16・逃亡魔術師バルトロ
北陸のニスカヴァーラ城に辿り着いたのは、昼過ぎだった。オストラン軍がかつて使っていた転移神殿のおかげで移動自体は一瞬だったが、神殿までの道のりが果てしなく遠く、足元の雪を踏み潰すザクザクという音が耳に残る。吹雪が頬を刺すように吹き付け、冷たい空気が肺に流れ込むたび、息が白く凍りついた。やっと城の影が見えた時、太陽はすでに空の真上に登っていた。
「本気で挑む気ですか?」
城のメイドが、重そうなリュックを差し出す。その声は震え、瞳には不安が滲んでいる。私はその瞳を見つめ返すが、隣のルイズはまるで遠足にでも出かけるような軽い調子で応えた。
「心配しないでくださいよ~、ただの呪われた島なんですから!」
彼女のカラカラとした笑い声が、冷え切った石壁に反響する。私は内心、胸が締め付けられるような嫌悪感を覚えた。ダータ島、あの場所に挑むなんて、正直言って気が進まない。だが、星の導きがそう告げているなら、従うしかない。私の指が無意識に服の裾を握り潰していた。
「荷物を用意してくださり、ありがとうございます」
私が丁寧に頭を下げると、メイドは少しだけ目を細めて頷いた。
「食料と飲料は三日分しかないので、くれぐれも長居しないようにしてください。あそこは強力な結界が張られていて、救難信号も出せませんから」
「分かりました、気を付けます」
私の声には、抑えきれぬ不安が滲んでいたのだろう。メイドはそれを察したのか、勇気づけるように小さく両手でファイトポーズを取る。その仕草に、私は一瞬だけ口元が緩んだ。だが、すぐ隣でルイズが私の肩をバシンと叩き、笑顔で言う。
「さーてと、行くか!」
その軽さに、逆に私の胸が重くなる。彼女の無邪気さが、今はただ無責任に感じられた。
「そうそう! ルイズさんとゼロさんに渡したい物があるので、こっちへ来てください!」
メイドの声が弾む。私たちは彼女に導かれ、箒の倉庫へと足を踏み入れた。扉がギィッと重々しく開く音が響き、薄暗い室内に足を踏み入れると、鼻を刺す埃っぽい匂いが広がる。壁や床には、多種多様な箒が無造作に立てかけられ、木製の柄がカタカタと微かに揺れている。メイドが「ちょっと待っていてください」と言い残し、小走りで奥へ消える。その足音がトタトタと遠ざかっていった。
数分後、彼女が戻ってきた。手に持つのは、魔石で覆われた鉄製の箒だ。ズシリと重そうなその姿が、薄暗い倉庫の中で鈍く光る。彼女はそれを私とルイズに差し出し、少し誇らしげに説明を始めた。
「我が城の英知を結集させて作った重装甲箒型魔動飛行機体です。少しの魔力量で遠距離用箒型魔動飛行機体より遠くへ飛び、どんな魔法にも耐えられます。量産は難しくて、この二つしかないですが、使ってください」
私はその箒を手に取る。冷たく硬い感触が掌に伝わり、心臓がドクンと跳ねた。オストラン軍がこんなものを作っていたのか。戦争は終わったはずなのに、警邏用にしてはあまりにもオーバースペックだ。
まさか――また戦争を企んでいるのか? エルフの大陸に自ら乗り込むつもりなのだろうか。私の頭に暗い予感がよぎり、喉が締め付けられるような感覚に襲われた。
「お前の言う通り、東側諸国へ行かずに先に来たのは正解だったな」
私が呟くと、ルイズは興味なさそうに肩をすくめる。
「ルイズは箒にも興味を持つべきだよ」
彼女は箒を手に持つことすら面倒そうにしていた。
ニスカヴァーラ城は、巨大な雪山の頂にそびえ、年中吹雪に閉ざされている。窓の外では、白い風がゴォォと唸り、ガラスを叩く音が絶えない。この過酷な環境だからこそ、箒の技術は他を凌駕している。東側諸国に行くより、ここで準備を整えるのが賢明だったのだ。
「じゃあ行こうかね」
ルイズが軽い調子で言い、私は箒に跨る。外に出ると、横殴りの吹雪が顔を切りつけるように襲い、身を縮めたくなるほどの寒さが骨まで染みる。私は箒を握り、軽くジャンプ。瞬間、ゴォッと風を切り裂く音と共に飛び立った。普通の箒なら、この吹雪に左右に揺さぶられていただろう。だが、この重装甲箒はまるで吹雪を嘲笑うかのようにブレず、グングン加速していく。私の髪が風に煽られ、バサバサと顔を叩く。
「凄いな!」
