09・誤報
ただただ黒い、退屈な夜空が広がっていた。冷たい風が草原を撫で、馬車の軋む音だけが静寂を切り裂く。私の耳には、車輪が地面を叩く鈍い響きと、馬の荒々しい息づかいが届いていた。
「やる事は、ワーヴァル都市開通のためにエルシリア軍を殲滅することだ」
声が低く響き、馬車の中の空気が一瞬にして重みを帯びる。私たち6人は、第一王女奪還という使命を胸に、ワーヴァル都市近辺の草原を疾走していた。村を出てからどれだけの時間が経ったのか。顔を上げると、仲間たちは硬い木の椅子に疲れ果てた腰を擦り、長時間の箒移動に慣れた者さえもが顔を歪めている。なるほど、かなりの距離を移動したらしい。私の背筋にも、じわりと鈍い痛みが広がっていた。
「これ、これね、魔動式時限爆弾」
目の前に置かれた、四角い木箱。その表面にはルーン文字がびっしりと刻まれ、薄暗い馬車の中で鈍く光を反射している。通り過ぎる仲間たちは首をかしげ、不思議そうにその物体を眺めた。私は説明を続ける。
「コイツが爆発したら、ワーヴァル都市の南門前で待機してるリコリスが、ルモー村の方に成功を知らせる緑色の閃光弾を空に撃ち込む。――っと、ここで止めろ。お前は偵察頼む」
「あいさ〜」
ルビーが単眼望遠鏡を手に取り、ぎゅっと伸ばす金属音が響く。彼女は都市の方をじっと見つめ、口元に満足げな笑みを浮かべた。「予定通りエルシリア軍がいますね。感心感心。」その声には余裕が滲んでいる。彼女の赤い髪が風に揺れ、馬車の隙間から差し込む月光に照らされた。
「イルマ、敵は30人。見事に全員屋根の上にいるから分かりやすいよ。でも、一種族で騎士がこんな人数まだ残ってるって、エルシリア軍は化け物か?」
私の心臓が少し速く脈打つ。30人。屋根の上という異常な配置に、頭の中で警鐘が鳴り始めた。「全員が純粋な騎士ってわけじゃない。恐らく市民も混じってるだろう」
「そっか〜。まぁ、10年以上戦争が続いていれば、騎士が減るのは当然か」
ルビーの声は軽いが、その言葉には現実の重さが宿っていた。もし全員が鍛え上げられた騎士なら、都市の入り口で堂々と待ち構えているはずだ。屋根の上にいるということに、騎士の実力の程度を容易に把握できて、ホッとする。
「杖を持ったな? 合図と同時に一人は後方の馬車に攻撃の合図を送れ」
馬車から降りた瞬間、冷たい夜気が頬を刺す。足元の草が靴底で潰れる微かな音が聞こえ、手が震えていることに気付いた。心臓が喉元で鳴り響く。怖い? いや、違う。私は唇の端を吊り上げ、小さく笑った。
「ふっ、私が戦争に興奮するなんてな」
胸の奥で熱いものが渦巻いている。この作戦が成功すれば、道のりは楽になる。第一王女は我ら反エルシリア派の手に落ちるのだ。勝利の味が、すでに舌先に広がるようだった。
「作戦……開始!」
私の叫び声が夜空を切り裂き、同時に閃光が空を染めた。鋭い光が視界を焼き、耳に届く馬車の軋み音が一気に加速する。箒に乗った亜人族の仲間たちが飛び出し、風を切る音が耳を劈く。私たちもその勢いに乗り、門に向かって走った。巨大な門が口を開け、暗闇が私たちを飲み込む。と、その瞬間――目の前に魔弾が閃いた。
「――ッ!」
鋭い風切り音と共に、青白い光が迫る。心臓が一瞬止まりそうになるが、すぐに冷静さを取り戻す。ルイズの裏切りだ。奴はエルシリアに我々の侵入経路を教えたらしい。でも、この作戦は今始まったわけじゃない。第一王女が生まれたその日から、ずっと準備してきたのだ。長い年月が脳裏を掠める。
「しっかりと働いてくれて嬉しいよ、ルイズ!」
