表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
少女と少女は鏡面世界をさまよう  作者: 江戸前餡子
第二章・伝説の魔術師バルトロとダータ島
14/44

13・ルモー村、赤に満たされ

「イルマ、エルフを無事箒で逃がすことができた。俺たちの逃げるための船も、もう少しで着水できる……けど」


 男の声は、風に揺れる帆の軋む音にかき消されそうだった。彼は横目で周囲を素早く見回し、イルマの耳元に顔を寄せる。息がかかるほどの近さで、「亜人族の様子がおかしいんだ」と囁いた。ゴウッと波が船体を叩く音が響き、甲板の木が微かに震える。その声は小さく、周囲に潜むかもしれない耳を避けるためのものだったのだろう。けれど、私には分かる——男が背負っているのは、とてつもない爆弾のような緊張感だ。


 亜人族たちは、深く被ったフードで顔を隠し、口元しか見えない。薄暗い影の中で、わずかに動く唇が不気味に浮かび上がる。彼らの視線が、まるで鋭い針のようにニュークリアスたちに向けられている気がした。波の音が一瞬途切れると、耳に届くのは彼らの衣擦れの音——カサリ、カサリと、ひどく静かで不自然な動き。奇襲のタイミングを窺っているのか? それとも……私の胸に冷たい疑念が広がる。第一王女である私を見抜いているのかもしれない。視線の大半が、私に突き刺さっているような感覚がするのだ。


「なんだグラ、亜人族の様子がおかしいのなんていつものことだろ」


 イルマの声は軽く、まるでこの緊迫した空気を切り裂くように響く。彼女は気づいていない。甲板を行き交う兵士たちのざわめき、武器を握る手つき——どれもが鈍く、ただの凡人が集まった軍隊そのものだ。視線の先を追わず、異変を「いつものこと」で片付けてしまう。私は内心で舌打ちした。気づけよ、この空気の重さ。潮風に混じる、どこか獣じみた匂いさえ感じるのに。


「いや、みんな大人しいというか……変に素直というか……」


 グラの声には、隠し切れない不安が滲む。


「ふーん、まあ警戒しておこう」


 イルマは気のない返事を返すと、視線を端に佇む女へと移した。彼女は指をさし、「アイツ、誰だか分かるか?」とグラに投げかける。


「誰って、初めて見る」

「またまたぁ、一回ぐらいは会ってると思うぞ」


 私は顎に手を当て、その女をじっと見つめた。波の音が遠くで唸り、船の揺れが足元を不安定にさせる中、彼女の姿がぼんやりと浮かぶ。話したことはないが、オストラン城内で何度か見かけた記憶が蘇る。「オストラン騎士?」と呟くと、驚きが喉の奥で小さく跳ねた。


「大正解。アイツは師匠に薬を渡したのさ」

「薬……って、アシュリーに飲ませたあの薬?」

「そうそう、あの薬」

「でも何してるの? 遠くの方なんか見て」


 女は海の果てを眺めていた。水平線に溶けるような視線は、どこか悲しげで、目を細めるその表情からは、今にも海に身を投げてしまいそうな儚さが漂う。潮風が彼女の髪を揺らし、かすかに聞こえる波の音がその寂しさを増幅させる。けれど、その手は奇妙に楽しげに手すりを叩いている。トン、トン、トン——指が跳ねて着地するリズムは、単なる気まぐれではなく、何かを伝えようとしているかのようだった。私は眉を寄せた。異様なコントラストだ。


「さーな、今までの思い出を振り返ってるんじゃないか? 知らんけど、アイツはクラーケンの生贄だからな」


 イルマの言葉に、私は彼女の手元を見た。そこには、鋭く光る刃物が握られている。刃先が僅かに震え、彼女の指の動きに合わせて微かに揺れる。私は思わず息を呑んだ。手首を切って血を流し、海に身を投げるつもりなのかもしれない。だが、ふと疑問が浮かぶ。クラーケンなら、巨大な魚の方が簡単に呼べるのではないか?そう思った瞬間、イルマが口を開いた。