ルイズが大声で笑い、その声が風に混じって響き渡る。彼女の目がキラキラと輝き、初めて見る純粋な喜びがそこにあった。私はその姿に一瞬だけ安心を覚えたが、すぐに遠くに映る巨大な竜巻がその感情を吹き飛ばす。
二時間ほどで、ダータ島が見えてきた。遠くからでも、手のひらほどの大きさにしか見えない島を囲む竜巻が、ゴォォォと低く唸る。その音が空気を震わせ、私の耳にまで届く。剛壁という二つ名に偽りはない。風圧がここまで伝わり、肌がピリピリと締まるような感覚が走った。
「なあ、リコリス。もしここから落ちたらどうなるんだろうな?」
ルイズが不意に呟く。私は眉をひそめて聞き返す。
「はあ?」
島の真上に差し掛かった瞬間だった。彼女が突然、私の箒に飛び乗ってくる。ズシンと箒が揺れ、バランスを崩しそうになる私の後頭部に、彼女の杖先が押し当てられた。冷たい木の感触が首筋に伝わり、心臓が喉まで跳ね上がる。ルイズの顔を見ると、そこには不敵な笑みが浮かんでいた。
「命が欲しければ、リュックを渡して飛び降りろ」
「魔法も使えないのに杖向けてどうするの?」
私は平静を装って返すが、声がわずかに震えた。彼女はグッと杖を押し付け、首裏の皮膚が裂ける感覚が走る。チクッと鋭い痛みが広がり、血が滲むのが分かった。私は奥歯を噛みしめ、痛みを堪える。
「魔法は使えないけど、私は杖でアナタを突き刺せることはできるんだよ~?」
ルイズが白い歯を見せて笑う。その笑顔に、私の背筋が凍りつかせた。
「何が目的なの?」
「私は、ニュークリアスをこの箱庭から神界に送る使命がある」
「何を言ってるの? ニュークリアス?」
「見える事が真実じゃない。真実はいつも見えない場所に隠されている」
その言葉に、私の頭が一瞬空白になる。イレナ教の教えだ。なぜルイズが? だが、次の瞬間、彼女の足が私の顔を蹴りつけた。ガツンという衝撃と共に視界が揺れ、箒から身体が浮く。落ちる。風が耳元でヒュゥゥと唸り、私は叫ぶ間もなくダータ島へと墜落していった。見上げると、ルイズが私を見下ろし、遠ざかる声が響く。
「知りたかったら、ダータ島の近くにある小島、ハヌ島に行け!」
◯
「エルシリア様、前に調べてほしいと言っていた、アシュリーの部屋にあった小瓶の中身が調べ終わりました」
ドメの声が静かに響く。私は玉座に腰掛け、冷たく応える。
「随分と遅いね」
アシュリーが死んだ後、彼女の部屋を調べていた。あの血飛沫と肉片が飛び散る真っ赤な部屋で、突然漂い始めた神の力の匂いが気になっていた。小瓶を見つけた時、その中身は薬でも香水でもなく、確かに神の力を宿すものだと感じた。だからドメに調べさせたのだ。
彼女が小瓶と一緒に差し出した紙を手に取る前、ドメが慎重に口を開く。
「これを作ったのは、恐らくルイズかと」
「でも、この薬の作り方はイレナ教秘伝の魔具をベースにしてるって書いてある。ルイズはザラ教でしょ?」
「いえ、ルイズはイレナ教ですよ?」
「え?」
一瞬、時間が止まったような沈黙が流れる。私は違和感に襲われる。この世界が、私の知る世界とは違う何かに変わってしまったような感覚。だが、そんなはずはない。ルイズは私が創ったキャラクターだ。
なのに――まさか、反転生派が彼女のデータを書き換えたのか? 呼吸が乱れ、胃がキリキリと締め付けられる。私は背中を丸め、ドメが慌てて近づく。
「大丈夫です、落ち着いてください」
彼女の手が私の背中を優しく撫でる。私はその声に、ゆっくりと息を整えた。落ち着きを取り戻し、紙に指を突きつける。
「この‘解読不能’って何?」
「未知の魔法術式でしたので」
ルイズが反転生派と結託していると考えるべきか。私は頭を整理しようとするが、その時――
「危ない!」
ドメが叫び、私を玉座から引き寄せる。彼女に抱き寄せられ、床に倒れる瞬間、ガキィンという金属音が耳を劈く。振り返ると、玉座に剣が深々と突き刺さっていた。
ゆっくりと近づく足音。タッ、タッ、と床を叩く音が響き、ルイズが姿を現す。
「遂に薬を解読しちゃったか~」
彼女の声が怪しく響き、背中に背負ったもう一本の剣をスラリと抜く。私は立ち尽くし、身体が凍りついたように動かない。
「知らなかったらこんな事にはならなかったのに、ねえ――フーたん。」
その呼び方に、心臓が止まりそうになる。神界での私のあだ名だ。なぜルイズが?