嘲るように叫ぶ。騎士が放つ魔弾の軌道は、マニュアル通りの教科書的なものだ。予測可能な速度と角度。私は体を軽く傾け、魔弾を避ける。外れたそれは地面や建物に激突し、ゴォッという轟音と共に土煙が舞い上がった。視界が一瞬にして白濁し、鼻腔に土と焦げた臭いが突き刺さる。だが、心の中で笑みが広がった。怖いくらいに順調だ。
土煙が都市を覆い尽くす中、全員が懐から小瓶を取り出す。ガラスが擦れるかすかな音が響き、私はそれを握り潰す勢いで手に力を込めた。
「さあ、かくれんぼの始まりだ」
魔力を一時的にゼロにする薬。こんな状況で使うのは狂気の沙汰に思えるかもしれない。だが、これでいい。黒灰の魔女は視力が低く、魔力で敵を感知する習性がある。今、私たちが魔力を消した瞬間、彼女たちは盲目になったも同然だ。私の唇が自然と弧を描く。
「魔法も使えて視力の良い私たち亜人族が、全種族の中で一番強いことを教えてやろう、エルシリア」
背中の弓を手に取り、弦を引く。軋む音が耳に心地よい。屋根の上に立つ人影に矢先を定める。土煙の中で、敵は混乱している。デタラメに魔法を放ち、青や赤の光が無秩序に飛び交う。その動きはあまりにも稚拙で、焦りが透けて見えた。
「焦ってるのが丸見えだぜ?」
弦を放つ。矢が鋭い音を立てて飛び出し、土煙の海を突き抜ける。エルシリアの騎士がそれに気付いた時には、すでに腕を伸ばせば届く距離。どうする? 魔法で防ぐか? いや、詠唱する暇もない。矢は無情に肉を貫くだろう。そして、黒灰の魔女が本能的に取る行動は――
「予想通り」
上空へ逃げることだ。屋根から飛び上がったエルシリア軍は、空で立ち尽くすしかない。彼女らの顔に浮かぶ絶望が、遠目にも見えるようだった。
「放て放て放て! 容赦は無用だ!」
私の叫びと共に、下から矢の波が押し寄せる。風を切り裂く無数の矢が、空を埋め尽くし、敵を飲み込んだ。血の滴が雨のように降り注ぎ、地面に赤黒い染みを作る。
「あっさりと終わったね」
ルビーが呟き、血の雨に濡れた髪をかき上げる。「もっと楽しめるとおもっていたんだけどな~。」その声は余裕に満ち、彼女の瞳にはまだ戦いの熱が宿っている。私は足元に転がる死体を見下ろした。矢に貫かれ、剣山のようになった騎士の亡骸を軽く蹴る。
「そーだな。でも今の敵は全員戦争経験のないド素人だ。」
死体が地面に沈み込む鈍い音が響く。すると、かすかに震える声が聞こえた。
「ほ~、まだ意識はあるか」
目の前に横たわる女騎士が、血まみれの顔でニッと不気味に笑う。「もうすぐ……お前も…………こちら側にくる」その言葉と共に、彼女は最後の力を振り絞り、杖を天に掲げた。杖先から赤い光が迸り、大きな火球が夜空に浮かぶ。まるで第二の太陽のように周囲を照らし、暗闇を切り裂いた。そして、やがて闇に溶けるように消えた。
「それだけか?」
私たちは笑いものを見るように顔を見合わせた。だが、その「それだけ」が私たちを打ち負かすための鍵だったと気付いたのは、次の瞬間だった。突風が土煙を一掃し、視界が開ける。そして、そこに立っていたのは――
「どういう事イルマ?」
ルビーの声が震え、さっきまでの余裕が消え失せる。私たちの計画は、ルイズの報告とまるで違っていた。敵は私たちを殺すための駒ではなく、時間稼ぎの駒だったのだ。
「なんで器が目を覚ましてる!?」
目の前に立つ一人の子供。その小さな影が、私たちの勝利を一瞬にして覆した。心臓が凍りつき、背筋に冷たい汗が流れる。この戦いは、まだ終わっていなかった。