ——をそっと遠ざけた。知らなければ良かった、という後悔がじわりと広がる。
「そうそう、ココらに生えてる青い果実は食べた?」
唐突な質問に、私は首を振った。
「食べてないですよ?」
「そう、なら良かった。匂いも良いし味も良いけど、食べない方がいいからね」
彼は穏やかに微笑みながら、ゆっくりと自分を指さした。
「生きたいと思う者に死を与え、死にたいと思う者に永遠の寿命を与えるから」
その仕草には、まるで自分がその果実を口にした後者であるかのような重みが宿っていた。
「バルトロさんは食べたんですね」
私の言葉に、彼は何も答えなかった。ただ、ゆっくりと開くドアの方へ視線を移し、「これからちょっと診断をするよ」と呟く。アヌトリュースが運んできた大きな銀色の杯が、テーブルに置かれると鈍い音を立てた。バルトロが杖を軽く振ると、水が杯に注がれ、透明な雫がキラキラと光を反射する。
「って言っても大した事はしないけどね」
「この杯って昔星読み師が占いで使っていた道具ですよね?」
「おっ!流石シーラの子だね。そう、水声の器だよ。手を器にかざせば、この透明の水は変色し、忘れている大切な事柄を教えてくれるのさ」
私は言われるがままに手を杯の上にかざした。すると、水面が微かに揺れ、中央から白い染みが滲むように広がっていく。透明だった水はあっという間にミルクのような白さに変わる。
「長い旅路でキミは本当の使命を忘れていたようだね」
バルトロが静かに言うと、視線を古びた壁掛け時計に移し、「まだ時間はあるか」と小さく呟いた。椅子が軋む音とともに彼が立ち上がり、私とアヌトリュースを残してどこかへ去ってしまう。残されたリビングには、静寂が重くのしかかる。
アヌトリュースがテーブルの向かいに座り、ニコリと笑う。「今から試練の始まりだよ」その無邪気な声に、逆に私の胸は締め付けられた。水声の器は占い道具であると同時に、精神を成長させる試練を与えるものだという。その言葉が頭をよぎった瞬間、嫌な予感が背筋を這い上がり、思わず奥歯を噛み締める。テーブルの上に置いた手が、いつの間にか拳を握っていた。
「思い出したくないんだね」
アヌトリュースの声が柔らかく響く。彼の心配そうな瞳が、私をじっと見つめた。
「誰にだってあるでしょ?けれど私の場合、それが綺麗に抜けてるんだ。まるで誰かに消されたように。でも、恐怖だけは残ってる」
私の声は震えていた。過去の空白を思い出すたび、心の奥底から冷たい風が吹き抜けるようだ。
「試練でそれが分かるのが怖い?」
「怖い……うん、怖い」
過去を知った瞬間、私は私でなくなってしまう気がした。人格が崩れ落ち、別の何かになってしまうような恐怖が、喉元までせり上がってくる。言葉を続けようとしたその時、そよ風に乗って苦しげな呻き声が耳に届いた。思わず口が止まり、後ろを振り返る。魔物の唸り声ではない。紛れもなく人間に近い、掠れた声だった。
眉を顰める私を見て、アヌトリュースは振り向かず穏やかに言った。
「今の声は抜け殻人だよ。夜になると出歩き始めるんだ」
窓の外、海の波音が静かに響く中、彼の声はまるで日常を語るように軽い。
「抜け殻人?魔物なの?」
「う~ん、僕も詳しくは知らない。でも魔物ではないよ」
彼は「知らなくていい事だよ。それよりも明日の事を心配しな」と付け加えた。その言葉に、私はなぜか言いようのない不安を感じた。
◯
「実にアイツらしい航路だったな。酷過ぎる。人間が無敵だと勘違いしてないかアイツ」
イルマの頬が怒りで膨らみ、吐き捨てるように言うのも無理はなかった。モズでヤナガと別れ、言われた通りにガイルと会い、箒を手に入れて地図を頼りに進んだものの、森の中の茨だらけの道なき道を進むような苦労の連続だった。頭上からは槍のように鋭い雷が轟音と共に落ち、不法侵入者と勘違いしたエルフの大陸から矢の雨が降り注いだ。箒の木が軋み、風を切る音が弱々しくなる頃には、もうボロボロだ。魔力を込めても、死んだ魚のようによろよろと震えるだけだった。
