11・ワーヴァル街占領
「来いよ、バジリスク」
私の声が洞窟の闇に響き渡った瞬間、バジリスクの咆哮が空気を震わせた。ゴオオオオッ! その野太い声は地面を揺らし、私の胸に冷たい死の予感を突き刺す。心臓がドクドクと激しく脈打ち、手のひらが汗でじっとりと濡れる。この圧倒的な魔力の前で立ち向かうなんて選択肢は既に消えていた。今、頭の中を支配するのはただ一つ――どうやって逃げるか、だ。
目の前にそびえるバジリスクは、全身が血まみれで傷だらけだった。ボロボロの鱗が剥がれ落ち、赤黒い血が滴り落ちて地面に染みを作っている。狭い穴の中で舌をシュルシュルと不気味に動かし、苦しげに息を吐くその姿は、エルシリアの騎士に無理やり連れてこられた哀れな怪物にしか見えなかった。だが、その目だけは鋭く、私を捕らえて離さない。ゾッとするほどの殺意がそこに宿っていた。
「平和を愛する騎士団、オストラン帝国軍とは……よくもまあ、そんな綺麗事を並べられるもんだな」
皮肉が口をついて出た瞬間、バジリスクの喉が真っ赤に光り始めた。次の瞬間、ズドオオオオッ! 火炎が迸り、熱風が私の顔を焼き焦がす勢いで迫ってくる。私は咄嗟に横の通路へ飛び込んだ。ドガッ! 背後で壁が焼ける音が響き、焦げ臭い匂いが鼻をつく。だが、それさえも予想していたかのように、バジリスクが火炎の中から姿を現した。巨大な影が私の視界を覆い、鼻息が顔に当たる距離まで一瞬で詰めてくる。
早い!
心の中で叫んだ瞬間、目を見開く。だが――
「なーんてな、アシエ・ランプ!」
こちらもその動きを読んでいた。人差し指を素早く動かし、地面から鋼の塊を出現させる。ゴゴッ! 硬い音と共に鋼がバジリスクの顎に突き刺さる――はずだった。その頑丈な顎は鋼を泥のように弾き返し、ガキンッ!という甲高い音が響く。私の目が驚愕に見開かれる。鋭い牙を剥き出しにして再び吠える巨大な蛇を前に、私は自分がカエルになったような錯覚に陥った。喉がカラカラに乾き、恐怖が背筋を這い上がる。
必死に魔法を放ちながら逃げる。ズバン! バシュッ! 魔力の衝撃が空気を切り裂き、壁に跳ね返る音が耳を劈く。そんな中、ふと優しい風が頬を撫でた。冷たく湿った空気が肺に流れ込み、一瞬だけ冷静さを取り戻す。
「日頃の行いが良けりゃ出口があるかもな……って、良くないけどさ」
自嘲気味に呟きながら、風の流れに意識を集中する。「風さんは何処から吹いてるんだかな~」と呟いた瞬間、バジリスクも同じ風に気づいたらしい。さっきまで私を執拗に追いかけていたくせに、外が近いと感知したのか、急に進路を上へと変えた。ゴゴゴッ! 天井を突き破るような音が響き、土と石がバラバラと落ちてくる。上にも行けるのかよ! と内心で叫びながら、私はその動きに目を奪われる。
バジリスクは賢い。たとえ自分より遥かに弱い相手でも油断せず、不利な場所では有利な場へ移動する習性がある。その本能が私を救ったとも言えるが、同時に新たな問題が頭をよぎる。
「今度はリコリス達が大変になるな……」
彼女たちは、ワーヴァル街を横断してオストラン城へ向かう予定だった。バジリスクがそこに現れれば、簡単に邪魔されるだろう。亞人族とエルフの数百人パーティーならそう簡単にはやられないだろうけど――そう願うしかない。私の胸に不安が広がり、仲間たちの顔が脳裏を過る。
ちなみに、この基地には街の外へ直接出る出口はない。唯一の脱出路はB地区のマンホールだけだ。それがどれほど面倒かは、ここでの戦いで嫌というほど思い知らされていた。あのクソ蛇が作った道を使わず、囁くように吹く風を頼りに進むしかない。
「こりゃ驚いたな」
