閑話 と或る文官の動揺
シャルロッテ・ダドリーは走った。国売りのセド、きな臭いとは思っていた。それでも総史庁長官であるヴァレリアンにまで何かがあるとは思っていなかった。いつもと同じ廊下を駆け抜ける。いつもは誰かしかが行きかう廊下、誰もいなかった。
心なしか空気が冷たい気がした。
総史庁の扉を開ければ中には総史庁の文官が集まっていた。皆がいっせいにシャルロッテを見た。シャルロッテは気にもしなかった。大股に彼らに近づいた。焦ったように彼らは道をあけた。
「長官!」
彼らが囲んでいた中心にいる人を確認するとかけよった。跪き恐る恐るその体に触れた。血を吸って黒ずんだ制服とは正反対の死に顔だった。そっと首に手を伸ばした。傷は貫通していた。
「戻ったのか」
いつの間にか後ろにユビナウスが立っていた。
「どういうことだ」
シャルロッテとて総史庁の人間だ。ときにセドは危険を伴うこともあるのは承知している。それでも王城で総史庁長官がこんなふうに死ぬなどとは思っていなかった。
「セドの参加者たちとの謁見が始まる前だ。長官が王を諫められ、王が、剣を抜かれた」
「なぜだ、なぜ!」
シャルロッテはユビナウスの胸倉をつかんだ。
「お前は何をしていた。分かっていただろう。長官ならどうするか。だからこそお前を城に残したのだ。こんなことがないように」
お前なら止められた。その無言の信頼に、周りの文官は目を反らした。シャルロッテとユビナウスは同時期に総史庁に入り、活躍してきた。性別も性格も違うが互いに切磋琢磨していた。だからこその悔しさで、憤りだった。
ユビナウスもまた胸倉をつかまれたまま、すいと視線を外した。
「落ち着いてください、悲しいのも理不尽だと思うのも皆同じです。ですが我らは総史庁の文官なすべきことをしてください」
「なすべきことだと?」
いつもよりも数段低いユビナウスの声に、シャルロッテは顔を上げた。そして、ユビナウスの徽章が見慣れぬものになっているのに気づいた。
「私が総史庁長官となりました」
シャルロッテの視線を追って自分の胸元に落としたユビナウスが頷いた。
「なんだと?どうしてそんなこと……」
シャルロッテは呆然と、ユビナウスの顔を見た。胸倉を掴んでいた手を離した。数歩、後ずさった。よろけたシャルロッテに近くにいた文官が椅子を差し出した。
「ああ、すまない」
シャルロッテは倒れこむように、椅子に座ると、差し出された水を一気にあおった。そうしてすぐに立ち上がり、彼らに背を向けた。
「どこへ行くのです?」
「いつまでも長官をそのままにはしておけないだろう。夫人にお返しに行かなければ。着替えてくる」
ユビナウスの問いに、花街帰りの華やかな服のシャルロッテは沈鬱な面持ちで答え、総史庁を出た。
※
「なぜ」
ヴァレリアン総史庁長官夫人・マーガレットはそう言ったきりその場から動かなかった。
「旦那様」
小間使いのポーレットが棺に駆け寄った。
王使としてやってきた近衛騎士はそんな彼女たちを前に朗々と告げた。
「総史庁長官は、王が進めようとされたセドに異を唱えられ、セドの開始を意図的に遅らせたため、王により処断されました」
王によって手討ちになった者には王の近衛により、その罪が家族に告げられる。
夕暮れ時、道には人も多く、周囲の屋敷の者たちも物々しい黒い馬車に道に出てきている。
ならいとはいえ、残酷な処断だ。ここが王に逆らったものの家だと大々的に広めることになるこの見世物に、シャルロッテは王使の後ろでただ忍の一字、耐えた。
こんなことは違うのだ、と大声で言いたかったが、シャルロッテに王に逆らう力はない。大声で泣き叫ぶ小間使いの涙も、その後ろで呆然と立ち尽くす夫人の虚ろな瞳も、好奇の目でいつもよりゆっくりと屋敷の前を通る人々の眼差しも。そのすべてに怒鳴り返したいのにできず、シャルロッテは、ただの仕事として口上を告げた近衛騎士が去るのを待つしかなかった。
近衛騎士が去ってもポーレットは泣いていた。夫人もまた感情の抜け落ちた顔で棺を見つめていた。放っておけばいつまでもそうしていそうで、シャルロッテは自分が乗って来た馬車の馭者に棺を運ぶよう指示すると、ポーレットを励まし、夫人を抱え応接間に入った。