「まさかエルフの大陸が上空に浮いているなんて、意外だったねイルマ」
私の言葉に、彼女は疲れた笑みを浮かべた。
「そーだな。私も初めて来た時は驚いたよ」
初めて?何度か来たことがあるのか。エルフの仲間を連れていれば、一度ぐらいはあるか。
眼前には、大地から切り取られたような大小様々な大陸が浮かんでいる。雲の間を縫うように漂い、私たちが立つこの大陸は、王の城を守るようにぐるっと囲む大陸の一つなのだ。どういう原理で浮いているのか、イルマはおろかエルフたちさえ知らないらしい。「王しか知らないんだとか」と彼女が呟いた声が、風に混じって消えた。
「二人ともお待たせしました。テレス王の所へ行きましょう」
案内役のナーシャの声に促され、白い雲に擬態した城へと足を踏み入れる。内装は驚くほどに白く、床を踏むたびにカツカツと硬質な音が響いた。騎士たちが土足で歩いているはずなのに、泥一つ落ちていない。泥だらけの靴で歩くのが申し訳なくなるほどだ。
自然を愛するエルフらしい設計なのか、壁にはガラスがふんだんに使われ、日光や月光が室内を柔らかく照らす。ガラスの向こうには浮かぶ大陸の影が揺れ、贅沢というよりどこか異世界的な雰囲気が漂っていた。大戦で負けると分かった瞬間に逃げ出した種族とは思えない威厳だ。
「着きました。決して失礼のないように」
ナーシャの声が緊張に震える。イルマは「ある訳ないだろ~ハハハ」と笑いものにするが、ナーシャが眉を寄せ、「イルマさん、貴女殺されかけたじゃないですか」と大きなため息をつく。私は思わず首を傾げたが、彼女は私の心を読んだかのように耳元で囁いた。「ちょっと冗談を言っただけなんだ。兎に角お堅いんだよテレスは」
巨大な扉が重々しく軋みながら開き、私たちを迎え入れる。長いカーペットが王の玉座まで伸び、その両脇に立つ騎士たちの緑色の瞳が、私を物珍しげに追った。王の左右には、性別不明の武装したエルフが二人。長寿の種族らしい若々しさと、無駄に整った美貌が際立つ。
「イルマよ、良く戻った。そこに居るのが例の兵器か?」
テレス王の声は低く響き、私を見据える視線が冷たく突き刺さる。左腕のない辺りを無意識に触り、「アイツに似てるな」と小さく呟いた。歓迎されていないことは、その表情だけで十分伝わってきた。「にしてもそいつが本当に兵器だったら困ったな」鼻から息を吐き、顎に手をやる仕草に苛立ちが滲む。
「困った……とは?」
私の声に、王は鋭い目を向けた。
「見ただけでわかる。寿命は短く、既に魔法も使えないだろう。正しく言うのなら、身体が魔法の負荷に耐え切れなくなっている状態だな」
その言葉に、胸が締め付けられる。なぜ分かった? エルフにそんな透視能力はないはずだ。息を呑み、ナーシャを見ると、彼は自分の右目を指さす。テレス王の右目に光るシルバーの片眼鏡——あれが魔具なのか? だが、そんなことより、このままでは追い出されるのではないかという不安が頭をよぎる。
「身体の方は、ここにある増強剤で……」
イルマが言いかけた瞬間、「駄目だな」と王の声が鋭く遮った。
「体質が特別過ぎて、きっと一時的な効果になる。それに寿命はもう一週間もないだろう。イルマよ、これがお前の言っていた地上最強の魔女なのか?」
「その通りです。具合がどうであれ、魔力と魔力量はこの世の魔族のトップでしょう。もちろんエルシリアを軽く超えています」
イルマの瞳に嘘はない。だが、王は私をじっと見つめ、しばらく沈黙した。重苦しい空気が部屋を包み、ナーシャは緊張で汗を流し、イルマさえ拳を握り締めて白くなるほどだ。
やがて、王は顎を摘んでいた指を立て、ゆっくり口を開いた。
「ならばそれを証明する為に一つ、試験をしようじゃないか」
「試験?」
「そうだ。それを合格したら、賢者の指輪を渡す」