「もうすぐ本格的に冬になる今、クラーケンの好む魚はなかなか手に入らないんだよ」


 その言葉に、私は小さく頷いた。確かに、冷たい風が甲板を吹き抜けるこの季節、魚の気配は薄い。彼女が歩き出す背中を見ながら、私は一歩踏み出そうとした。だが、その時——


「海に人影有り!海に、人影、有り!」


 女が叫んだ。さっきまでの寂しげな表情が嘘のように、ハキハキとした声が甲板に響き渡る。私は息を止めた。彼女の声に、船全体が一瞬にして凍りついたような静寂が広がる。


「ヤバい! こっからはクラーケンのいる海域だ! グラ、船の方は?」

「準備できた!」


 グラが大きく手を振った瞬間、背後で轟音が炸裂した。木が砕け散る音が空気を切り裂き、船体が天を舞うような衝撃が私を襲う。イルマの額に緊張の汗が光り、頬を滑り落ちる。私は振り返る——船が、木っ端微塵に砕けていく。


「イルマ、箒は?」

「こっからルモーまでは魔力が持たないんだ!」


 彼女が舌打ちする音が鋭く耳に刺さった。「本当の非常時用に準備してある舟で逃げよう」と、私にだけ小声で囁いた瞬間、巨大な影が二人を覆った。水飛沫が顔に降りかかり、冷たい感触が全身を震わせる。私は息を呑んだ。考えるまでもない——クラーケンだ。


「リコリス、こっちに来い!」


 イルマが走り出す。私はその背中を追おうとしたが、クラーケンが海面に姿を現した衝撃で生まれた巨大な波が船を揺らし、甲板が狂ったように傾く。人々がよろめき、物が転がり、金属が甲板にぶつかるガンガンという音が耳を劈く。私は足を滑らせ、イルマから一瞬にして引き離された。


「はっや、さすがは海の女……」


 彼女が入った入口は、倒れてくる帆柱に叩き潰され、木の破片が飛び散る音が私の耳を打つ。行き場を失った私は、足が止まった。周囲では兵士たちが立ち向かい、魔法を放つ。青白い光が飛び交い、ズンッと空気を震わせるが、クラーケンの巨体にはまるで効果がない。見上げる——その大きさは、頭上すら見えないほどだ。ハエが頭突きするようなものだと、私は唇を噛んだ。兵士たちは次々と海に飛び込み、逃げていく。


「これが伝説の魔物……か。格が違う」


 だが、この身体なら倒せるかもしれない。私は目を細めた。けれど、それは自分も倒れる覚悟が必要だ。人間相手でも、魔法の反動で悲鳴を上げるこの身体——こんな規格外の巨体を倒すほどの魔法を放てば、臓器が潰れ、魔法の出た反動に耐えきれず空に吹き飛ばされるだろう。


(なら逃げるか?)


 ニュークリアスはプログラムの塊であり、ゼロは海とは無縁の生き方だった。だから、泳ぎ方を学んでいない私は泳げなかった。


(なら、空を?)


 飛ぶことはできる。だが、飛んだところでこの身体じゃ直ぐに海面に落ちる。私は舌打ちした。


 気がつけば、船体が傾き、甲板に海水が流れ込んでいた。私は転がってくる樽に押され、小さな身体が手すりに叩きつけられた。ズキッと背中に痛みが走る。


「こりゃ沈むのが早いわけだ」


 船には大穴が空いていた。海水がゴウゴウと流れ込み、沈没は時間の問題だ。幸い、クラーケンはこちらに気づいていないようだった。だが、その振り上げる腕は、明らかに船を真っ二つに叩き割る意思を語っている。私は逃げ場を失い、手すりに身体を預けた。そして、手の平をクラーケンに向ける。

魔力の量は、その大木のような腕を吹き飛ばせる程度——この身体が耐えられる限界だ。


「コール、レコード055」


 全身に重力が押し潰すような感覚が襲い、ドッと血が口から溢れ出す。鉄の味が喉を焼く。振りかざされた腕が跳ね飛び、クラーケンが空を割るような咆哮を上げる。私は唇の端を上げた。


