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と或る王の物語   作者: 雪野千夏
第一部 国売りのセド

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4-12

 小者然とした男は机の上に薄茶けた紙を広げた。

「砦を出るときは武器庫と西門だけはお避け下さい、兵も多い。女たちは南門近くの兵舎におります」


 ギミナジウスの国境の要衝サワーウィン砦の詳細な見取り図。しかも武器庫と貯蔵庫の横の数字に、イリシャ王女は小さく目を見張った。マルドミ軍と武器の数と兵糧の貯蓄量など、おいそれと手に入るものではない。改めて目の前の目立たぬ風貌の男を一瞥すると、疑心を胸に平然と続けた。


「ならば南門から出て、森へ抜けるのがよいか」

「はい。南門を出ると道はあるが街道に近く、人目につきやすい。恐らくそれが一番安全かと。カバレフ大隊長が出るならすぐに平野に出られる西門からでしょう」

 男は当然のように肯く。

「分かった。それにしてもお前が初めて私の前に現れてからひと月も経っていない。よくもこれだけの見取り図を作れたな。さすが監査官といったところか」

「……仕事でございますから」


 監査官。マルドミ軍で軍規違反を粛清する官の名を口にしても露ほども動揺を見せなかった。それでも男の眉が少し動いたのをイリシャ王女は見逃さなかった。


「仕事か」

「はい」

 重ねた問いに、男は肯いた。あくまで小者としての態度を崩さなかった。それからしばらく、二人は黙って見取り図に目を落としていた。

「来ると思うか?」

 長い沈黙のあと、イリシャ王女は窓の外に目をやった。川面に水鳥が二羽走っている。

「来ないと思われるのですか?」

 男の言葉に初めて色が滲んだ。意外だ、と目を見張っている様が目に浮かぶ声に、イリシャ王女は目を細めた。


「いや、ピートなら来るだろう」

 確信に満ちた声だった。その顔に疲労の色があったとしても、部下を疑うことのないその声音は正しく為政者としてのそれだった。

 男はイリシャ王女を、イリシャ王女は男を見た。

「本当に――」

 イリシャ王女は言った。

「約束は守ります。だからこそ、我らを信じたのでしょう」


 平然と、念を押すように肯く男に、イリシャ王女は気づかれぬよう奥歯を噛みしめた。

 男は静かに机の上の見取り図を折り畳み、懐に入れる。

 それでは、と扉へ向かおうとした男は振り返った。訝し気な表情のイリシャ王女に、片脇に抱えていた古布に包まれた長い棒状の物を差し出した。


「こちらをお返ししておきます」

「これは……」


 包みを開いたイリシャ王女は目を見張り、男と手の中の剣を見比べた。

 捕虜となったときに取り上げられたその剣は、父王から成人の時に賜ったものだ。代々王となる者に受け継がれる、イリシャ王女の正統性を示す剣だ。


「よいのか?」

 この剣を持つ者がナジキグの王である。侵略してきたマルドミ軍に属する目の前の男がそのことを知らないとは考えられない。

「ええ」

 男は何でもないことのように頷く。

「だが――」

 言いかけたイリシャ王女に、男はすっと片手を上げ、扉を見た。イリシャ王女もすぐさま口を閉じ、男の視線を追って扉を見た。扉の向こうには見張りの兵士が二人いたはずだ。


 だが今、兵士の気配はない。変わりに別の、武器を持った人間の気配がした。

「二人か。見くびられたものだな」


 イリシャ王女は、静かに受け取ったばかりの剣を抜いた。

 女でなければといわれた武芸は伊達ではない。躊躇なく侵入者を迎え撃つべく扉の脇に立ったイリシャ王女に、男は短剣を抜くとイリシャ王女を自分の後ろ、扉の陰に押し込んだ。


「王女に前衛をさせるわけにはまいりません」


 小さくも憮然とした口調だった。イリシャ王女は男の背中を見つめ、剣を握りなおし、その時をまった。


 ※


 王女がいる。

 見張りの兵士の会話をきいたピートは階段の陰から飛び出した。慎重に行く、と様子をうかがっていたんじゃなかったのか。


「おい」


 ブロードも慌てて飛び出し、手を伸ばした。鎧をまとった兵士が倒れれば大きな音が立つ。中に王女以外がいた場合気づかれてしまう。ブロードはピートに昏倒させられた兵士を静かに廊下に転がした。ピートは王女がいるだろう部屋の扉を丹念に確認していた。ブロードの視線に気づくと、床に転がる兵士を見て気まずげに視線を揺らした。牢にいたときのピートの顔だった。ブロードは気にするなと小さく肩をすくめると、扉をちらと見て二本指をたてた。ピートは静かに剣を抜き、自分が先に突入するから扉を開けろ、と顎で扉をさした。