「逃げてください!!」
ドメが叫ぶが、私の足は動かない。死の恐怖が全身を縛り、声すら出ない。ルイズが続ける。
「その薬は一時的に神の力を引き出す効果がある。前にヤナガがこの城に送ってきて、アンタとヤナガが接触してる時、アシュリーに飲ませたって戦略さ」
彼女がお腹を抱えて笑う。キャハハハハ! その笑い声が頭の中で反響し、私は震えが止まらない。
これも何かの作戦、ルイズのいう真の敵から私を守る作戦なんだ。そう、言い聞かせるが、心はすでに折れていた。
「ほーんとフランカって昔っからお人好しで馬鹿だったよね~」
ルイズが一歩踏み出す。ドメが私の前に立ち、「きっと迎えに行きます、隠れていてください」と囁き、エプロンのポケットから魔具を取り出して投げる。光が弾け、次の瞬間、私は別の場所に転移していた。
◯
「ハヌ島……確かイレナ教の残党が逃げた離れ小島だっけ」
私が呟くと、目の前に広がるダータ島の風景に息を呑む。竜巻に囲まれているはずなのに、風は一切吹かず、静寂が耳に重く響く。空を見上げると、さっきまでの厚い鼠色の雲が嘘のように晴れ渡り、青が広がっていた。結界の力だろうか。
足元の海は透き通り、見たこともない鮮やかな色の魚がキラキラと泳ぐ。ジャングルに足を踏み入れると、木々に実った果実の甘い香りが鼻を包み、湿った土の感触が靴底に伝わる。帰らぬ者たちが天国と呼んだのも、嘘ではなかったのか。
しばらく歩くと、遠くから微かな声が聞こえた。子供の助けを求めるような、か細い泣き声だ。私は杖を握り、ザッと草を踏み分けて走る。心臓がドクドクと鳴り、汗が額を伝う。
「人語を返すスライム!?」
声の主は、複数のゴブリンに囲まれたスライムだった。グチャグチャと殴られる音が響き、スライムが震えている。私は思わず身体が動き、杖を振り上げてゴブリンを追い払う。
「大丈夫?」
私が息を切らして尋ねると、スライムが涙声で答えた。
「ふえ~、ありがとぉ。小さいのに強いんだね、キミ」
「小さいは余計だよ。別に大したことしてないし、それより、何で喋れるの?」
「この島に遊びに来た人達に教えてもらったんだ! 凄いでしょ~、いっぱい話せるんだよ、僕!」
その無邪気な声に、私は一瞬呆気にとられる。スライムが喋るなんて。大陸ではペットの流行りものだったが、ここまで流暢に話すとは。奴隷商に売れば大金になるかもしれない――そんな考えが頭をよぎるが、すぐに打ち消した。
「ねえ、バルトロって人知らない?」
私の問いに、スライムがピタリと動きを止める。警戒するように距離を取り、声が硬くなった。
「もしかして、キミもお爺ちゃんの研究資料が目的で来たの?」
「違うよ。バルトロさんに用があるだけ」
もちろん嘘だ。だが、正直に言えば逃げられるかもしれない。私は平静を装う。スライムはしばらく私をじっと見つめ、やがて明るい声で言った。
「もしかしてキミ、いれなきょう?っていう宗教に入ってた?」
「そうだけど」
「名前は?」
「リコリス・シーラ」
その瞬間、スライムが飛び上がる。
「凄い! お爺ちゃんの予言通りだ!」
そして、「着いて来て! お爺ちゃんの家に案内するよ!!」と走り出した。私は驚きつつもその後に続く。
「バルトロって、もう生きてないと思ってた。」
「本当にこんな所にあるの?」
森の木々を縫うように走るスライムの後を追いながら、私は息を切らす。足元で草がザザッと擦れ、湿った土の匂いが鼻をつく。目印も何もない密集したジャングルで、スライムは魔力を頼りにしているのかと思ったが、バルトロという人物は魔力を隠すのが上手いらしい。探ってもゴブリンの魔力しか感じられず、スライムは「匂いで分かるんだ!」と得意げに言っていた。嗅覚がそんなに鋭いはずはないのに。
やがて、木々を抜けると不自然に円形に開けた場所に出た。切り開かれた跡が残る地面に、小さな家がポツンと立つ。私は立ち止まり、息を整える。
「バルトロさんはこの家?」
「そうだよ!」
スライムの声に反応するように、家の中から声が聞こえた。
「帰って来たのかね、アヌトリュース」
ドアがギィッとゆっくり開き、中から現れたのは、50歳後半といった雰囲気で、長年この島にいる者とは思えない。私は一歩踏み出し、頭を下げる。
「初めまして。私はリコリス・シーラです」
バルトロは私の名を聞き、目を見開いて固まった。驚きと喜びが混じった表情が顔に広がる。
「どーしたの? お爺ちゃん?」
スライムが不思議そうに尋ねると、彼は震える声で答えた。
「シーラの家系はあの大戦で絶えたと思った……良かった、本当に良かった……。僕の名はバルトロ・シーラ――」
そして、少し間を置いて続ける。
「キミにとっては先祖に近い存在になってしまうだろうね」
その言葉に、私の心臓がドクンと跳ねた。目の前の男が、私の過去と繋がっている。頭が混乱し、胸の奥で何かがざわめき始める。
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