「フッ……なんだ、声あるじゃん」


 視界の端で、イルマが舟から「降りてこい」と合図する姿が見えた。私は最後の力を振り絞り、後ろへジャンプし、舟へと身を投げ出す。頭が水面に触れる直前、イルマの魔法が間に合い、私をゆっくり舟に乗せた。血まみれのローブに彼女の眉が跳ね、「無茶しやがって」と呟きながら懐から小瓶を取り出す。


「薬だ、口は開けられるか?」


 蓋を外し、小さく開いた私の口に流し込む。苦味が舌を刺し、私は顔を歪めた。


「マッズ……」


 「よく効くだろ?」とイルマはカラカラ笑うが、すぐに表情が引き締まる。


「さて、どうしようか」


 船を潰し、ゆっくりとこちらに迫るクラーケンに、彼女は白い歯を覗かせた。楽しそうに。


「戦うのは避けよう」

「当たり前だろ〜」


 私を横にさせ、イルマは即座にオールを握った。


「それで逃げる気?」


 呆れた声に、「フッフッフ……だと思うじゃん?」とウインクし、「まぁ見とけ」と言うなり、舟がグン!と異常なスピードで進み始めた。木が軋み、悲鳴のような音を立てる。私は目を丸くした。こんな速さ、舟が耐えられるはずがない。


「オラオラオラオラー! クラーケンがなんぼのもんじゃー!」

「舟が壊れるって!」


 だが、彼女の言う通り、クラーケンの姿はあっという間に遠ざかった。いや——見えなくなったのではない。海面にいないのだ。私は胃の底から冷たい感覚が這い上がるのを感じた。

「イルマ、クラーケンが海に潜った」

「だから何だ! 今は逃げるしかない! 大丈夫、もう少しでトラップのあるポイントに着くから」


 その言葉の直後、海面が盛り上がり、白い水柱が轟音と共に立ち上がる。うねる巨大な足が舟を囲み、水中から鋭い牙が光る口が現れた。単眼が私たちを——魂そのものを凝視している。私は恐怖ではなく、感心に近い感情を抱いた。神は恐ろしい化け物を創ったものだ。


「どうする?」

「どうするって、こーも囲まれたらなぁ……」


 イルマは腰の杖に手をやるが、塔のような足に圧倒されていた。私は息を詰めた。下手に動けば襲われる。だが、動かなくても襲われるだろう。彼女が空を見上げているのに気づき、私は呟いた。


「何で空ばかり見てるの?」


 彼女の口角がゆっくり上がる。


「やっぱり私は神に愛されてるねえ」


 指さす先で、一筋の光が走り、弾けて眩い輝きを放った。私は腕で目を覆った。クラーケンも眩しさに耐えきれず、海底へ戻る。


「イルマ殿、助けに参りましたよ」

「ナーシャ、戻ってきたのか?」


 長い耳と光に溶ける白髪——エルフだ。


「乗ってください、箒で逃げましょう」


 エルフの魔力量なら大陸間移動も可能らしい。その後、イルマの提案でルモー村へ向かったが——


「燃えてる」


 村は火の海だった。私は息を呑んだ。灰と煙が空を覆い、燃える家の崩れる音が耳を打つ。


「もう行きましょう。まだ焼き払った者がいれば面倒です。この広い村を火の海にしたんです、大隊に違いありません」


 だが、イルマは聞かず、遠くを必死に見渡していた。


「イルマ、何を探してるの?」


 彼女の顔が止まり、眉間に暗い影が落ちる。「ちょっとそこで待ってろ、すぐ戻る」


 杖を抜き、走り出した。その先は、最も高く燃え盛る家だった。


 私とナーシャは顔を見合わせ、首を傾げた。



「エルシリア様、ルモー村を焼き払ったと、ドメ・ハーカナから連絡がありました」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