 すでに扉の向こうの相手も気づいている。武器をもった人間の気配がした。

 ブロードは頷き剣を抜いた。一度だけピートを見ると、勢いよく扉を蹴った。

 ピートは滑り込む。突き出された剣と切り結ぶ。その横を小さな影が駆け抜ける。ブロードに向かっていく。


「イリシャ様!」


 男と切り結んだピートは動けない。叫んだ。

 悲鳴のような声に、ブロードはとっさに背を反らすことで、振り下ろしかけた剣を止めた。目の前を長い髪と剣先が過ぎた。王女か。ブロードは確認すべく視線を落とした。だが、侵入者を排除すべきと動いていたイリシャ王女は、次の攻撃を避けるべくしゃがんでいたその体勢のままブロードの足を掬い上げた。芯をとらえた攻撃だった。ブロードの体は宙に浮いた。ブロードは体勢を整えようと体をよじった。そのせいで隙ができた。イリシャ王女はすかさずブロードの首を締め上げた。

 ここまでがピートがイリシャ王女の名前を呼び、目の前の男に殺意がないのを確かめて互いに剣を下ろす、ほんのわずかの時間の出来事だった。


「お」


 ブロードは首を絞められながらも、後頭部にあたる胸の柔らかさに声を出した。イリシャ王女は一瞬力を抜いた。すぐに絞め落とそうと的確に急所を絞めなおした。


「イリシャ様、お放しください。そのものは味方にございます」

 ピートは慌てて二人に駆け寄った。

「……ピートか、誰だこれは。知らない顔だな」


 イリシャ王女は解放しろと自分の腕をたたく男と、頼りになる臣下を交互に見た。


「ここへ侵入するのに協力してもらった商人です。お放しいただいても大丈夫です。こら、イリシャ様に触れるな!」

「おいおい、無茶言うなよ。拘束されているのはこっちだぜ、不可抗力だ」

「それでもだ」


 ピートは唸った。イリシャ王女はピートとブロードを見比べ、拘束する力を少し緩めた。ブロードはすかさずイリシャ王女と自分の首の間に指を入れ、さらりとイリシャ王女の絞め技から抜け出した。

「なっ」


 イリシャ王女も武芸の腕には覚えがある。力を緩めたとはいえ、そんな簡単に抜け出せるような拘束をした覚えはない。小さく目を見張った。


「わりいな、いつもならちゃんと気づくんだけどな。それにしても女にしてはえげつないな」


 ブロードは器用に片眉を上げた。首筋を軽くさすると、床に転がった剣を拾う。さりげなく扉の前に移動し退路を断つと、明らかに砦の人間ではない男に切っ先を向けた。


「で、こいつはいいのかい。この国の人間には見えないが」


 飄々としながら隙のない身のこなし。さきほどあっさりと足払いにかけられたのすら計算だったのではないか。そう感じさせる視線と足運びだった。

 だが騎士ではない。

 剣を向けられた男はブロードのことをそう判断すると、持っていた剣から手を離し、両手を上げた。


「剣を下ろしてください。私にあなた方を害する気はありません」

「何者だ」

 男はちらとイリシャ王女を見た。


「マルドミ軍監査官、グレコ・ダルトニーと申します」

「マルドミだと?」

「はい、今はラブレヒト将軍の旗下にございます」


 ブロードとピートは同時にグレコと名乗った男に剣を向けた。

 生かすか、殺すか。二人の頭の中をその二つが駆け巡った。ピートは男の目を見た。剣を振り上げた。


「待て、ピート」

「イリシャ様、なぜ止めるのです」

 ピートは信じられないという顔でイリシャ王女を見た。


「……その男は私を助けようとしてくれたのだ」

「……」

「……」

「話を聞いていただけますか?」


 男はゆっくりと床に落ちた剣を拾い、鞘に納めた。


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