棺の中、長官は眠っているようだった。夫人は長官の首にある見慣れぬ襟巻に手を伸ばした。
「傷がありますので、私のもので恐縮ですが仮に巻かせていただきました」
男装して花街へ行くシャルロッテを面白がった長官が、昇進祝いにくれたルビシャム製の男物の襟巻だ。
「どちらでも使えるだろう」と長官は悪戯っぽく笑っていた。
「ええ、覚えていますわ。総史庁にいる女性の部下に贈るから選んでほしい、と言われたときはこんなにも堂々と愛人の相談をするものかと思いましたもの」
「わたくしは―――」
「分かっていますわ。そんな関係ではないと。シャルロッテ・ダドリー様」
夫人はまっすぐにシャルロッテを見た。その瞳には光が戻り、賢夫人と噂される知性と若き日は求婚者が列をなしたという話に違わぬ佇まいだった。
シャルロッテは胸に手を当て、片膝を折った。こんなふうに死ぬべき人ではなかった。惜しい人を亡くした。お世話になりました。そのどれもが、今夫人にかけるにはあまりにも薄っぺらく思えた。
最大限の敬意を示したシャルロッテに、夫人は棺で眠る長官を見つめて言った。
「ああそうだわ」
最近西で作られた自動機械のような抑揚に、シャルロッテは心配げに顔をあげた。
「今日はね、あの人とお食事をする予定だったのよ。セドの前は忙しいでしょう。だから毎月、セドが終わったら私の作った料理を食べてもらうの」
「奥様のですか」
「ええ。趣味なのよ。だからこんな日は……召し上がっていって」
夫人は小首を傾げ、微笑んだ。
「では、遠慮なく」
その言葉が正しかったのかは分からなかったが、夫人は嬉しそうに笑った。
※
健啖家だった長官のための食事だけあり、夕食は手の込んだものだった。何日も煮込んだだろうシチューにシャルロッテは匙を運んだ。
「あの人は仕事ばかりの人でしょう?」
夫人はずいぶんと饒舌だった。悲しいときに泣くだけが人間ではない。そんなことを知っている程度にはシャルロッテもいくつもの出来事を乗り越えてきた。夫人に合わせ、微笑んだ。
「確かに、いつお屋敷に帰っているのかと思うことはありました」
「そうよ、あの人ったらいつも私が寝ているうちから仕事に行くのだもの。行ってらっしゃいくらい言ってあげたかったわ。でもね、かわりにお手紙をおいていってくださるの。私はね、起きてからそれを見てあの人と会話するの。……おかしいかしら?」
「いえ、長官は何かあるといつも奥様とポーレット殿のことをお話されておりました。堅物で面白味もなく、出世欲もない自分によく尽くしてくれる。ありがたいと」
「ふふ、そうなの?私もね、あなたのこときいていたのよ」
「どのような話でしょう。少し怖いですね」
「心配しなくても大丈夫よ。悪いことではないわ。あの人、あなたのこと子供みたいに思っていたのよ」
子どものいない長官は若い文官たちをそう思っていることは周知のことだった。
「有難いことです」
「私もね、話でしか知らないけれど娘みたいに思っていたの。いつか会いたいわ、て。総史庁で男の方に交じって働いている方がどんな方か興味があったの。それに、ね」
夫人はそういうと「ちょっとお待ちになって」と部屋を出て行った。客がいるのに食事中に席を立つなどありえないことだ。シャルロッテは内心で驚きながら、待った。
戻ってきた夫人の手には封筒があった。夫人は中座を詫びると、シャルロッテに封筒を差し出した。
「あの人は心配していたの。シャルロッテ様は仕事ばかりでどんどん婚期が遅れていくと」
「余計なお世話です」
シャルロッテは苦笑した。
「そうね、でもあの人は少し固いところのある人だから」
夫人は柔らかく微笑んだ。
「受け取ってあげていただければ嬉しいわ」
「そうですね、ありがとうございます」
シャルロッテは受け取った。その後はゆっくりと他愛もない話をし、長官の代わりに夜の晩酌に付き合い、屋敷を出た。
シャルロッテが定宿であるサンタロスに戻ったときには夜も大分更けていた。
