12・奪取
「ニホンなんて島国、聞いたことないんだけどさ。本当にラプラスの書って存在するの?」
私の声は、白く果てしない空間に吸い込まれるように響き、少し震えていた。不安と好奇心が交錯し、喉の奥で言葉が引っかかる感覚があった。
「存在するノ。きっとこの惑星には、裏と表で別の世界があるノ」
向かい合ったニュークリアスの声は、軽快でどこか確信に満ちていた。彼女の手がスッと動くと、掌から一枚のコインが現れる。金属が擦れる微かな音が耳に届き、コインが私の目の前でくるりと回転した。表。裏。光を反射して鈍く輝くその表面が、何か途方もない秘密を隠しているかのようだった。
「このコインみたいに、この惑星にも裏表があるノ。コインなら穴を空ければ裏に行ける。でも、ここは球体だから、そう簡単にはいかないノ」
球体という言葉に、私は眉をひそめた。頭の中でその意味がグルグルと回り、信じられない思いが胸を締め付ける。この世界が丸いなんて初耳だ。目の前のニュークリアスは、何でも知っているような顔で私を見ている。でもその知識、本当なのか? 彼女の言葉にはいつもどこか胡散臭さがあって、心の奥で小さな疑念がチリチリと燃えていた。例えば、人間を装った神がこの世界に住んでいるだとか、人も木々も海も全て「ぷろぐらむ」っていう謎の文字で出来ているだとか。そんな突拍子もない話、信じられるわけがない。
「じゃあ、どうするの?」
私の声はかすれ、わずかに苛立ちが混じっていた。
「さぁね。まあ、外に出れたら、人に装った神でも探すのが手っ取り早いかなナノ」
ニュークリアスは肩をすくめて笑った。まるで大したことじゃないかのように。
「ニュークリアスって、人間と神を見分けられるの?」
私は目を細めて彼女を見つめた。疑いが声に滲み出ていた。
彼女はニヤリと口角を上げ、自信満々に胸をドンと叩いた。
「ニュークリアスはね!」
その仕草に、私は思わず目を丸くする。冗談なのか本気なのか分からないその態度に、呆れと期待が混じり合った妙な気持ちが胸に広がった。
「ってことは、身体は貸した方がいい……か」
私の呟きに、彼女は目を輝かせて頷いた。
「生きたくばね! ニュークリアスも01にはやって欲しいことがあるから、そっちの方が助かるノ」
首を傾げる私の目の前で、彼女がパチンッと指を鳴らす。鋭い音が空間に響き、次の瞬間、白い四角い箱と、表面に無数のブツブツがついた板が現れた。箱は冷たく硬質な質感で、ブツブツの板からは微かな埃の匂いが漂ってくる。
「何これ?」
私は眉を寄せ、指先でそっと箱に触れた。ひんやりとした感触に驚きが走る。
「これはパソコンっていう物ナノ」
ニュークリアスがブツブツの一つをカチッと押すと、箱の表面に光が灯り、数字が浮かび上がった。静かな電子音が耳に届き、私は目を丸くして息を呑む。どういう仕組みだ? 魔法か? でも魔法陣なんてどこにも見当たらない。超能力? いや、まさか。頭の中で疑問が渦巻き、心臓がドクドクと速く脈打った。
「今、数字と文字が羅列されてるこの面を『画面』って言うノ。この文は全て、01の体調と知識量を表してる」
「ちょっと待って。01って私だよね? こんな訳のわからない文字で私が作られてるって言うの? さすがに無理があるよ」
私は声を荒げ、眉間に皺を寄せた。信じられない。こんなナンセンスな話、笑いものだ。
するとニュークリアスは「なら、それを証明してあげるノ」と呟き、板を叩く。カタカタという乾いた音が響き、画面に一文が加わった瞬間——私の身体が熱くなり、視界が一瞬揺れた。
「これでも信じられないノ?」
言葉を失った。次の瞬間、私の身体は大人の女性へと変わっていた。手が震え、大きく膨らんだ胸にそっと触れる。柔らかくて温かい。本物だ。心臓が喉まで跳ね上がり、息が詰まる。魔法を超えた力——神技としか言いようがない。呆然と立ち尽くす私に、ニュークリアスが得意げに続ける。
「でしょ? ちなみにこの板は『キーボード』って言うノ。これでこの本を見つつ、身体にある毒の除去と、脳に制限をかけてる洗脳を解いて欲しいノ」
彼女が差し出した分厚い本は、確かにこの国の言葉で書かれていて、驚くほど読みやすかった。私は本を手に持つと、その重さに少しよろめく。
「でもこんな文字、知らないよ」