「賢者の指輪って、それは代々引き継がれてきた、王が大切にしてきたものなのでは?」
ナーシャが慌てて前に出るが、王は落ち着いた声で返す。
「分かっている。だが、イルマの言葉が本当なら、それほどの器だという事だ。そんな人材に渡すのならば惜しくはないだろ。この大陸も任せられる」
ナーシャの瞳に不安が滲む。この試練が過酷であることを、その表情が雄弁に語っていた。
「んで?試験の内容は?」
「兵器一人で、コロシアムに居る魔物、バーサーカーを討伐せよ。もし本物なら簡単だろう?」
「確かに、それなら無限の寿命と無限の力を与える賢者の指輪と釣り合いますね」
「やるか?」
イルマが私を見る。その瞳には、負けるだろうという心配が色濃く浮かんでいた。躊躇する口元が、「やめとけ」と言わんばかりに震えている。だが、私はそれを跳ね除けるように前に進み出た。
「やる。私は最強だからな」
イルマの横に立ち、胸を張って言い放つ。彼女の肩を軽く叩き、「安心しろ、私は負けない」と鼻で笑った。王に向き直り、視線をぶつける。
「明日コロシアムに出ようじゃないか」
「良かろう。一応、増強剤を5つ渡しておく。使いすぎると心臓の動きが遅くなり筋肉が硬化するから、考えて使え、一時的ではあると言え何もないよりかは良いだろう」
「ありがとう」
背を向け、扉を出る間際、私は振り返らずに一言残した。
「私の名前はニュークリアスだ」
「なるほど、ニュークリアスか。威勢がいいじゃないか、さすがエルシリア・オストランの娘」
王の呟きが、閉まる扉の向こうに消えた。
◯
島の夜空は不思議だった。紺色に紫が溶け合い、星々が宝石のように散りばめられている。まるで絵の具のパレットがそのまま空に広がったようだ。眠れずに砂浜に寝転がり、そんな空を眺めていると、波の音が遠くから寄せては返す。「眠れないの?」と、アヌトリュースの大あくびが隣に響いた。さっきまで寝ていたはずなのに、目をこするその姿が妙に愛らしい。
「試練、って何だろうね」
「何だろうねえ」
私は上半身を起こし、彼のプルプルの頭を撫でた。すると一瞬、水平線の先、霧の壁の向こうに赤や黄色の光がチラリと見えた。
「ねえアヌトリュース、あそこに見える光は何なの?」
「ああ、お爺ちゃんが言うには異世界なんだって。この時間になると異世界との境界が薄くなって、その世界の一部が見えるんだとか。お爺ちゃんも行ったことないって言ってたから、たぶん作り話だと思うけど」
「異世界ね、そこには魔法はあるのかな」
「魔法は嫌い?」
「何でそう思うの?」
「悲しそうな顔をしてるから、つい」
私は息を止めた。嫌いだ。魔法なんて大嫌いだ。この力がなければ、私の人生はこんなに狂わなかっただろう。
「魔法は人類には早すぎた産物。言葉も、感情も、それを神は気づかない。気づいていないんだ」
もし魔法がなければ、きっと平和だったはずだ。胸の奥で疼く痛みが、静かな波音に混じって響き続けた。
翌朝、アヌトリュースが駆け寄ってきた。「お守り! え~と、え~と……キミは今までの人と違うから、きっと大丈夫だよ!」そう言って、体内からヌメヌメした透き通った石を取り出す。加工もされていない、洞窟で拾ったような粗野な石だったが、なぜか心が少し軽くなった。
「ありがとう」
「リコリス、この試練は何度でも受けられる。けれど、己の精神を蝕むもの。精神が持つまでしか受けられない事を忘れないでね」
「分かってます」
頷き、森の中部にひっそりと佇むピラミッドへと足を踏み入れる。冷たい石の感触が靴底に伝わり、内部の空気が湿り気を帯びて鼻を刺した。
「始まった」
アヌトリュースの声が背後で小さく響き、ピラミッドが白く光り輝く。試練の開始を告げるその光が、私の全身を包み込んだ。
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