※
夜も更けたサンタロスの一階、シャルロッテは人のいない食事処の片隅で一人酒をかたむけた。
「クリスを呼びましょうか」
通りがかった店主の声は幾分沈んでいた。結い上げた白髪は客前とは違い緩やかに背を流れる。
「いや、いい」
労わるようなその表情に、すでに長官の死は広まっているのだとシャルロッテは思った。
「何か残っていないか、なんでもいい」
腹は減っていないが、何かを食べたかった。長官のための食事ではなく、自分のための食事を。出されたのは、スープの出がらしにパンを浸したものだった。
「こんなもので申し訳ありません」
「いや、有難い」
スープを持ってきた店主はそのまま、シャルロッテの向かいの席に腰を下ろした。訝し気なシャルロッテの視線に頷いた。
「こんな日は一人でいない方がいい。壁だと思って吐き出すのも手ですよ」
「私を誰だと思っている?そう所かまわず話せるか」
サンタロスのような花街に出入りをしていても、シャルロッテが信を置かれているのはひとえにその口の堅さによるものだ。情報を拾うことはあっても、洩らすことはない。
店主は「そうですね」と言ったものの、席を立とうとはしなかった。
シャルロッテはゆっくりと自分のために匙を動かした。薄味のスープは臓腑にしみた。
「あの方は一度もここへはお運びくださいませんでしたね」
店主がぽつりと言った。
「そうだな、奥様を愛していた」
「別に、お食事だけでもよろしかったのに」
「それができない人だから来てほしかったのだろう?」
「……寂しゅうございますね」
「ああ」
「悔しゅうございますね」
「……」
悔しいといえば、王を否定することになる。シャルロッテは黙って目の前の女性を見た。
「……もっと……何かできることはございますか?」
年を経てなお、この街を生き抜いてきた女の目は切実な色を宿していた。
「十分だ」
シャルロッテは首を振った。
それきり黙ったシャルロッテに、店主はおもむろに机の上の封筒に目をやった。
「そちらは?」
わざとらしい話の転換に、シャルロッテは頷いた。
「ああ、夫人から預かった。どうやら長官は私が未婚なのを気にしていたらしい。自分で仕事を振っておきながら」
「ああ、らしいですわね。では、そこにはお相手のお名前が?」
「だろうな。不謹慎だろうが、気が乗らない」
シャルロッテはぴらりと封筒を振った。
「そんなことを仰らず、ご覧なさいな。私も長官の選んだ人に興味がありますわ」
「なんだ、さっきまではしんみりしていたのに」
「それとこれとは別ですわ。さあ」
シャルロッテは腰元に常備しているペーパーナイフを取り出し、封を切った。さっと目を通し、すぐに紙を封に戻し、席を立った。
「何か?」
店主が訝し気にシャルロッテを見た。
「いや、いけすかない男の名前だった。やはり長官は死んでも堅苦しい。ありがとう、部屋に戻る」
シャルロッテは肩をすくめて苦笑いすると、飲みかけの酒を片手にその場を後にした。
シャルロッテは滞在している希望の間に入ると、鍵をかけた。急いで火を灯し、手紙を開いた。
『これを読んでいる者へ
副長官か、ユビナウスか、シャルロッテか。それとも別の誰かだろうか。
これを読んでいるとしたら、たぶん私はこの世にいないだろう。これは、もし私が死んでやってきた総史庁の人間で、その者を信頼できると思ったなら渡してほしいと伝えてある。
私は罪を犯した。国売りのセドに、総史庁の許可印を押した。総史庁長官としてあるまじき罪だ。だからもし、私が罰せられたとしてもそれは必然である。
長い間世話になった。新しい長官の許可印を王家の森の番人に預けてある。後は頼む
イロード・ヴァレリアン』
「長官」
シャルロッテは手紙を握りしめた。夜が明けようとしていた。
翌日、王城にシャルロッテの姿はなかった。
長官の遺体を送ったまま登城しない。その事実に総史庁の文官たちの間に沈鬱な空気が流れた。
「彼女にも時間が必要なのでしょう。彼女の分の仕事は一度私に回してください」
ユビナウスは言った。