私の声には不安が滲んでいた。
「本にはこの国の言語で翻訳されて説明されてるから、安心するノ」
確かに読みやすい。でも、こんな自由に何でもできるなら——
「ねえ、ラプラスの書ってこれで作れないの?」
私の問いに、ニュークリアスは少し顔を曇らせた。
「それが出来てるなら、とっくにやってるノ。ラプラスの書は別のプログラム言語で、生成されてるから無理ナノ」
そう上手くはいかないか。落胆が胸に重くのしかかる。
「分かったナノ?」
「分かった……でも、私、いつ肉体に戻れるの?」
声が小さくなり、希望と不安が混じった目で彼女を見た。
「そのうちナノ」
その曖昧な答えに、私は目を細める。
「それ、信じてるから」
疑いが声に滲み、彼女の顔をじっと見つめた。
ニュークリアスはニコリと微笑むが、その笑顔には何か引っかかるものがあった。
「私が居なきゃ貴女は死ぬノ。だからお互い生き残るために力を合わせなきゃ」
その言葉に、私は背筋がゾクリと冷えた。彼女が光の粒子となって消える瞬間、白い空間に微かな風が吹き、肌にチリッと触れた。
「当分はこの身体に戻らない方が良いと思うノ」
最後の言葉が耳に残り、彼女の姿は完全に消え去った。私は一人、白い空間に取り残され、心臓の鼓動だけがやけに大きく響いていた。
◯
「ルイズさん、反乱軍がワーヴァル街を突破しました!」
若い騎士の声が部屋に響き渡り、鋭く耳を刺した。私は目を丸くし、胸がギュッと締まるのを感じた。
「ルイズさん! ワーヴァル街付近の臆病者の森でロストしました!」
別の声が重なり、慌ただしい足音が石の床を叩く。驚きが全身を駆け巡り、一瞬息が止まった。あの寄せ集めの反乱軍が、バジリスクを倒しただと? 信じられない思いが頭を支配し、心臓がドクドクと暴れていた。
だが——臆病者の森か。そこに逃げ込んだなら、奴らもただの烏合の衆じゃない。私は唇を噛み、額に冷や汗が滲むのを感じた。頭の中で状況がグルグルと回り、冷静になろうと深く息を吸う。
「エルシリア様を南の塔に避難させて。こんな状態を敵に見られたら、エルフに情報が漏れて、それこそ戦争の引き金になる」
私の声は低く、抑えた緊張感が滲んでいた。目の前のメイド騎士たちがコクリと頷き、焦りながらも従う姿に、少しだけ安心が戻る。
「ゼロはどうしますか?」
一人が眉を寄せて尋ねた。私は一瞬目を閉じ、決意を固める。
「あれは私が何とかする。」
臆病者の森でロスト。その意味の恐ろしさは、古参のメイド騎士にしか分からないだろう。森の暗がりで蠢く影、風に揺れる木々のざわめき、足元に絡みつく湿った土の感触——あそこはただの逃げ場じゃない。罠だ。私は唇をぎゅっと結び、心の中で最悪のシナリオを覚悟した。
「外にいる騎士を城に戻して。臆病者の森には、この城の北棟に続く地下通路があるんだよ」
私の言葉に、命じられた騎士の一人が目を丸くして顔を青ざめさせる。
「そうだったんですか!?」
彼女たちの足音が遠ざかり、石壁に反響する。私は一人残され、窓から見える空に目をやった。月が眠りに就き、空が深い紺色に染まる。眠気が襲い、大きなあくびが喉から漏れた。
「あ~あ、仕事って最高だな」
皮肉を込めた呟きが、静寂に溶けていく。
◯
「ゼロ、私だ……って、寝てるか」
北側の塔の冷たい石の部屋で、私は眠るゼロを見下ろした。正確には、眠らせたのだ。薬の効果が切れかけ、彼女の胸が微かに上下する音が聞こえる。私はそっと息を吐き、腰に手を当てた。
私がここにいる理由? それは——
「来たか」
背後で足音が響き、私は振り返る。
「ワーヴァル街の時はありがとさん、師匠」
イルマの声が低く響き、彼女の姿が薄暗い部屋に浮かんだ。ローブの裾が揺れ、靴底が石を擦る音が耳に届く。彼女の表情には余裕が滲み、驚きはない。私は目を細め、心臓が少し速く脈打つのを感じた。
「まあな。可愛い弟子を見殺しにはできないから」
私の声は軽く、だが内心では緊張が走っていた。
「なら、黙ってそこを退いてもらおうか」
イルマが杖をスッとこちらに向ける。金属が空気を切る微かな音が響き、私は一瞬息を呑んだ。
「私はエルシリア様に仕えるメイドだよ? そんなことできるわけないでしょ」
私の声には皮肉が滲み、唇がわずかに歪む。
「ッハ! そこまで居心地が良いのか?」