足を止めた瞬間、目の前に広がる光景に息を呑んだ。最下階から地上まで、歪な巨大な穴が一直線に伸びている。さっきの騎士との戦闘でできたのだろうか? 頬を撫でた風も、ここから吹き込んできたに違いない。だが、遥か上を見上げると、地上から巨大な蛇の影が私を睨みつけているのが見えた。ギラリと光る目が、私の魔力を追って待ち構えている。這い上がれば叩き落とす気だ。その魂胆が手に取るように分かり、別の道を探したくなる。けれど、ここまで来る途中で見た崩れた通路の数々を思い出し、骨が折れる選択肢しかないことを悟る。
「近道は遠回りなんて言うけど、絶対にバジリスクと戦った方がマシだよな~」
深呼吸を一つ。吸い込んだ空気が冷たく肺を満たし、騒ぐ心を無理やり抑え込む。大杖を両手で握り締め、震える指先で力を込めた。心の中でカウントを始める――3、2、1……
「ダーリャ!」
大穴に飛び込むと同時に叫び、足元から竜巻を発生させる。ビューウウウッ! 風が唸りを上げ、私の身体を押し上げる。だが、バジリスクもその瞬間を待っていた。雨のように降り注ぐ火球が、ゴウゴウと耳をつんざく音と共に迫ってくる。私は竜巻を操りながら、器用にその間を縫う。ズドン! 火球が近くを掠め、熱が髪を焦がす臭いを漂わせる。魔法と魔法がぶつかり合う摩擦で、一瞬だけ爆発的な高魔力が生まれ、竜巻の軌道が乱れる。ドガッ! 耳元で爆音が響き、コントロールを少しでも誤れば火球に飲み込まれる。数十センチ先に感じる熱が全身を炙るが、今は何も感じない。
頭の中は魔力のコントロールだけに支配されていた。火球の位置は目で見えず、ただ魔力の流れでしか判断できない。だから――
穴から飛び出した瞬間、バジリスクの巨大な口が私を囲んでいたことに気づくのが、数秒遅れた。
「ヤバい……!」
口が閉まり、光が徐々に途絶えていく。ガチッ! 牙が擦れ合う音が響き、暗闇が迫る。私はとっさに杖を構え、喉が締め付けられる恐怖を押し殺して詠唱する。
「アシエ・ランプ!」
杖先から巨大な鋼の塊が飛び出し、ガキンッ! バジリスクの牙を一本砕く。折れた牙が地面に落ちる鈍い音が響き、私はその隙に外へ飛び出した。だが、その瞬間――バジリスクの知能が魔物の域を超え、戦い慣れた騎士の領域に達していることを悟った。
出た瞬間に迫る尻尾。ズドオオッ! 空気を切り裂く音が耳に突き刺さる。歯を折られた時に私が飛び出すのを予測していたのだ。魔法を唱える時間すらなく、尻尾が私の身体に叩きつけられた。ゴシャッ! 全身に衝撃が走り、一瞬意識が飛びかける。視界が眩み、足元がふらつく。逃げなきゃ、逃げなきゃ――心が叫ぶが、身体が言うことを聞かない。
「皆、助けてくれ、パーパルシェ……」
震える声で呟くと、紫の閃光が上空へ走った。ビュン! その光を見た仲間たちの群れが、遠くから黒煙のように迫ってくるのが見える。私の胸に安堵と焦りが混じる。
「まさかワーヴァル街でこんな苦戦するとはな……ルイズもつくづく賢いヤツだ」
バジリスク、数少ない騎士、不完全な第一王女――その手札で複雑な戦略も使わず、配置とタイミングだけで我々の兵をどれだけ削れるかを計算し尽くしていたのだ。ワーヴァル街を出た時には、数百いた仲間が私を含めて50人程度にまで減っていた。恥ずかしいが、「流石だな」と呟く声が漏れる。地面に膝をつき、血と泥にまみれた手で顔を拭う。
「死にそびれた……イルマ、少なくなったけど進むの?」
リコリスの声が背後から響き、私は顔を上げる。彼女の目には疲労と決意が混在していた。
「進むよ。今更戻るわけないだろ、リコリス」
遠くにオストラン城の頭が小さく見える。あの頂を目指すしかない。血と汗に濡れた顔で、私は大杖を握り直した。風が冷たく頬を切り、戦いの余韻と新たな覚悟が私の胸を満たした。