イルマが笑い、私は肩をすくめた。
「教えな~い。まあ、美味しい物が食べられるのは確かだね」
「食べ物か。相変わらずだ」
その瞬間、右足の裏から魔力がビリビリと伝わってきた。無詠唱か! 雑過ぎる攻撃に、私はひらりと身をかわす。だが、彼女もそれが避けられるのを分かっていた。部屋が一瞬で白い煙に包まれ、視界が奪われた。鼻を刺す煙の匂いと、耳に響く微かなヒュッという音。
「師匠はいつまでごっこ遊びを続ける気だ!」
イルマの叫びが煙の中から響き、怒りがこもっていた。私は唇を噛み、冷静に返す。
「まだやらなきゃならないことがある」
「そうやってアシュリーは死んだんだぞ、分かってんのか?」
後頭部に迫る冷気がゾクッと背筋を這う。氷の礫だ。私は指を鳴らし、パチンッと鋭い音と共にそれを粉砕する。破片が床に落ち、キラキラと散らばった。
「おっと、しくじった☆」
私の軽口に、イルマの苛立ちが伝わってくる。だがその瞬間、粉砕した氷の破片が紫色に光り始めた。奇妙な魔力に、私はハッと息を呑む。氷魔法じゃない——転移血石だ! 気づいた時には遅く、視界が歪み、次の瞬間、私は城の外に放り出されていた。
冷たい風が頬を叩き、草の匂いが鼻をつく。私は歯を食いしばり、状況を理解した。視界を白くしたのは氷かどうか分からなくするため。転移血石を魔法で隠した巧妙な罠だ。私の弱点を——まさか?
急いで箒を出し、風を切って塔に戻る。ゼロは変わらず石の椅子で眠っていたが、私はその魔力の感触に確信を持った。
「やっぱりゼロと瓜二つだ。記憶が間違ってなくて良かった」
第1フェーズは突破した。あのお姫様が第2フェーズが終わるまで気づかなければいいが——
「まさか、また再会できるとは思わなかったよ、お姉ちゃん」
私の呟きは、冷たい塔の空気に溶けていった。
◯
妙な揺れが身体を包む。床がギシギシと軋み、潮の匂いが鼻腔に流れ込む。ここは船の中だ。私は目を瞬かせ、薄暗い部屋を見回した。ベッド以外何もない殺風景な空間。木の壁からは湿った感触が伝わり、遠くで波が船体を叩く音が響く。
立ち上がろうとした瞬間、扉がガチャリと開いた。民族的な柄のローブを纏った女性——恐らく亞人族だろう——が、目元までフードを被って入ってくる。彼女の視線が私を捉えた瞬間、鋭い声が部屋に響いた。
「リコリスが目を覚ましました! リコリスが目を覚ましました!」
彼女は報告用のパイプの穴に向かって叫び、その声が金属に反響して耳に刺さった。私は眉をひそめ、心臓がドキリと跳ねる。
「これは何本に見えますか?」
彼女が指を2本立てて尋ねる。私は目を細め、かすれた声で答えた。
「2本」
「これは?」
今度は5本。
「5本」
女性はホッと息を吐き、「目覚めてくれて嬉しいです」と呟いた。安堵の表情に、私は首を傾げる。すると、扉が再び開き、イルマが入ってきた。
「2日昏睡状態だったから心配したよ、ニュークリアス」
彼女は亞人族の女性を部屋から出し、私と二人きりになる。
「気分はどう?」
イルマの声は落ち着いていたが、どこか緊張が隠れているように感じた。私は身体を軽く動かし、確認する。
「気分は良いナノ。身体の毒は無くなったみたいだし。それより、どこに向かってるノ?」
「ルモーだよ。まあ、その間に一悶着あるけど」
「一悶着?」
私の声に疑問が滲む。イルマは小さく笑った。
「そーだよ。あと、ニュークリアスはこれからリコリスとして当分過ごして。この船の中では特に注意な。亞人族の前では特にね。ヤツらは種族復活のために第一王女を探してる」
「今は失敗して、リコリスが気絶して逃げてきたって設定ナノ?」
「そういうこと。あと、その語尾もやめてくれ。アイツはそんな喋り方しないから」
「分かった」
イルマは一度咳払いをして、口調を切り替えた。
「じゃあ、私と一緒に甲板へ上がろうか。準備しよう」
堅苦しさが抜けたその声に、私は目を丸くする。
「何の?」
イルマが振り返り、怪しく笑った。瞳がキラリと光る。
「この船の中にいる亞人族を一掃する準備さ」
甲板に出ると、海風が髪を乱暴に揺らし、塩の匂いが鼻を刺した。水平線に広がる青が目に眩しく、私は口元が緩むのを抑えきれなかった。
「やっと自由になった」
心の中で呟きながら、波の音に耳を傾けた。